エリクソンと引きこもり

ほんの少し前のことなのに、まるでそのときの記憶がごっそり盗難にあったかのように、頭から消え去ってしまっているということがある。次から次へとマスコミによって報道され、次から次へと忘れ去られる記憶たち。現代は、いわば記憶の安売りと使い捨ての時代なのだ。そんな時代に、果たして文学は、どうすればいいのだろう。まあ、結論を急がずに、まず記憶たちの再確認から始めよう。

昨年のゴールデン・ウィークに、佐賀市の無職の十七歳の少年が高速バスをハイジャッするという事件があった。少年はバスを九州から本州へと渡らせ、バスが山陽ハイウェイをひた走るあいだに、刃渡り四十センチの包丁で六十八歳になる老女を刺殺していた。テレビ映像をたっぷり意識したこの少年の「スペクタクル」的犯罪に比べると色褪せて見えるが、その後三ヵ月間に、鹿児島県の小さな町で、沖縄で、岡山で、山口で、十五歳から十七歳までの少年がかかわる殺人事件(うち二件は、金属バットで母親を殺したもの)が続出した。

連続して起こったこれらの少年事件が絶えず珍しいエサに飢えているマスコミと世間の空腹を満たし、消化されていくなかで、ぼくには消化しきれない事件があった。佐賀市のバスジャック事件の数日前のこと、愛知県豊川市の、私立高校に通う十七歳の少年が民家に侵入し、六十五歳の主婦を用意した金づちで殴り、その場にあった包丁で刺殺したという事件である。事前に逃走資金まで用意しながらも、少年は高校の身分証明書をいれた鞄を民家に残すというちぐはぐな行動に出た。しかも、逃走後たった一日でいとも簡単にJR名古屋駅前の交番に出頭してきた。その後の警察の調べに対して、少年は「人を殺す経験をしてみたかった」と供述した。この供述が、忘れがたい言葉としてぼくの心に響いてきたのは、別にその言葉が凶悪犯罪者の反社会的、非倫理的な挑発に思えたからではない。むしろ、その言葉はぼくにとって、生真面目すぎる少年の、自己の本性に忠実で率直な言葉に思えたのだ。

報道によれば、この少年は理数科系の国公立大学をめざす三年生の「特進コース」に所属し、成績はその中でもトップクラスだったというが、単に「優等生」を作り出す高速のジェットコースターに乗せられていただけではなかったのか。少年は、自分自身の人生をみずからの手で運転したくなって、そこから脱線したくなったのではないのか。ただ、不幸なことに、ソフトな脱線の仕方を知らなかった。というより、この国には全体主義的な教育方法はあっても、少年少女たちが主体的な生を育むのを後押してやる人やシステム(教育制度や学校)がほとんど存在しない。気まじめな少年は何のために生きるのか? という実存的な問いに直面したとき、人間なんてものは、社会的な体裁を取っ払えばエロス(性の願望)とタナトス(死の願望)にもてあそばれるケダモノにすぎない、という認識に達していたが、大方の少年犯罪者がそうであるように、そこから先へ出られなかったのではないか。

「大多数の人たちは魔物を、心の中と同じように外見も怪物的だと思いがちであるが、事実は全くそれに反している。通常、現実の魔物は、本当に普通な“彼”の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、実際、そのように振る舞う」

これを書いたのは、豊川の少年ではない。かれと同年生まれの“酒鬼薔薇聖斗”なる少年がそれより三年前にしたためた「懲役13年」という文章の一節である(矢幡洋『少年Aの深層心理』を参照)。豊川の少年も“酒鬼薔薇聖斗”と同じで、自分を含めた人間が「魔物」であることを知ったとき、この社会で成功するためにはどうしたらいいか、といった小手先の技術など無意味でしかなかった。

では、豊川の少年の実存的な問いに文学がどう向き合うことができるだろうか。最近の日本文学の例では、村上龍の、中学生たちの反乱を描いた『希望の国のエクソダス』があり、同じく村上龍の、青年の引きこもりを描いた『共生虫』がある。また、中学生同士の殺し合いを描いた小説・映画『バトル・ロワイアル』もある。中学・高校生というのは、外国人労働者、女性や子ども、高齢者、主婦、同性愛者、障害者、病人など、日本社会の周縁に追いやられている「他者」のひとりにほかならない。少年によるセンセーショナルな犯罪が起こると、少年自身や少年の家庭の欠陥として論じられやすいが、病んでいるのは、実はそうした「他者」を生み出す日本社会のほうである。たとえば、“酒鬼薔薇聖斗”の家族が地域社会やマスコミから受けた「社会的リンチともいうべき制裁」(矢部武『少年犯罪と闘うアメリカ』)を見れば、日本社会の特異的陰湿さがわかるし、豊川の少年が供述した「未来のある人は殺せない」という言葉にも、周縁的な「他者」をないがしろにする日本社会の「病理」が反映されている。

一方、よかれあしかれ、キリスト教の伝統のもとに培われてきた西欧の文学には、人殺しの小説(より正確にいえば、人殺しを行なう人間の内面・動機の分析)にこと欠くことがない。たとえば、太陽がまぶしかったからといって主人公がピストルで殺人を犯すカミューの『異邦人』や、高利貸の老婆を殺す算段を延々とめぐらすラスコーリニコフを主人公にした『罪と罰』がある。こんどぼくが訳したスティーヴ・エリクソンの『真夜中に海がやってきた』は、人殺しの小説というわけではないが、心になかに闇を抱えた登場人物たちの織りなす幾つものドラマからなっている。なかでも、最後まで名前が明かされない四十代の“居住者”は、ヒットラーのためにポルノ小説を書くバニング・ジェインライト(『黒い時計の旅』)の精神的兄弟ともいえる人物だが、かれは十一歳のとき、母の失踪をきっかけに自分の声を喪失する。後にカオスの音を聴き、自分の部屋に閉じこもり、通常われわれが使っている年代とは違う「アポカリプスのカレンダー」の製作にとり憑かれる。村上龍が『共生虫』で、親からもらった名前を「捨てる」引きこもりの青年ウエハラの精神的な荒野を描いたように、エリクソンもまたこの名前のない引きこもりの中年のうちなる「ケダモノ」との葛藤を描いた。ウエハラも“居住者”も、テレビのワイドショウではともに「狂気」とか「マザコン」とか「幼児性」とかいったお手軽のキーワードで、視聴者たちとは違う特殊な人間として一括処理(ルビ:カテゴライズ)されかねない人物たちだが、しかし、小説家たちは、テレビ番組とは違う別の角度から、社会それ自体の「病理」を見透かすために、みずからの想像力の中でそうした社会的な「他者」の凶暴性と添い寝したのだ。

『新潮』2001年6月号