ミッチ・カリン(越川芳明訳)「髪をつかむカラス」

 

 

 普通ならば、ぼくは空の旅をしないことにしている。これまで何年も、空の旅をしてみないか 誘われるたびに、ぼくは拒絶してきた。それがぼく自身の自己保存の本能に反した、危険な誘い かけであると感じられたからだ。自分の身体――この宇宙体系の中で比較的微細な容器――が、 広漠たる不寛容な空間を吹き飛ばされてゆくと思っただけで、この地上に足をつけたいという気 になってしまう。ぼく自身が大海や地上のはるか上方で何時間も過ごすなんてことは、絶対にあ りえない。ぼくはながいことそう思いこんできた。自分が無残な死に向かって急降下し、黒ずん だ蒼穹から引き離されていく危険を冒すなんてことは、絶対にありえないことだ、と。

 ところが、ぼくをよく知る人たちが驚いたことに、つい最近、ぼくは空の旅をしてしまったの である。ぼくはバックパックとお気に入りのミノルタ・カメラを携えて、アリゾナ州のツーソン から旅立ち、ロサンジェルスで飛行機を乗り換えて、日本へ向かった。日本は、ぼくがながいこ と夢に見てきた国だ。その国の偉大な作家たちのおかげで、ぼくは小説を書くようになった。そ してその国の映画の、ときに濃密な語り形式に魅了されてきた。

 面白いことに、ぼくの日本旅行は、<芸術をなぞる人生>の典型だった。もっと厳密にいえば 、小説の主人公がすでに訪れたことがある場所へ、書き手である小説家があとから旅をするとい うものだった。主人公の旅をめぐる物語は数カ月前に書かれ、未完のままだった(後半部分はす でに書いてあり、前半部分に手を加えるつもりだった)。時代は二〇〇二年ではなく、一九四七 年であり、主人公の年老いたイギリス人は汽車に乗って東京から京都、広島をへて、その先まで 行くことになっていた。それに対して、書き手のぼくは広島から先には行かなかった。だから、 小説の主人公のほうがぼくよりずっと多く日本を見たといったほうが正しいかもしれない。が、 それでも、主人公の旅をなぞりながら、ぼくは草稿のあちこちにあった間違いを修正することが できた。たとえば、お好み焼きは手ではなくて箸で食べるとか、広島城は丘の上にないとか。あ るいは、原爆ドームが元安(ルビ:もとやす)川の西側にあると思っていた自分の勘違いに気づ いたりした。縮景(ルビ:しゅくけい)園の庭園については、自分の描写が正確だったので、と てもうれしかった。現に、初めてなのに庭園の中の多くの入りくんだ道を目をつぶっても歩けた のである。もちろん、ぼくの小説では、庭園は荒れ果てていたし、広島城も核爆弾の爆風で跡形 もなくなっていたのだが。

 当然ながら、ぼくの休暇旅行は、小説のための取材旅行とも見なせたかもしれない。実際、今 回の小説を構想するずっと以前から、自分がこのような旅行をすることを何年も夢見てきたのだ 。でも、それは遠い将来のことだと思っていたし、やがてこうした旅行をすることになるにして も、まさか自分が飛行機に乗るとは思ってもいなかった。ぼくは自分が船で日本に向かうと思っ ていた。おそらく大型客船か何かでヴァンクーヴァーから大阪へ、と。だが、どこかで当てがは ずれ、ぼくはシンガポール航空の窓側の席に座っていた。飛行機が実際にクラッシュするという 暗い希望を抱いて、そうしたのだ(自分が死亡する前に日本を見てみたいから、願わくば帰りの 便で)。どうして自分の死を望んだのか、ここでは詳しく立ち入ることはしないが、ひとつだけ いえば、ここ数週間のうちに、自分の生命に対する執着がなくなり、それと共に、書きたいとい う意欲もなくなり、この馬鹿ばかしい惑星で生きていくのに必要な理由も消滅したのだった。

 今回の旅行に先立つ惨めな二カ月間に、ぼくは体重を一〇キロ近く減らしていた。理想的な七 四キロの体重が不健康な六四キロになってしまっていた。ふさいだ気分を和らげるために、ぼく は医者からいろいろな薬を処方された――パクシル、セロケル、レメロン、コロナザエパム。た いていは催眠効果があるが、すべての薬に副作用がある。パクシルはぼくの性的衝動を弱めるだ けでなく、オルガスムに達するのを不可能にした。薬を飲みだしてすぐに、飲むのをやめ、自分 の力でこの苦しみを引き受けることにした。

 そうしながらも、ぼくは自分の生命を絶つにはどの方法が一番かとあれこれ思いをめぐらし始 めていた。首をくくるのは難しいだけでなく、ひどく痛そうに思えた。頭に銃弾を撃ち込んでも いいが、万が一死にきれずに脳障害でも起こしたら困る。手首を切るのもいいが、血だらけにな る。睡眠薬も悪くないが、致死量の薬をどうやって手に入れられるだろうか。ぼくにわかったの は、自分を殺すという行為はクリーンでもなければ簡単でもなく、首尾よくやり遂げるには堅い 決意を必要とするということだった。
 「空の旅は、どうだろう」と、ぼくのセラピストがほのめかした。
 「空の旅はダメだよ」と、ぼく。
 「どうして」
 「どうしてもダメ。飛行機事故で死にたくないし」
 「空の旅はイヤだけど、その割には、自殺をあれこれ考えているね」
 「ええっ、どういうこと?」
 「いいかい、きみは死にたいと思っているが、なかなか決心がつかない。だから、 飛行機に乗ってリスクを冒すという手もあるんじゃないの、と思ってね」
 そうか。ぼくはすでにその可能性を探りはじめていた。

 というわけで、ぼくは三週間後に、成田空港まであと四三分の上空を飛んでいた。窓から眺め ると、下の方に黄昏どきの有機的で、白く暗い領域(日光と雲と海)が見えた。やがてある大き な陸塊が目に入ってきた。夕暮れにひとつのシルエットのように浮かび上がった。窓の外に見え たそれは、やがて夜の闇の中に消えていったが、それが富士山だったと知ったのは、ずっと後の ことだった。ずいぶん幸先がいいですね。ぼくは後でそう人からいわれた。それがぼくの見た日 本の景色の中で最初のものだったからだ。だけど、二週間の旅のあいだ、ぼくは二度と富士山を 見ることはなかった。新幹線で東京から神戸、広島へ行くときも、そこからふたたび東京へ戻っ てくるときも。

 いま東京での滞在を振り返り、ぼくがふと思い浮かべるのは、この都市の大きさではない(建 物や道路や路線図からなる奇妙なモザイク。新しいものと古いものが共存した状態――あたかも 偶然の出来事によって生まれたにもかかわらず、どれもが活き活きしているかのようだ――それ は、なぜかアントニオ・ガウディの不思議なこの世ならぬ建築物を思い出させたりもするが)。 あるいは、ラスヴェガスの夜の繁華街を髣髴とさせる、黄昏のあとのこの都市の明るさ(電気提 灯に輝く狭い横丁、飲み屋やそば屋のひさし、パチンコ店の点滅するネオン、新宿、渋谷、池袋 といった町の上空に大きく輝くコンピュータ仕掛けの広告)でもない。ぼくは、そうした光輝く 光景の中に存在したはずの暗闇も思いだせないし、足早に歩く人々とそれよりさらに早く走る自 動車のあいだの、偶然のようであり象徴的でもあるような関係も思いだせない。

 いや、いま東京での滞在を振り返り、ぼくが思い浮かべるのは、毎朝ぼくの前に姿をあらわし たあの捕らえがたいカラスたちだ。ぼくがそれまでアメリカで見たことがないような大きさのカ ラスだった。巨大な頭と体をもち、鈍くよどんだ空に向かって頻繁に鳴き叫んでいた。何千羽も のカラスが夜明け前にどこからともなくやってきて、巨大な嘴でゴミ袋を突き破り、前夜の残飯 を漁る。夕方にはどこかに完全に姿をくらまして、やがて夜が更けて道路にほんの少しのあいだ 、人気がなくなるのを待つのだ。毎朝、カラスはまだ薄暗いうちにやってきて、エコーのきいた 騒々しい鳴き声でぼくを目覚めさせた。ぼくは池袋の宿<グランド・ハウス>から近くのエクセ ルシオ・カフェに向かいながら、何度もカラスたちにカメラを向けた。すると、まるで撮影のキ ューの合図をしたかのように、かれらはぱっと散ってしまうのだった。ぼくは日本で三六枚撮り の白黒フィルムを二七本使ったが、たったの一度だけ、一羽のカラスを捕らえることができただ けだった。そのカラスは、ぼくがシャッターを切ったその瞬間に信号から上空に飛びさったのだ 。 

 もちろん、カラス以外にもこのカメラで多くの被写体を撮った。この信頼のおけるカメラにつ いては、アリゾナに帰ったら、おごそかに引退の儀式を執り行い、クローゼットの中に納めて二 度と使わないことにしていた。ここで、打ち明けておこう。ぼくの愛用のミノルタには名前があ る。ぼくのいま使っているコンピュータはもちろんのこと、その昔初めて手に入れたトラックに も名前はついていたが、このカメラの名前は高校時代からシーモアだった。ある観点からすれば 、この旅は、ぼくにとってだけでなく、シーモアにとってもある意味を持っていたといえる。シ ーモアは二十年近くぼくに尽くしてくれたが、ついに寄る年波には勝てなくなった(レンズには 無数の疵ができてしまい、白黒の写真に薄く紫色の影がはいるようになったのだ)。にもかかわ らず、もはや小説が書けそうになかったぼくにとって、この日本の旅は写真を撮る悦びを思い出 させてくれた。写真はぼくの大切な趣味だったが、十五年以上前に創作を始めたときにやめてし まっていた。それのいいところは、創作と違い、芸術家に自分を超えた何かを見るよう要請しつ つ、一つの世界観を表現することを許容するという点である。写真術とは、間違いなくあらゆる 芸術形式の中で最も無私な芸術である。ぼくは自分自身の個人的な問題に囚われ疑心暗鬼にさい なまれていたので、丈夫で頼もしいシーモアにまさる旅の道連れはいなかったのだ。

 シーモアが撮ってくれた何百枚もの写真の中には、新宿駅の前で物乞いをする托鉢僧とか、チ ューバを吹き鳴らす京都の警官とか、キーボードとトランペットを同時に演奏する神戸のユニセ ックスの若者、“WELCOME TO HIROSHIMA”と、英語だけでそっけなく書かれた道路標識などがあった。宮島では、一 匹の猿の写真を撮った。ぼくがカメラを近づけると、猿は悲鳴をあげてぼくの片足を押しのけたも のだった。これが、ぼくが日本で経験した唯一の、外国人への排他的な反応だったが、ほかの観光 客は――みなアジア人だったが――それを見て喜んでいた。あとで振り返ってみると、もし見知ら ぬ人がカメラを持ってあれほど身近に迫ってきたら、ぼくだって、同じような反応をしただろうと 思う。

 そうはいっても、今回の旅は、これまで本で読んだり映画で見たことしかないあこがれの土地へ の、単なる撮影旅行ではなかった。また、それは自分の抱えていた問題からの、単なる逃避旅行で もなかったが、忘却の望みを携えてきたことだけは否定できない。アリゾナの砂漠を忘れ、出口 のない苦悩から自分自身を切り離したかったのだ。実のところ、ぼくは生まれて初めて完全に独 りになりたかった。独りで、共通の言語もなく、ユニークな国をうろつきまわり、自力で行き先 を判断することを強いられることを望んだのだ。小説の奇抜な登場人物のように、ぼくは生ける 幽霊となって、こちらの姿を見られずに生者の世界を動きまわりたかった。独りでいることと孤 独感のちがいも知りたかった。ふたつの似てはいるが互いに関連のない存在のあり様をこれまで 以上に理解してから、アリゾナに帰ってきたかった。つまるところ、精神的な変化を遂げてから 、砂漠に戻ってきたかったのだ。独りであるという運命を受け入れ、と同時にこの地球上なり宇 宙において自分は独りっきりではない、ということを知った人間として。

 当初のカルチャー・ショックが和らぐと、ぼくは、どのホテルに泊まることになるにせよ、夕 方になると襲ってくる孤独と格闘した。ツーソンに戻っても、同じような方法で対処することが わかっていた。テレビをつけ、缶ビールを飲み、ベッドかソファに横になるのだ。しかし、いま のところ、このパラレルワールドは――ホテルの部屋はぼくの家のダイニングよりも小さく、浴 槽はコンパクトで深く、テレビ番組は面白そうだが言葉がわからない――それだけで十分快適だ った。中には、アダルト映画が見られるホテルもあったが、あらかじめ千円分の専用カードを買 わなければならなかった。その映画の中でも、セックスは別世界のヴィジョンのように見えた。 男女の性器はコンピュータの作りだしたモザイクによって隠され、許可された精液の映像だけが 、その行為が“本番”であることを示唆していて、映像の中でその液体は相手の顎か乳房か腹部 にまき散らかされるのだ。しかし、わずかに感じた興奮も、ほろ酔いと故郷への思いによって萎 んでしまった。ぼくは日本ではセックスを、人間的な触れ合いを求めていなかった。ぼくが求め ていたのは、独りでいることであり、精神の安定だった。しばしばぼくはテレビをつけたまま眠 りこんでしまっていた。ぼくの眠っているあいだ、テレビの映像は、まるで思い出しかけた中途 半端な夢のように流れていた。プロ野球のゲーム、北朝鮮によって拉致された日本人をめぐり果 てしなくつづくニュース番組、嵐の到来を告げる天気予報などだ。朝になると、ぼくは期待を抱 きながら目を覚まし、カラスたちの鳴き声に耳をすました。すでにカラスの声が耳に届いていた ときもある。そういうふうに、新しい旅と探検の一日が始まるのだった。ぼくはほとんどいつも 夜明け前にホテルを出て、朝食を食べにいき、それからコーヒーショップに行き、駅に向かった 。

 歩道を行き交う人々を眺めたり、込み合ったそば屋で相席でそばをすすったり、すし詰めの電 車に乗ったりしているうちに、ぼくは日本人の中に自分には欠けている何かがありそうだ、と思 うようになった。何かとは、ある種の広々とした内的スペースというべきもので、そこはあれほ ど多くの人々と一緒にあれほど小さな外的スペースに置かれたときに、日本人の自我が逃げこむ ことができる場所なのだ。電車の中で、知らない者同士が押し合いながら、眠ったり読書したり 考え込んだりしていたが、互いに体が触れていることに気づいていないように見えた。そのあい だに、日本人はどこか別のところにいってしまっているとしか思えない。物理的な世界から切り 離された、どこか内側の世界に。それに対して、アメリカ人は――とりわけ、南西部の広大な砂 漠からやってきた者などは――外なる尺度で個人のスペースを捉える傾向がある。身のまわりに 存在する何マイルものひらけた土地が基盤となっているのだ。いい換えれば、内的スペースのあ り方は通常、自分にとってどれだけ外的なスペースが手にはいるかによって決定されるのだ。日 本人はそうではない。アメリカ人よりも自然界に対して深く畏敬の念を抱きながらも、濃密で湿 度の高い、人口過剰の都市に住んでいる日本人は、広くひらけたスペースを内側にしまって一緒 に持ち運ぶのだ。ぼくも、自分の内部にそうしたスペースがほしかった――そのときのぼくの心 理状態は、ややこしく入り組んだ迷路といったところだったから――どこかこの旅の途中で、そ んなスペースを見つけられたら、と期待していた。

 あとで振り返ってみると、ぼくは目的(ルビ:あて)のない巡礼者のようだった。必要な情報 を求めていながら、どのような質問をしたらいいのか、どのような答えを探せばいいのか分かっ ていなかった。ひょっとしてぼくは、独りで日本にやってきて――独りで町から町へと渡り歩き 、ほかの白人と出会ってもほとんど目を合わせることもなく――人生の指針が悟りのかたちを取 って、向こうからやってきてくれることを期待していたのかもしれない。たとえ、一瞬でもあら われてくれたら、と。すると、ある日の夕方、ぼくが池袋の宿からバビロン・スタジオ(夜、横 丁をうろついていて発見した地下のサンバ・バーだ)に向かって、考え事をしながら歩いている と、ひとりの若い女性が暗がりから姿をあらわしたのだった。横丁を横切ってやってきて、女性 はぼくにこう訊いたのだ。「メッセージは、いりませんか」
 こりゃ、おどろいた。ずばりだ。「はい、いります」と、ぼくは藁にもすがるような必死の形 相で答えていた。「メッセージ、ほしいです。ください」
 「そうじゃないの」と、女性は首を横に振った。「マッサージよ。マッサージ、いりますか」
 「ああそうか」と、ぼくは答えて丁寧に微笑んだ。「ありがとう。でも、マッサージはいりませ ん。メッセージはいりますけど」
 女性はぼくに微笑み返し、ぼくの前を通り過ぎながら、肩をすくめた。その夜、ぼく蛾受け取っ たのはメッセージでもマッサージでもなく、ビールだけだった。

 あてのない探求の旅をしていないとき、ぼくは観光客らしい日程に従って行動していた。お参りしてみたいお墓があった。それはぜひ見てみたいポストモダンの記念碑であり、ぼくに生きるための指針を与えてくれそうな聖なる石碑であった(その教えがいかに漠然とした、不当なものであれ)。川崎では、ある私有地の墓地にいれてもらい、三船敏郎の墓まで案内してもらった。墓には、空っぽの缶ビールや萎れた花がそえられていた。北鎌倉では、円覚(ルビ:えんがく)寺の駐車場の近くの苔むした石段を歩いてのぼり、汽車を愛した映画監督小津安二郎の安息地を見つけた。真っ黒な大理石でできた、さいころのような墓石には、“無”とたった一文字だけが彫ってあった。なんて小津らしいのだろう、とぼくは思った。というのも、監督の亡骸が鉄道の線路のすぐそばに埋葬されていたからだ。なんて小津らしいのだろう。そこから鎌倉は、同じ路線でほんの目と鼻の先にあった。

 鎌倉駅の観光案内センターで、ぼくは年長の女性に、もうひとりの有名な監督の墓にどうやって行ったらいいかを尋ねた。女性はすぐさまカウンターの下から青色のバインダーを取り出し、鬼籍に入った著名人の名簿を指でなぞり、それらしい名前を見つけた。それから、市街地図を広げて、安養院(ルビ:あんよういん)というお寺を指さした。「クロサワさんは、ここにお眠りになっております」と、女性はいった。しかし、黒澤明はそのお寺に埋葬されてはいない。その寺のすぐ近くに、地味で質素な墓地のはずれに埋葬されているのだ。墓石は、三船敏郎や小津安二郎のそれよりも小さく、目立たない。少しだけ探すのに難儀して――黒澤明のことを忘れてしまった人々に行きかたを尋ねたり、寺の管理人に手伝ってもらったりして――ようやくその場所を突き止めることができたのだ。その夜遅く、缶ビールを二つ持って墓に戻り、一つの缶の中身を墓石にたらしながら、ぼくは自分のビールを飲んだ。そこでも、ぼくは暗闇の中に腰をおろして感謝の言葉をつぶやいた。そこにいるのはぼくと黒澤明と月だけで、ほかに誰もいなかったからだ。月明かりの助けを借りて、ぼくは小石や枯葉を拾って、その一角をきれいにした。その場を離れるときに数個の石をポケットにしまった。黒澤明の墓からは、墓石に刻まれた三つの文字にあわせて三つの黒石を持ち帰り、小津安二郎の墓からは黒石を一つだけ持ち帰った。三船敏郎の墓からも、黒石を一つ持ち帰ったが、その石はほかの石より表面がぎざぎざしていて、なぜか三船敏郎が演じた侍にふさわしいように思えた。

 広島にいるときだった。にわかに空が暗くなり激しく雨が降りだしたと思ったら、すぐに雨はやみ、空が灰色になって陽が射したりするのだった。日本の天候は、突然変わるように思えた。いま激しい風雨に見舞われても、すぐに雲が切れて穏やかになる。西テキサスの気候にそっくりだ。ぼくは広島に着いてから二日間、原爆ドームと平和記念公園に行くのを避けていた。美術館を訪れたり、お好み焼きを食べたり、宮島への小旅行をしたりして、あわただしく過ごした。アリゾナ州のツーソンを本拠地にした、ぼくの友達のバンド“キャレキシコカレシコ(Calexico)”が最近、広島で公演し、メンバーのジョーイとジョンによれば、この町には強烈なオーラが感じられるということだった。あたかも過去の破壊的なエネルギーと暴力がいまなお残っているかのようだ、と。でも、ぼくにはかれらのいうオーラなど少しも感じられなかった。少なくとも、最初のうちは。ぼくには、この町は近代的で労働者階級的に思え、わずかながら東ヨーロッパ的な雰囲気が感じられた(たぶん市電のトロリーカーと、市街地のいくつもの川にかかっている橋のせいだろう)。

 今回の旅で一番楽しかったのは、宮島神社の近くでの出来事だった。自転車で島内をまわっているあいだ、何度も見学にきている地元の生徒たちの前を通り過ぎたが、陽気なにやけたアメリカ人に手を振り、笑顔をみせてくれたものだ。「こんにちわああああ」ぼくはペダルをこぎながら、語尾を引き延ばすテキサス特有の言い方をわざとしてみた。すると、背中のほうから、笑い声が聞こえてきて、間違いなく二、三人がぼくの真似をして、テキサスとジャパニーズの混ざりあった“テクス・ジャップ”をやってみせてくれるのだった。「こんにちわああああ」と。

 原爆ドーム――と広島の壊滅を意味するすべてのもの――を避けて、ぼくは二日間リラックスして過ごしたが、最後の日がきて、我慢できなくなった。その日の朝早く、シーモアとぼくは原爆ドームのまわりを何度も行き来して、あらゆる角度から写真を撮った。最初は、その建物を写真に撮ることさえ、どうでもいいことに思えたのに。これまで何十年にもわたって無数の写真が撮られてきたのだから、ぼくがどんな写真を撮ったところで、それはみんな月並みなものになってしまう。いや、そうではない。ぼくは思い直した。広島の惨事には月並みなことなど一つもないし、日本に来てぼくがどこよりも訪れてみたいと思っていたのは、原爆ドームだったのだ。そのとき初めて、ぼくははっきりとオーラを感じ、何度もシャッターを切っていた。

 そのあと、ぼくは平和記念公園に行き、中国人のツアーのグループに紛れ込んだ。われわれは死者に捧げられた何千という折鶴を見た。原爆に負けずに盛んに枝を伸ばしている木をカメラに収めた。列をつくって平和記念資料館の中に入り、そこでようやく原爆で破壊された町の中で自分がどこにいるかを確かめることができた。ふたつの大きな模型が並んでいて、ひとつは原爆以前の町の姿を、もうひとつは原爆以後の町の姿をあらわしていた。後者の模型を見ながら、ぼくの泊まっているホテルの位置を確かめることができた。そこは真っ黒に焼けた焦土にすぎなかった。ぼくはツアーのグループから離れ資料館を暗い気分であとにした。だが、外の光の中に出てみると、川船から日本のポップ音楽が聞こえてきた。橋を渡り公園の出口までくると、オレンジ色のモホーク刈りの若者が遠くからドームをスケッチしている姿が目にとまった。作品としては粗っぽいが、ぼくは一枚三百円のクレヨンのスケッチを三枚(宮島の鳥居、原爆ドーム、広島城)買っていた。若い芸術家はうれしそうだった。ぼくもうれしかった。

 その日の夕方にふたたび原爆ドームを訪れた。この建物の前に静かにすわり、ドームの鉄骨の高いところにとまっている一羽の鶴に心奪われていると、ふと自分が、現代の爆心地(原文チェック)に連れてこられていることに気づいたのだった。ぼくが知っていたり、理解していたり、大切にしていたもののすべては、この地点から反響して地球上に広がったのだ。ぼくのお気に入りの芸術も本も映画も、さらには加速したペースで休みなく進歩を遂げるテクノロジーも、人類の奥深い恐怖心も、すべてが。この建物が象徴するものに比べたら、ぼく自身の個人的な悩みや絶望も、取るに足らないように思えた。他に何もないが、少なくともぼくは生きている。幸運にも生きている。そのことに気づくと、最後の一枚を撮るべくシーモアを取りだし、薄れてゆく黄昏の中で原爆ドームにカメラを向けた。それから、ぼくはホテルに向かって歩き出したが、後ろを振り向くな、と自分にいい聞かせた。

 ここで、ペンをおいてこの文章を終わりにしたほうがいいとも思うが、もうひとつだけ語っておきたいことがある。東京に戻ってきたとたんに激しく降り始めた雨について触れておきたい(その雨はぼくが鎌倉に出発する前に降りだし、大仏の前に立っているあいだじゅう降りつづいていた)。突風に傘が吹き飛ばされ、裏と表が反対になってしまった。それがよくある東京の天候だとしても、ぼくは地元の新聞を読めなかったし、戦後最大の台風がきているという事実を忘れていた。ふたたび池袋の宿である<グランド・ハウス>に泊まることにしたが、その夜、最上階のぼくの部屋は突風にさらされ、まるで貨物列車に乗っているみたいだった。ぼくはテレビを見ながらビールを飲んでいたが、そのうち眠ってしまっていた。ぼくは夢を見た。ぼくは暗い隅のほうに縮こまって、顔を手でおおい隠していた。二羽のカラスがぼくの頭部に舞い降りてきて、鉤爪でぼくの髪の毛を鷲づかみにしたのだ。ぼくは怖くて動けなかったが、なんとか立ちあがって走り出した。カラスは頭蓋骨の中に鉤爪を突っ込んだまま、巨大な羽を広げぼくを地上から連れ去った。

 翌朝目覚めると、台風が去ったあとで、カラスの鳴き声が遠くから聞こえてきた。前の夜、一組のカップルが切れた電線に触れて焼死し、大阪では落ちてきたガラスでガードマンが死亡し、台風の接近を見に行った女性が高波にさらわれ、どこか日本の沖あいではインドネシア船の船員が高波を逃れようと、海に飛び込んだらしかった。だけど、ぼくはカラスに上空に連れ去られたおかげで、惨事をまぬがれていた。その朝、カラスたちはそば屋とコーヒーショップに向かうぼくの上空を旋回していた。ついに、嵐は過ぎ去り、空は雲ひとつなく晴れわたり、歩道には吹き飛ばされた傘の残骸が落ちていた。ぼくには分かった。すぐにまるで嵐などなかったかのように元の姿に戻るだろう、すぐに日本は、あの鮮やかなカラスの夢と同様、ぼくにはリアルでなくなってしまうだろう、と。ぼくはふたたび自力で砂漠で生きていくことになるだろう。人間は独りで生まれ独りで死ぬということが理解できて――生きていることで、われわれは愛し、愛されるという稀有な機会に恵まれるということを理解できて――少なくともしばらくの間は、満足だった。たぶん、それだけがぼくが確実に知りうることだった。

 それから、エクセルシオ・カフェでいつものコーヒーをすすりながら、村上春樹の短編を読んでいたぼくの目は、ある一文に釘づけになった。「『でもどれだけ遠くまで行っても、自身からは逃れられない』とシマオさんは言った」(短編「UFOが釧路に降りる」より)。本当にその通りだな、とぼくは思った。本をとじ、外を眺めることにした。ぼくの目は、窓の彼方を飛びまわり、嵐があちこちで破壊したものの残骸を物色していた。カラスが長く曲がった嘴で、人間と自然とが作りだした廃墟を突きまわっていた。コーヒーが冷たくなっても、ぼくはその光景を何時間でも見ていられるような気がした。()

(『すばる』2003年4月号)