たったひとりの格闘
目取真俊『魂込め』(朝日新聞社刊、1400円)
越川芳明
今年の六月に米国のサンディエゴ市で、アジア研究(経済・政治・歴史・文学)の学会があり、ぼくは中国文学やインドのポストコロニアル文学の発表にまじって、目取真俊の文学について紹介した。目取真俊の英訳はまだなく、我ながらかなり無謀な試みであった。しかし、あとから考えてみると、ぼくにそうした破れかぶれの蛮勇を振るわせる何かが、目取真の小説にはあったような気がする。
たとえば、目取真俊のラディカルな批評的スタンスに魅せられたということがある。目取真は南の島に住んでいるという。しかし、かれの小説は、ヤマト(支配者)にもオキナワ(被支配者)にも与さず、そういう紋切り型(ステレオタイプ)の構図を突き崩そうとする。というのも、オキナワをヤマトの植民地として捉え、支配、被支配の構図で捉えようとすると、小熊英二がいうように、「「日本」や「植民地」内部の複雑さや、この二項対立に収まらない要素が捨象されてしまいやすい」(『<日本人>の境界』)からだ。目取真はオキナワにあっても、その周縁部のもっとも弱い立場(たとえば、少年と老婆)から共同体内部の権力を批判する。もちろん、天皇制に象徴されるヤマトの権力への文学的な諷刺も見られるが、それ以上に、ヤマトにあこがれるオキナワの人々(たとえば、オキナワ方言を捨て、標準語教育に邁進する教育者たち、ヤマトの番犬のようなオキナワの警察)に手厳しい。権力者や支配者だけでなく、それに追従する身内の者(自分自身もふくめて)にも批判の刃を向ける、いわば両刃の剣のようなラディカルな批評的スタンス。これは、実はジャメイカ・キンケイドの『小さな場所』や、ケアリル・フィリップスの『川を越えて』などの、ポスコロニアル小説やクレオール文学でもお馴染みのものである。
さて、新作の『魂込め(まぶいぐみ)』は、五、六十枚の短編六編からなる作品集である。なかでも、表題作が群を抜いて面白い。五十すぎの男の口のなかにアーマン(オカヤドカリ)が巣食うという奇想天外なシチュエーション、その男の心象を視点人物(老婆)の語りから読者に推測させるといった点で、芥川賞受賞作「水滴」に類似しているといえる。五十年たったいまも、沖縄戦のトラウマ(乳飲み子のときに、父と母を喪った)を抱える幸太郎と、これまた夫が沖縄戦のときに日本兵に連行されて、行方不明になり、以後天涯孤独の生涯をおくる七十をすぎたウタ。ともに、心の底に五十年も前の暗く重たい過去が、レントゲンに映った癌の影のように潜んでいる。幸太郎はその暗い影に侵食され、やがてみずからの命をそれに預けることになる。一方、霊感のつよい神女(かみんちゅ)のウタには、とてつもない試練を乗り越えた人間だけあって、孤高の厳しさと、人一倍のナイーブな優しさが同居している。目取真俊の文学を読むということは、そうした魅力的な「おばー」の世界観に触れる楽しみでもある。
たとえば、ウタおばーは、「人(ちゅー)のあの世(ぐそー)に行くのと亀の子(かーみぬくわ)の海に行くのは四十九日」という父から聞いた言い伝えを信じているが、この短編「魂込め」は、目取真がそうした言い伝えを標準語と沖縄口(うちなーぐち)のハイブリッドな混成文体で小説(フィクション)化したものともいえる。しかし、そこにいい添えねばならないのは、そうした文体の創出が、オキナワのヤマト化(ラジオ体操の奨励に見られるような)や、あるいは日本全土での退屈きわまりない均質化(文部省の学習指導要領に縛られた窮屈な日本の学校教育を見よ)とはベクトルが正反対の、創造的な営みであるということだ。つまり、目取真の小説は、日本全土の東京化、没個性化、単一化を足もとから揺るがすものであり、「単一の言語のなかに多様性をもたらす多次元的なテクスト」(エミリー・ヒックス)といえるのだ。
『魂込め』に収められたその他の作品でも、共同体において周縁に追いやられている「弱者」が扱われている。たとえば、「ブラジルおじいの酒」では、南米に移民し、 オキナワに戻ってきて、共同体から白い目で見られている偏屈で孤独な老人を、まるで共同体の代理人のように残酷に扱ったことがある「ぼく」が、老人とのやりとりを通じて経験した心の変化を書いている。「赤い椰子の葉」や「内海」も、同じ一人称による少年時代の回想形式であり、共同体の外にある、いわゆる「異界」(たとえば、基地の街)での少年の経験が小説のモチーフになっている。また、「面影と連れて(うむかじとうちりてい)」は、一人称の独白形式(これぞ「ハイブリッド文体」の見本!)によって、オキナワという社会内部で、いわれなき差別や悪戯(がんまり)を受けた若い女性の悲しい境遇を浮かびあがらせる。
しかし、忘れてならないのは、「弱者」とはいえ、こうした少年や女性が単なる被害者にとどまらない点である。新城郁夫は、「<企て>としての少年」というエッセイのなかで、目取真文学の少年が、家族や共同体にとっての「異物」であるという鋭い指摘をしているが、それをもじっていえば、たとえ小さな「異物」でも内部に執拗に存在しつづけることで、巨大な怪物(共同体の意識)と対峙し、それを侵食してやろうという気概が目取真にはある。「軍鶏(タウチー)」のタカシ少年(小学五年生)のように、共同体で最も恐れられている存在(地域のボス)に対して、復讐の暴力を振るったりするほど直接的でないまでも、目取真文学の少年や女性は一様に、かれらだけにしかない、世界へのアプローチの方法を有していて、ちょうど「魂込め」のウタおばーと同様、たとえば幻視の力で、異なる世界と過去を捉えることができる。結局のところ、目取真文学の真骨頂は、ヤマトとは異なる宇宙観を有するオキナワの文化のなかでポジティヴに捉えられてきた、通常「神懸かり」と称せられるそうした幻視力が、いまや死にかけたフィクションとしての小説そのものを蘇生させる力になるということを、小説それ自体で証明するというところにある。
「幻視する」という行為は、一見現実からの逃避を連想させるが、しかし、クリシェとステレオタイプに塗り込められた世界観に亀裂をもたらす積極的な姿勢である。というのも、幻視されたものは目取真俊のたったひとりの言葉(沖縄口と標準語)との格闘をへて、フィクション化され、それが「水滴」や「魂込め」や「面影と連れて」のように成功した場合、現実世界を多様性のもとに開くことになるからだ。
最後に、ひとつだけ、目取真俊に対してぼくからの希望が許されるとすれば、歴史をはるかに遡ってオキナワの過去(たとえば、百二十年前の「琉球処分」以降のヤマト化)を幻視する壮大な長編小説(コーマック・マッカーシーの『越境』のような)に挑戦してほしい。もし完成すれば、それはオキナワのみならず、日本じたいの近代化を再考するものとなり、ひいては世界のありようを捉え直し、変革する契機になるかもしれないからだ。(『新潮』1999年10月号)