「非軍事的な侵略」を受け入れるべきか、それとも。

西垣通『アメリカの階梯』(講談社)   

越川芳明

 

 「アメリカの階梯」とは、一体なんだろうか。そう思いながら、二〇世紀初頭の北カリフォルニアを舞台にしたこの小説を読んでいくと、後半のほうで、「存在の階梯」というキーワードにぶつかった。ジョージ・ワシントン博士という名の、慈悲深いアメリカ人の医者の書き残した遺書の中に、この言葉が出てくるのだ。

 「此のプラトン風の思想のもとでは、神から無機物に至る、"存在の階梯"は不動であり・・・」「此のように存在の階梯を上昇してゆくことこそ、生物進化(evolution)に他ならぬ」(共に262ページ)。さらに、博士によれば、「存在の階梯を上昇してゆくこと、進歩(progress)してゆくことは当然のことながら神の御意志である」(263ページ)という。

 これは、要するに白人種が人類文明のトップに昇りつめた種族であるとする一種の優性思想であり、それを宗教の名において正当化したものだ。ヨーロッパ人は新大陸において先住民という「他者」を虐殺してきたが、その侵略を支えたのが「存在の階梯」という考えなのだ。

 西垣は『1492年のマリア』(2002年)という小説で、大航海の時代に新大陸に乗りだそうとする若いマラーノ(キリスト教に改宗したふりをしている、隠れユダヤ教徒)を主人公に据えている。キリスト教とイスラム教のどちらにも属さず、島田雅彦が小説『フランシスコ・X』の中でずばり「中立のこうもり」と称したこうした周縁人の生存を描きながら、西垣はいかにキリスト教が神の正義を広めるために多くの異教徒を虐待するか、宗教的な「使命(ルビ:ミッション)」の中に見られる皮肉を鋭く突いていた。

 『アメリカの階梯』でも、日本人の父とアメリカ人の母との間にカリフォルニアで生まれた真壁作夢(まかべさむ)という一種の周縁人が登場する。日本で養父によって育てられた作夢が、カリフォルニアに渡り、あっと驚くような出生の秘密を知るというのが、本書のメインプロットだ。

 日米が戦火をまじえそうな時代にあって、どちらの国でも、「混血」は怪しい存在として排除される。この小説はそんなアウトサイダーの目から、人種とは、民族とは、国家とは何かを問う壮大な小説だ。

 では、「アメリカの階梯」とはなんなのか。この小説では、作夢の実父、薄田信吾郎の若い頃の体験から、二〇初頭の米国によるアジア(フィリピン)への侵略が俎上に載せられている。信吾郎の解釈はこうだ。「アメリカが世界を啓蒙していくということは、決して、白人種の優位を誇示しその文明を押しつけることではない。その真意は、彼ら掲げた自由、平等、民主の思想によって、万人が平和にまとまっていくことであるのだ。それこそが、「世界が真のアメリカになる」ということであるのだ」(180ページ)

 「アメリカの階梯」とは、現在の米国主導のグローバリズムの根底にあると思える、そんな啓蒙思想のことなのではないか。だとすれば、いまや消費主義や情報通信において、すでに米国以上に米国的になってしまった日本はどう対処すべきなのか。

 「血の流れぬアメリカの非軍事的侵略をすすんで受け入れる」(291ページ)。これは作夢の胸のうちだが、著者の態度表明でもある。というのも、著者は「侵略することは侵略されることだ」という、先住民の子孫ハックの吐くパラドックスを信じているようだから。

 もちろん、それに対して激しい異論や反論も予想されるだろう。そういう意味で、本書はきわめて挑発的な小説である。

(『群像』2004年10月号)