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コッシーの読書日記(3) |
10月某日
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仕事で盛岡へ行く。新幹線に乗り込んで、さっそくレイナルド・アレナスの自伝『夜になるまえに』(新装版:国書刊行会)のページをひらく。盛岡にいた三日間、ぼくは仕事のあいまを縫って、ホテルの部屋にとじこもり、アレナスの本を読みふけった。 この亡命キューバ作家の、迫害と抑圧に彩られた人生の記述は、文句なく面白い。子供のころに、腹をすかせて家畜の糞がまじった土を食べて腹を下し巨大なムカデのような虫が尻から出てきた話とか、立って小便をしたり神と対話したりする祖母の話とか、ポーランド作家のゴンブローヴィチがアルゼンチンを去るとき、アルゼンチン人に何かアドバイスはありますかと訊かれて、「ボルヘスを殺せ」と毒ついたというエピソードとか……。 |
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どんな社会でも、周縁に追いやられる「のけ者」を扱うのが近代小説本来の役目だとすれば、皮肉にも、アレナスほど小説のネタにふさわしい人生を歩んだ人はいない。ゲイや芸術家を弾圧するカストロ政権下のキューバからマイアミへと脱出するが、そこも祖国とは違う意味で地獄だったからだ。「島ではぼくたちは沈黙を、追放を、検閲をそして、刑務所入りを強いられた。亡命先では同じ亡命者たちから軽蔑と忘却を[強いられた]」。(p.376)。 アレナスはホモセクシャルであり(男のあそこをしゃぶるシーンが何度もでてくる。ある年など、五千人以上とやったと書いてある。ということは、一日平均十三人以上も!)、反共産主義的であり(カストロと親しかったガルシア・マルケスへの怒りを隠さない)、反カトリック的であった(カトリックはいつも強者の側につき、弱者を裏切ると、アレナスはいう)。エイズによる死を前にしながらも、センチメンタルに陥らない抑制のきいたトーンで、しかもときたまさりげなくブラックユーモアをきかせて、みずからの破滅をもたらした芸術へ忠誠が語られているところがいい。
10月某日
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ピーター・アクロイド『切り裂き魔、ゴーレム』(白水社)を読む。ところは一転して、大西洋をわたって十九世紀末のロンドンの庶民の町イーストエンド。矛盾や齟齬をきたす、さまざまなタイプの言説が一堂に会すオーケストレーションとしての小説を称えたのは、ほかでもないミハイル・バフチンだが、この小説は、アレナスの自伝と同様、そのことばを裏書きするようなポリフォニックな作品といえる。 |
アクロイドは、まさに小説でしか楽しめないような、実在の人物と虚構の人物たちが遭遇する不思議な空間を創り出している。とりわけ、大英博物館の図書室で、テニスンやディッケンズを読む晩年のカール・マルクスと、金稼ぎのためにエッセイを物そうとする小説家ジョージ・ギッシングと、虚構の人物で演劇誌のライターをしているジョン・クリーが同席するくだり(第十一章)や、当代一のコメディアン、ダン・リーノがこれから生まれてくるチャーリー・チャップリンの両親の、貧しい借家を訪ねるエピソード(第三十四章)など、小説家の想像力が最大限に発揮されていて、わくわくした。
この小説のメーントピックは十九世紀末の連続猟奇殺人であるが、犯人探しはそれほど重要ではない。むしろ、今日に通じるのは、メディア(当時は、新聞、瓦版、殺人を扱った芝居や大衆小説)が、大衆の中に「殺人事件」への欲求を作り出すという逆説である。メディアの出現で、犯罪がスペクタル性を帯びるようになり、それがエスカレートすれば、メディアに乗りたいがための犯罪が生じるという、転倒がおこる。そういう犯罪とメディアの逆説をこの小説は鋭く突きながら、ユダヤ人難民や娼婦といったスラム街に住む貧者たちをゴーレムと名付けて「のけ者」扱いする大衆の心性を浮きたたせる。
10月某日
堂垣園江『ベラクルス』(講談社)を読む。この小説は、ふたつの世代から一九六八年のオリンピック以降のメキシコを見ていこうとする。小説の構成は、ピーター・アクロイドの小説ほど多様ではないが、それでも複眼的にこの世界を読み取ろうという姿勢は似ている。一方に、たとえば美術学部に席をおくグアダルーペ、その同居人で同じく美大生のトナンシン、グラダルーペの幼なじみの若い医者アレハンドロ(手紙)といった三つの若い視点を用意し、他方にグアダルーペの叔父で、まずしい共産主義者のフィリベルトの世代がいる。そうした四人の視点をかわるがわる登場させ、たとえば、土砂崩れの災害現場で腐乱死体とともに絶望的な作業をつづけるアレハンドロの手紙を通して、またはトナンシンが自ら製作するオブジェの材料にすべく墓掘りのところへ人骨を買いに行くエピソードを通して、生者の身近に死者が同居しているメキシコの現実を描く。そういう細部を丹念に積み重ねるところに、この作家のすばらしい本領が発揮されていて、読み応えがあり、本当にメキシコは駄目かもしれない、と説得されそうになる。
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しかし、途中で、ふとある疑問が猛然と湧き起ってきた。たとえば、「誰もなにも望んでなんかいないのだ」(p.93)というグアダルーペの嘆きに明らかにされているように、この小説の基調をなす現代メキシコへの失望感が、スペイン語に翻訳され、メキシコやスペイン語圏の読者に届いたとき、どれほどの説得力を持ちうるだろうか、という懸念がぼくの頭にふとよぎったのである。というのも、メキシコはメキシコ人がいくら嘆いたって、中南米の多くの小国からすれば、いつだって油断ならない怪物のような大国であることも確かなのだから。 |
(初出「すばる」2001年12月号)
Text by Yoshiaki
Koshikawa
Designed by Naoko Takahashi
Update: February 23, 2002