越川芳明
これは米国の一作家の個人史を綴ったものであるが、二〇世紀の米国文化史としても楽しめる本だ。
著者のディアボーンによれば、ヘンリー・ミラーは<矛盾>の人だった。インテリ嫌いを標榜しながらも、他の著名なインテリと同列で論じられることを望んだり、女性不信を募らせながらも五度も結婚をしたり、反ユダヤ主義にそまりながらユダヤ人になる妄想にふけったり、徹底した平和主義者でありながら暴力を肯定したり、と。
著者は、<ポカホンタスの神話>をジェンダー理論によって解釈し直したこともあるすぐれた女性学者であるが、本書では、そうしたミラーの矛盾した性格が、ひとつには同時代の社会的・文化的なイデオロギーの産物であること、もうひとつには特殊な家庭環境のよって育まれたということを立証しようとしている。
たとえば、ミラーの育った世紀転換期のヴィクトリア朝的な男女関係のあり方は、ヘンリー少年に大きな影響をおよぼす。テディ・ルーズヴェルト大統領を模範とするような<男らしさ>を讃美する文化イデオロギーが世の中を支配していたので、ヘンリー少年もごく自然に軍人やボクサーといった<男の世界>にあこがれ、沿岸警備を目的とする<少年隊>に入隊し、軍隊まがいの訓練を受けるにいたる。
また、後年<性表現の解放者>のような作家イメージが世間に流通するミラーであるが、少年時代には厳格なドイツ系移民の家庭で暴君的な母親に躾けられたために、その狭隘な性倫理にがんじがらめになり、自分の性欲に罪意識を感じるほどだった。
そうした時代の社会・文化的イデオロギーにそまった超保守的な男がどのように変身してゆくのか、この本は背景となる時代考証を的確にふまえながら語る。原稿用紙千枚を越える大作なのに、日本語訳も素晴らしいので、とてもスリリングな知的読書を堪能できる。
(『山形新聞』2004年3月7日ほか)