「善」と「悪」と境界地帯をさぐる
ガス・ヴァン・サント監督『エレファント』(2003年)

越川芳明

 昨年、マイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』が日本でも話題を呼んだが、わたしは見にいかなかった。アメリカ人が自国の権力者たちを告発する光景を日本人が面白がるのは、まるで安全なところに立って対岸の火事を笑っているのと同じじゃないか、と思ったのだ。が、最近ビデオでこの映画を見る機会を得て、なんと情けないことに「マイケル、メチャ格好ええなあ!」と心酔してしまったのだ。

 というのも、この作品は米国映画界における<無頼のガンマン>が、ブッシュ政権や全米ライフル協会をはじめとする<悪者たち>に向かって放った痛快な一撃だったからだ。この映画は勧善懲悪というハリウッド映画の図式を踏襲しているという意味で、とても分かりやすいもうひとつの<西部劇>だった。

 ガス・ヴァン・サントの『エレファント』も、同じようにコロンバイン高校の射撃事件に題材を得ている。ムーア監督が銃器や銃弾を日用品のように売る大型スーパーを槍玉に挙げたように、ガス・ヴァン・サント監督も少年たちがインターネットで簡単に銃器を手に入れるシーンを挿入して、テクノメディア時代の<利便さ>に警告を鳴らす。どちらも米国流の消費主義の悪夢をえぐる点は同じだ。それはいったんより効率的に購買意欲を満たしてくれるその魅力の虜になったら、まるで<終点>のない<すごろくゲーム>を参加しているみたいに、決して心の満足という<終点>にたどり着けないといった悪夢のことだ。

 しかしながら、二つの映画の類似点はそこまでだ。むしろ相違点のほうが際立つ。ひとつには、『エレファント』の特徴として、ロングショットが多用されている点が挙げられる。キャメラがあたかも悪質なパパラッチみたいに、少年少女たちの背中を執拗に追いかけつづける。そうしたロングショットは、この監督がキャメラ自体の持つ暴力性に自覚的であることをしめすのみならず、<映像メディア>という新しい宗主国によって世界各地で展開されているもう一つの<植民地主義>への風刺として捉えられる。すでに『誘う女』という作品で、この監督はいかに<映像メディア>が人々の心のなかで破壊的かつグロテスクな<権力>を発揮するか、ブラックユーモアの手法で雄弁に語っているのだ。

 さらに、誰もが見てもわかるように『エレファント』は、単純な勧善懲悪の物語ではない。むしろ、<善>と<悪>の区別のつけられない境界地帯にこだわるところから、この映画がスタートしている点に注目したい。加害者も被害者も、みな等しくスクリーン上にとらえられるのだ。が、詳しく見てみると、登場する高校生の中に、いわゆる「優等生」は一人もいないことに気づかされる。とりわけ、加害者の少年たちを単純に狂人と決めつける視点が欠如している点は見逃せない。むしろ、少年が校長を撃つショットは観客に最高のカタルシスを与えさえするのだ。

 「狂気は社会によって<発明>される」と看破したのは、フランスの哲学者ミシェル・フーコーだが、その衝撃的なショットを見ている観客は、少なくとも<狂気>というラベルをその少年に貼ることから解放されて、少年自身の視点から世界を見る機会を得る。それは、通常のテレビ報道にはとうてい望めないワザであり、この映画でドキュメンタリーとドラマの境界地帯に活路を見いだしたこの監督の野心がもっともみごとに達成された部分といえるのだ。

(『朝日新聞』2004年4月8日朝刊)