目取真俊に聞く
越川芳明
芥川賞受賞作「水滴」を読んだときの感動は、いまでも忘れない。それまで外国文学でしか、お目にかかれないと思っていた言語宇宙がそこにあった。カフカとマルケスを足して、ジョン・バースのブラックユーモアをまぶしたような、不思議な世界。主人公の老人徳正の右足がどうして冬瓜(すぶい)のように大きく膨れるのか、どうしてその親指からしたたる水を瀕死の日本兵が飲みにくるのか、まるでミステリ小説を読んでいるかのように、次から次へと疑問がわいてくる。その間にも、権威(たとえば、「ダイガクビョーイン」)とか、共同体特有のヤジ馬根性を諷刺する痛快なユーモアに腹を抱えて笑ったものだ。
オキナワの動植物にまつわる比喩や、土俗的な信仰や民間伝承をベースにした叙述に彩られているとはいえ、目取真文学の、けっして通俗のエキゾチズムに堕したりしない厳しい姿勢はどこからくるのか。あるところで、目取真は「表現者としての厳しい目と自立した姿勢が弱まれば、たちまち素材にもたれかかった、「沖縄物」と一括りにされるような作品しかかけなくなってしまう」と、語っていた。かれの「自立した姿勢」を精神的に支えているバネが何であるかは窺いしれれないが、学生時代に「原罪」あるいは実存をめぐる問題に深く悩んだことがあるという。目取真がドストエフスキーの名前を出したとき、なぜか古い友人に会ったような親しみを覚えてしまった。というのも、二十五年以上も前の学生時代に、ぼく自身もまた鬱屈した気持ちの持って行きどころを知らず、その頃手にした『罪と罰』をフィクションとしてよりも、一種の伝道の書として読んだことがあるからだ。
芥川賞受賞後の第一作になる、こんどの作品集(短編を六編収録)『魂込め(まぶいぐみ)』の表題作も、「水滴」にひけをとらない傑作である。確かに、小説の前景には、アーマン(オカヤドカリ)が主人公の口の中に宿を借りるというグロテスクな設定や、魂(まぶい)の抜けた主人公を必死に助けようとする老婆(おばー)の「魂込め」の奮闘といった、奇想天外なプロットが配されているが、遠く後景に浮かびあがるのは、やはり五十年前の戦争の後遺症である。
そうした幻想性と政治性は、目取真文学の両輪であり、互いにうまく歯車がかみ合ったとき、最大の小説的な効果を発揮するように思う。ぼくはこんどの小説集に、たとえば「魂込め」のウタや「内海」の語り手の若い男性をはじめ、神懸かりの登場人物が多いことが気になり、目取真自身の超乗現象にまつわる経験を聞きたくなった。「ぼく自身は神懸かりになったことはありません。でも、ユタや神女だけでなく、沖縄では霊力(さー)っていうんですが、霊力が高くて、魂(まぶい)を見る人がたくさんいます。そうした人たちの見たものを書くことは、世界を豊かにすると思うんです。それをたんに分裂症として片付けるんじゃなくて」
もちろん、そうした幻視の力は、もうひとつの世界のありようを示唆するものであり、「世界を豊かにする」ものではあるが、同時に、それは小説の世界そのものも豊かにするものではないだろうか。そのことを端的に物語っているのが、目取真が異例のスピード(二週間で)仕上げたという「面影と連れて(うむかじとうちりてい)」という作品である。ある若い女性の「問わず語り」という形式をとっているが、ウチナー口とヤマト口の混ざり合った言文一致の試みに挑戦した作品として高く買えると思う。ある政治犯とかかわりを持ち、集団レイプを受けてしまう女性が、雨の御嶽(うたき)の森で見る「魚の群れに混じっていろんな蝶々や鳥も飛んでいる」光景は、かぎりなく幻想的で美しい。これが文学のフィクションとしての力でなくて何だろう。だが、その若い女性の悲惨な境遇を思うとき、その見事なまでの美しさは、「権力」へのかぎりない腹立たしさに容易に反転するのである。(『エスクァイア』1999年11月号)