嫌ならやめときな

レイモンド・フェダマン(今村楯夫訳)『嫌ならやめとけ』(水声社刊 5000円)

越川芳明

本書を読むための準備運動

(1)伝聞形式。遠い昔、知り合いから聞いた話では、フランス系・ユダヤ系・アメリカ人のフェダマンはひそかに理想の読者を想定して作品を書いており、それはサムこと、サミュエル・ベケットだという。『混沌への旅』という、セリーヌの「夜の果てへの旅」をもじったようなタイトルのベケット研究書も書いているらしい。伝聞形式の情報の怪しさ・曖昧さが『嫌ならやめとけ』の特徴である。つまり、語り手はぼく(わたし)で、主人公はノースカロラナイナの第82師団の伍長、フランス人青年だが、ときたま小説の約束事(こんなものでっち上げに決まっているが)を破って、主人公自身がしゃしゃり出て一人称で自分の体験を話し出す。こうした自己解体的な過激な反(アンチ)物語を読むと、政治的、倫理的、社会的理屈をつけて、もっともらしくまとまった説話的な物語がかえってウソくさく感じるようになるから、不思議だ。

(2)偶然と脱線。遠い昔、知り合いから聞いた話では、フェダマンは一九四二年、十八歳のときに、ナチによって家族(父、母、姉妹、叔父、叔母)が強制収容所へ連れ去られたという。かれだけは母の機転により、かろうじてクローゼットにかくまわれ、命拾いしたらしい(英語・フランス語の二重言語作品『クローゼットの中の声』を参照)。フェダマンにとって、(と、ぼくの知り合いはいったが)人生とは偶然の連続、脱線の連続、迂回につぐ迂回。個人の意志や感情や人生計画など、残酷な大儀や主義の前ではひとたまりもない。かれは偉そうな大儀や主義にもたれかかることも、それらを掲げることもない。あるのは、個人のサバイバルのみだ。「本当の人生とはイズムで終わるあの糞ではない。ナショナリズム/ショーヴィズム/ディターニズム/ペシミズム/ニヒリズム/マルキズム/キャピタリズム」(第8章「スーパーマンと現実生活」より)

(3)実験性と難解さ。遠い昔、知り合いから聞いた話では、フェダマンは三十代に沈黙を貫き、四十代になってようやく沈黙を破ったという。『嫌ならやめとけ』と姉妹作になる処女作『二倍かゼロか』(一九七一年)の活字使用法の漸進さ、もちろん、ページ番号はなく、一ページで「エピソード」(というより、主人公のオブセッションの形)は完結しているので、どこから読んでもよいのだ(と、知り合いはいっていた)。フェダマンは、自分自身実験作家ではない、ともいっているそうだ。芸術・文学作品を「実験的」と称する場合、よくて高級そうな印象、わるければクソ面白くもない難解な作品といった印象を与えがちだが、そういう理由からではなく、、むしろ『二倍かゼロか』や『嫌ならやめとけ』でしめしたような、コンクリート・ポエムのような書き方、語り方しかかれにはできないからだ。切れ切れの記憶の断片を想像力によって補完するするしかないエクリチュール。ぼくには、ちっとも難解だと思えなかった。わからないところは飛ばし読みすればいいのだから。

さて、本書は、ヨーロッパのホロコーストを逃げ延びたフランス系ユダヤ人の少年がアメリカで朝鮮戦争に出兵志願する件(時間的に、一九五〇年前後)をメインに扱っているが、テーマとしては、アメリカの夢の探求とその不可能性、希望に満ちたアメリカ大陸横断の旅とその挫折、さまざまな恋愛とたったひとつの友情(いずれも実を結ばない)、軍隊生活における生と死、語ること・書くことのウソくささといったものが見られる。しかし、どれひとつ、まともな物語に回収されることはない。ドゥルーズとガタリがいうように、「書くことは、測量すること、地図化することにかかわる」(『千のプラトー』)とすれば、読者は頭の中で、物語られた断片情報から「地図化」の営為を行ないつづける。フェダマンがいくら物語をキャンセルしたとしても、「地図」は残る。それこそが読者にとっての小説のリアリティでなくてなんだろう。

フェダマンの斬新さは、苦労して何百ページを物語った、その果てにすべてをキャンセルする裏切りにある。ふざけるな、この野郎、と読者はいいたくなるかもしれないし、一杯食わされて、ばか笑いするかもしれない。この小説はポストホロコースト小説とも呼びうるものだが、ホロコーストにまさる不条理劇はないといいたいかのように、人生を社会を同胞を毒舌を交えて突き刺すブラックユーモアが作品のそこらじゅうに充満している。それが同じホロコーストを扱う作家でも、センチメンタルきわまりない映画「ライフ・イズ・ビューティフル」の映画作家とフェダマンとの決定的なちがいである。

それにしても、二十年もの歳月をかけてようやく出版にこぎつけた今村氏には、本当に頭がさがる。印刷技術の問題からほとんど刊行の望みの少ない翻訳を黙々とつづけられ、ワープロの進化のおかげで、このほど幸い刊行にこぎつけることができたという。あとは、アカデミー賞受賞のホロコースト映画に食い足りない思いが残っているすれっからしの読者に楽しんでもらうことだけだ。でも、ぼくは無理強いはしない。本書のタイトルがいみじくも示唆するように、なにごとも嫌ならやめればいいのだから。

( 『読書人』1999年11月19日号)