ただの「青春小説」の枠に収まらない仕上がりに

J・D・サリンジャー(村上春樹訳)『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社)

 これまで『ライ麦畑でつかまえて』(『キャッチャー・イン・ザ・ライ』)といえば、 大人社会の「いんちき」に対する少年の反抗をたたえた「青春小説」の代名詞と思われて きた。しかし、こんどの村上春樹の訳文は、単なる「青春小説」の枠に収まりきらない仕 上がりになっている。

 たとえば、この小説は一人称で語られるが、長年親しまれてきた野崎孝訳では 「奴さん、だいたい週末のたんびに、僕んとこを見舞いに来やがるんだよ」とある部分を、 村上春樹は「だいたいいつも週末になると僕を訪ねに来てくれる」と訳す。全般的に、村 上訳のほうがやさしいソフトな口調になっている。

 口調がソフトになった分だけ、大人のように割り切れず、かといって子供のようにシンプル にも生きられない十七歳の少年の、出口なしの宙ぶらりんの状況が強調されることになった。 宙ぶらりんの状況は、少年の自己矛盾にも表われる。たとえば、少年は車の燃費ばかり気にか けているような大人の物質主義者に悪態をつくが、かれ自身だって癒しがたい浪費家であり、 消費主義的の申し子なのである。

 いっぽう、高給取りの弁護士である少年の父親は、もともとカトリック教徒の多いアイ ルランド系だが、清教徒中心のアメリカ社会で生き抜くために自らの宗教的な出自を偽っ ているらしい。そうしたプライベートな秘密の保持に父子ともがやっきになる。実娘の回 想記(『我が父サリンジャー』新潮社)によれば、サリンジャー自身の母はアイルランド 系のカトリック教徒だったが、ユダヤ系の父と結婚後してから名前をマリーから、ユダヤ 的なミリアムへと改名したという。作家は彼自身の血筋にまつわる微妙な問題をひねった 形で小説の中にそっと忍び込ませたのだ。

 日本社会における隠れキリシタンや在日コリアンにも見られるように、少数派の人たち によるそうしたアイデンティティの「擬装」もすぐれて現代的なテーマである。そうした 隠れたテーマに読者の目が行くようになったのも、こんどの村上訳の功績だろう。

(『時事通信』2003.5)