きれいなウソを嫌ったもうひとりの米国作家
書評 ジョン・ファンテ『塵に訊け!』
「人はきれいなウソを好む」といったのはブコウスキーだ。 小学生の頃、大統領の歓迎パレードに参加しないで、ウソの作文でっちあげて先生に誉められた。 つまらなそうだから行きませんでしたといわずに、パレードを見てすごく感動しました、とウソを 書いたらしい。作家のブコウスキーにはわかっていた、米国社会で尊重される「正直」というのは、 結局のところ、「きれいなウソ」をつきあう「偽善」の別名なのだということが。
確かに、小説もウソである。ウソといって悪ければ、作り物である。でも、それは人の好むような きれいなウソ、あるいは人が聴きたがるような気持ちのいいウソではない。たとえば、どこかの 政治家みたいに、「昔の日本は安全だったけど、いまは違法に外国人がいっぱい入ってくるから 治安がみだれる」などといったことを真顔でのたまう人間を小説に登場させたとしよう。 そうした根拠のない紋切り型の意見に対して、小説家がある一定の距離をもって風刺の一撃を 用意していないとすれば、それはただの世間への迎合主義であり、小説とはいえない。
人が聴きたがるきれいなウソを嫌ったブコウスキー。かれが絶賛した先輩作家、ジョン・ファンテ。 読者の期待が膨らむ。だが、ブコウスキーの小説にでてくる、飲んだくれの女たらしだけど、 地を這うような低いアングルから社会を呪詛する登場人物を期待していると、はぐらかされる。 正直なところ、最初のうちは何度も読むのをやめたくなった。それほど、語り手の「俺」こと、 イタリア系の青年アルトゥーロ・バンディーニは、差別主義者(メキシコ人女性に対して)で、 マザコンで、独り善がりで、臆病者で、有名作家になって女にチヤホヤされたいといった典型的な 「成功」の夢に毒されていて、ファンテという作家がどの程度このショウモナイ語り手に 距離感をもっているのか測りがたいのだ。
でも、最後まで読んでほしい。ブコウスキーと違って、この作家の得意とするところは、
野球にたとえれば、直球ではない。変化球である。それもすごく曲がるくせ球だ。たとえば、
語り手の青年がコロラド州の田舎から「成功」を夢見て、ロサンジェルスにやってくる。
安宿の大家のおばさんから、メキシコ人やユダヤ人に間違われ、差別の憂き目にあう。
出身地も大家のおばさんの勘違いからネバダ州と訂正させられる。自分の間違いを人に強引に
押しつける大家の言い草が振るっている。「ここに泊まれるのは良い人だけ、正直者だけよ」
このような腹抱絶倒の風刺的ユーモアが方々に散りばめられている『塵に聴け!』は、一言でいえば、
社会のきれいなウソに目覚める青年の「成長物語」なのだ。最大級のオチが最後にきみを待っている。
だから、モハベ砂漠で繰り広げられる最後のシーンまで一緒に旅してほしい。
絶対にきみの期待を裏切ることはないから。
『STUDIO VOICE』2003年1月
Text by Yoshiaki Koshikawa Design by OKADA Tomoyuki
Feb.2, 2003