愛について語るとき……

リチャード・パワーズ『ガラテイア2.2』(みすず書房 2001年)

 

ギリシャ神話によれば、ガラテイアというのは、キプロス王ピグマリオンが創った女性の彫刻の名前 だが、女嫌いで有名なピグマリオンは自分の創った彫刻に魅せられてしまい、 恋愛の女神アフロディーテがその彫刻に生命を吹き込んであげたという。

いま、そのギリシャの伝説を手がかりに、この小説を読み解けば、 十年も付き合った恋人を失ったばかりの、失意の小説家の「僕」、 リチャード・パワーズ(35歳)がフィリップ・レンツという名の科学者の手を借りて、 コンピュータH機号(別名、ヘレン)に「ことば」を教えていくうちに、 そのマシーンに恋してしまい、裏切られる話だと読めなくもない。 米国の中西部にある先端科学センターに所属する「神経経済学」のレンツ博士と小説家の 「僕」は、ともに底知れぬほどに「孤独な」人間であり、そういった共通点がふたりに 一種の共犯関係を結ばせ、先端マシーンに英文科の修士課程の最終試験をパスするだけの 文学的素養を教えこむことができるか、といった余興めいたプロジェクトに取り組ませる ことになる。しかし、それは原稿用紙にして千枚近いこの小説の、ほんの一部というか、 一番の外枠にある物語にすぎない。
「言ってみればこんな話だが、本当はそうじゃない」
これはこの小説の冒頭で、語りの「僕」がわれわれ読者に向かっていう言葉だ。 だが、実は小説の山場で、もう一度だけ使われる。「僕」がヘレンを育ててゆくうちに、 彼女から懇願されてCという名の女性との過去の愛の顛末を語らざるをえなくなり、 その際に前置きとして使われる言葉なのだ。

つまり、それは外枠の物語のほかにも、「愛」というものがたんに自己投影の産物に すぎぬかもしれない、という同一のモチーフをもつ複数の物語が埋めこまれていると いうことを示唆している。それらの複数の相似形の物語が互いに照らしあいながら、 最後のクライマックスで「悲しみ」の焦点を結ぶ。だから、クライマックスで読者が「 僕」とともに味わう「悲しみ」は、n乗となって押し寄せてくる、という仕掛けなのだ。

内側にある相似形の物語として、UやBやEと記号化された町での恋人Cとの暮らし、 あるいはUでのAとの恋愛(というより「僕」のAに対する勝手な妄想)が執拗に語られている。 外枠のコンピュータとの恋愛物語だけではシェリー夫人の『フランケンシュタイン』風の ファンタジーになっていただろうが、これらの自伝めいた物語のおかげで、 小説はリアリズムのほうに引きもどされる。

それにしても、この小説では、どうしてマシーンにヘレンという固有名が与えられ、逆に、 「僕」の恋人であるはずの女性のほうがCとかAとか記号化されているのだろうか。 「愛」というものが自己投影の産物にすぎず、「僕」が見て恋をしているのが対象そのもの、 女性そのものではなくて、自分の欲望や無意識の反映にすぎないとすれば、 すでに人格という「邪魔物」を有しているふたりの女性などより、まっさらな マシーンのほうがより「僕」にとって理想の女性に近い存在だからなのか。 「僕」にとって、生身の女性は不可解きわまりなく、「謎」であるという点でどの記号を使っても 違いはないからなのか。

『ガラテイア2.2』は、すでに8冊の長編小説を書いているリチャード・パワーズの5作目に あたる作品(原書は、95年刊)だが、ここでもパワーズの百科全書的知識は恐るべし、 フル活動だ。科学者たちの繰りだす科学用語やコンピュータ用語だけでなく、ときに引用符なしに、 英文学の詩や小説などの一節がそっと忍び込ませてある。一般読者には、正直言って マイナーな詩人や学術科学用語のことまではわからない。だから、訳者若島正の脚注は、 ありがたかった。面白いことに、ところどころで「僕」リチェード・パワーズがそれまでの 自作を解説していたりする。自伝的な要素をもりこんで、これまでの創作活動を総括する意味が あったのかもしれない。処女作『舞踏会へ向かう三人の農夫』の出版から数えて 10年目だったから。

(『STUDIO VOICE』2002年3月号を改稿)