日本人の知らない、もう一つの「アメリカ」――国境のインディアン、キッカプー族
越川 芳明
「黒い石たち」という意味をもつ、メキシコの町がある。スペイン語で、<ピエドラス・ネグラス>という。その言葉を何度も声に出してみる。巻き舌で<・・・ラス、・・・ラス>と、日本語にない韻を踏むのが心地いい。
米国とメキシコの国境線となっているリオ・グランデ川に接したこの町で、かつて文化人類学者の今福龍太が先住民の<マタチネの踊り>を調査したことがあるらしいが、そうした特殊な目的意識をもって訪ねるのでないかぎり、ここにはとりたてて見るべき名所旧跡などはない。そもそも、「黒い石たち」はどこにあるのかわからないし、道路は埃っぽく穴ぼけだらけだ。色のついた靴など履いていたら、まるでトルティーヤの原料のトウモロコシ粉や小麦粉をまぶしたように、すぐに真っ白になってしまう。
ぼくは町の中央広場とカトリック教会を見物しにいった。メキシコの守護神、褐色の「グラダルーペの聖母」を人々がどんな風に崇めているのか、知りたかったからだ。予想できたことだったが、教会の求心力は弱いように見えた。教会の中には、誰ひとりいなかった。教会の前には、物乞いさえいなかった。
自分たちの住んでいるところに、<資本主義>というもうひとつの強力な現代宗教が入り込んできており、<モノ>という抗いがたい神様がいては、キリストの教会もかたなしなのだろう。この町では、誰もが橋を歩いて米国側に渡り、安売り大型店や河川敷のバザール会場に買出しに出かけていた。来たときと同じように、橋の番人に通行料の二五セントを払って、ぼくは米国の<イーグル・パス>に戻った。
<イーグル・パス>という英語の名前、音の響きとしては、スペイン語の<ピエドラス・ネグラス>と比べると、いかにもハンバーガーを好み、簡潔明瞭を第一に尊ぶ米国らしく、味気ない。だけど、その意味するところはかぎりなく美しく、「鷲が飛ぶ」だ。
大航海の時代に新大陸にやってきた「征服者たち」の子孫は、自分たちの言語で<エル・パソ・デル・アギーラ>といっていた。それが、十九世紀の半ば、新しい侵略者(米国人)たちによって、<イーグル・パス>と呼ばれるようになった。音は変わっても、意味はずっと「鷲が飛ぶ」だ。
その昔、先住民たちが雄大な川を隔てた、このふたつの土地を「石」や「鷲」といった視覚的なイメージと結びつけ、心の中に焼きつけたのだろう。そのとき、先住民たちはどのように発音していたのだろうか。そして、そのイメージとともに、子孫に語り継いできた歌や物語もあるはずだが。こちらが「鷲が飛ぶ」ところならば、向こうは「黒い石たち」で・・・。
ぼくが<キッカプー族>に注目するのは、十七世紀に始まるかれらの放浪のせいである。一言でいえば、<キッカプー族>の歴史は、北アメリカにおけるヨーロッパのかつての帝国の侵略の歴史を映し出す鏡なのだ。
<キッカプー族>は、もともと北の五大湖あたり、ウィスコンシンの森に住むアルゴンキアン語系の「インディアン」だった。ヨーロッパと毛皮取引きを行なっていた<イロコイ族>がイギリスやオランダから銃を手にいれ、さらなる毛皮をもとめて、<キッカプー族>を西へと追いやった。それが、「難民」としての<キッカプー族>の歴史の始まりである。
<キッカプー族>は多くの先住民がそうであるように狩猟民で、住んでいる土地で穀物を作り、その収穫が住むと、男たちは遠くの土地まで刈りに出かける。しかし、合衆国の北のはずれから南のはずれにまで移り住むようになった経緯には、十八世紀の前半の、フランスとイギリスによる新大陸での覇権争いが絡んでいる。喩えていうと、大海の嵐に遭遇した小船のように、<キッカプー族>はつねに大国の争いに翻弄されてきたのだ。
とりわけ、フランスとの関係は、小国<キッカプー族>の生き残りの戦略がうかがえて興味深い。まず十七世紀後半、ケベックのほうから侵略してきたフランス人に対して、<キッカプー族>は近隣の部族と手を組み、身を護ろうとする。フランスと友好関係にあった<ヒューロン族>や<オタワ族>と抗争を繰り返して、これをやっつけた。でも、フランスが全面的に攻撃を開始するや、<キッカプー族>はフランスと同盟を結ぶことを余儀なくされる。
いったんフランスと手を組むと、こんどはフランスの「手先」となって、イギリス側についた部族を敵にまわすことになる。たとえば、東からくる親イギリス派の<イロコイ族>と戦ったり、北の<新フランス(現在のカナダ)>とルイジアナを結ぶフランスの交易ルートの分断を画策するイギリスのお先棒を担ぐ<チカソー族>や<ナチズ族>を相手に戦ったりした。そうした功績に対して、ルイ十五世からメダルを贈られたこともあった。だが、フランスが半世紀に及ぶイギリスとの戦いに敗れ、新大陸から撤退した一七六〇年代に、<キッカプー族>は新しくスペイン領になったセントルイスあたりへと移動せざるを得なくなる。
その後、北アメリカでの覇権争いは、一七七六年に独立を宣言したアメリカ合衆国と宗主国イギリスとの争いにシフトし、それが三十数年つづくが、<キッカプー族>の矛先は定まらない。最初、東部の植民者がかれらの土地を侵略することはないというクラーク将軍の言葉を信じて、合衆国と同盟を結んだ。が、あっさり約束を反故にされ、東部人が西部(といっても、まだミシシッピ川のあたりまでだが)に移住してくるに及んで、危険を感じた<キッカプー族>は反撃に打ってでる。と同時に、まだミシガン湖あたりの領土を堅持していたイギリスに協力を仰いだ。しかし、勢いは合衆国のほうにあり、<キッカプー族>は戦いに負けては、西の土地に移住するということを繰り返す。最終的に、合衆国とイギリスとの<一八一二年戦争>の平和条約で、<キッカプ―族>を含むイギリス側についた三十四の部族は合衆国への忠誠を誓わされることなる。
<キッカプー族>の放浪は、それで終わったわけではない。一八三〇年代に、三千人の<キッカプー族>は、北はミシガン湖から南はメキシコ領までいくつかの集団に分かれる。折りしもスペインから独立を果たしたばかりのメキシコは、八百人の<キッカープー族>に、のちにテキサスと呼ばれることになるその土地にとどまることを許可する。しかし、メキシコ政府はすぐさま土地無償払い下げ制度を打ち出し、そののせいで東部の白人たちが大挙して押し寄せることになり、<キッカプー族>はアメリカ人入植者との抗争に巻き込まれ、結果的にその土地を離れなければならなくなる。
しかし、捨てる神あれば拾う神ありで、合衆国との戦争(1846-1848)に敗れたメキシコが、北の戦闘的な部族の襲撃に備えるために、<キッカプー族>に<ピエドラス・ネグラス>の近郊の平原を割り当てたのだ。このとき、<キッカプー族>とその平原に一緒にいたのが、奇しくもこれまた欧米の列強帝国の争いでフロリダからの脱出と放浪を強いられた<セミノール族>と逃亡奴隷の<セミノール黒人>であったという事実が興味深い。
ざっとかれらの歴史を拾っただけでも、<キッカプー族>はつねに結果的に負ける大国の側についてきた。なんという不運の連続か、と思う。でも、北アメリカにおいて絶滅させられた先住民の部族が数多くあるなか、小国の<キッカプー族>は現在もテキサスの居留地でギャンブル場を経営しながらしぶとく生き延びている。
そのことを思いだすとき、かれらの放浪はネガティヴな側面ばかりではないかもしれないと思うのだ。ぼくは去年と今年の二度、居留地を訪れた。ギャンブルで一発当てようというのではない。一族の長老たちに会い、<イーグル・パス>や<ピエドラス・ネグラス>がかれらの言語でどんな風に発音するのか、聞いてみたかったからだ。でも、そのささやかな願いは、まだ実現していない。
(「文学界」2003年12月号)