『ドリーム エリクソンと日本作家が語る文学の未来』
(筑摩書房刊 2500円 1999年6月)
疾いを活かせ!――現代日本文学へのヒント
越川芳明
インターネットや衛星放送の普及によって、われわれの感覚は確実に無国籍化している。わざわざ飛行機に乗って外国に行かなくても、異国の生活や娯楽に関する情報が容易に取りだせたり、買い物ができたりするし、また時差(多少の寝不足)を我慢しさえすれば、リアルタイムで外国で行なわれているスポーツの実況中継を楽しむこともできる。そこでは、「日本」と外国との境界はほどんとないに等しい。われわれの前に大いなる未知の世界が待っていることを知るのに大した労力はいらない。テレビのスイッチを押すか、あるいはマウスをたった一度か二度クリックするだけでいいのだから。そういう意味では、われわれはデジタル砂漠の上を旅する「遊牧民」である。
われわれが「オルタネート・リアリティ」とか「パラレル・ワールド」といったフィクションに惹かれるのは、そんなデジタル的感性の表われではないだろうか。アメリカ作家のスティーヴ・エリクソンは執拗に「アメリカ」にこだわる。現にいま存在している「USA」ではなく、そもそもアメリカという共和国が成り立ったときの「理念」としての「アメリカ」に。現に存在している「USA」しか認められないとすれば、有り得るかもしれない可能性としての「アメリカ」など、単なる戯言に聞こえるだけだろう。しかし、われわれのデジタル的感性はそんな世界を夢見ることを可能にする。いや、それはちがう。むしろ、可能世界はすでにわれわれの生活の中でリアリティを獲得している。ヴァーチャル・リアリティはもはやヴァーチャルなどではなく、現実の、しかも中核的な一部となり得ているのだから。
とはいえ、一方でわれわれは簡単にローカルな世界から逃げ出せるわけではない。通常、われわれは論理的な(すなわち、部外者にも理解可能な)デジタルの世界だけに閉じこもってはいられないからだ。しかも、われわれはマスメディアによる紋切り型の言説の(したがって強固な)シャワーを浴びつづけている。たとえば、日本人であれば、たえず義理と人情の物語世界(これは部外者には理解しにくい)につきまとわれるし、アメリカ人であれば、善悪のキリスト教的二項対立(これも部外者には理解しにくい)につきまとわれる。われわれはアナログ的なローカルな物語から逃れられない囚人である。
だから、われわれは一方で無国籍化する感性を抱え、他方で堅固なローカルの精神世界に縛りつけられているといえる。そうしたデジタル世界とアナログ世界のあいだの軋轢に表象されるような分裂症が、われわれ現代人の宿命である。少なくとも、ぼく自身はそう感じている。
そこに、われわれ日本人(少なくともぼく)とエリクソンの接点が見い出せるかもしれない。エリクソンという作家はUSAを超え、文学の世界を超えて、日本の現在とシンクロしている。どのような点でシンクロしているかは、エリクソン本人、あるいはその作品と濃密に触れ合った日本の小説家や詩人、アーティストたちの問題意識のありようと関係し、一様ではない。だが、エリクソンがちょうど東京(そして日本)のカオスの中に解放感を見い出すように、日本のアーティストたちもエリクソンの紡ぎ出す美しくも破壊的な「悪夢の世界(アメリカ)」に歓喜にも似た共感をいだいている点は変わらない。
正直なところ、本書を作ろうとした最初の意図は、「なぜ日本の現代作家たちはこれほどまでにエリクソンに惹かれるのか?」という素朴な疑問に発している。それは村上龍や島田雅彦との対談や、小林恭二によるインタビューなどがほぼ完璧な回答になるだろうし、いとうせいこうや高橋源一郎や白石公子などのエッセイなどがそれらの回答を補強してくれるだろう。ひとつに、エリクソンがその実作を通して日本の作家たちに、作家の作家たる何かを呼び覚ませてくれるからだ、 つまり、陳腐な言い方になるのを覚悟でいえば、ほとんど絶望的な状況にあるフィクション(小説)の可能性をエリクソンが垣間見させてくれるからだ、とぼくは勝手に推測した。また、この本にために特別に寄せられたエリクソン自身による自作についての書き下ろしのエッセイが、読者にとって各自の疑問を解くささやかなヒントになってくれるよう、ぼくは願ってやまない。
だが、それ以上に、本書が願っているのは、エリクソンという小説家とその小説を起爆剤として見えてくるUSAという国と、そしてその影響を少なからず受けた日本の作家・アーティストのことばから見えてくる日本という国と、そのふたつの国の同時代性を読み解くことである。そうすることで、ふたつの国が抱えている共通の暗闇が見えてくるのではないか。
わざわざフーコーを引き合いに出すまでもなく、社会の疾いの中にこそ(より正確にいえば、特定の社会がどのようなものの中に「疾い」を発明するかという点にこそ)、その社会の真実が宿っており、それを見ずして文化を語ることなどできない。ヴェム・ヴェンダースが映画「東京画」で正しく見抜いたように、エリクソンもそのエッセイ「東京めまい」で、「カオス」を現代日本の本質として捉えていた。ただし、ヴェンダースの映画が観客(少なくともぼく)を憂鬱にするだけだったのに対し、エリクソンはそんな「カオス」に一時的だろうが解放感を見い出そうとするといった違いはあるが……。エリクソンは、いまUSAが分裂に危機にあると、何度も語った。アメリカの理念と現実の乖離が極右のテロ活動を生み出している、と。
言うまでもなく、日本もまた矛盾を病んでいる。世界と(少なくとも経済的に)対等にかかわるなか、日本が企業・学校・家庭で育んできた従来の密室的な保護主義(別の意味では、もちろん、利己的な排除原理である)はもはや有効でない。そのことには誰もが気づいている。にもかかわらず、誰もが惰性的にそれに依存している。したがって、村上龍が言うように、社会的に弱い立場に置かれている子どもたちがその矛盾を率直に告発する。あるときは、援助交際という戦略的な手段で、またあるときは、弱者の殺人という究極の暴力によって。
小説家というのは、単なる批判者ではない。みずからも社会の疾いを病む者でなければならない。批判の毒矢が翻ってみずからをも撃たないそんな無責任な社会批判は、凡百のテレビコメンテーターに任せておけばよい。われわれが真の小説家に見るのは、社会への糾弾がみずからの疾いへの糾弾へとなる、そんな逆説を生きる批評である。エリクソンの情念的な「悪夢的世界」に出会うたびに、われわれは改めてそんな単純な事実を思い知らされるのである。