キャリル・フィリップスの来日

 

ぼくが受け持っている授業の中に米文学演習という大学三年生向けのコマがあるが、ここ二年ほど、 まず手始めに対照的な二編の詩を読むことにしている。南テキサス出身のメキシコ系レズビアン詩人、 Gloria Anzaldua の散文詩、“White-wing Season”と ”We Call them Greasers”である。

「銃を手にした白人たちが/ふたたびやってきた」で始まる前者の詩は、メキシコ系の貧民女性の 低い視点から、自分の荒れた土地にレジャーで狩猟にやってくる富裕なアングロ白人社会を見上げた 物語だ。中西部からやってきた白人男性たちが貧民女性の土地で狩猟をやらせてもらう代わりに、 彼女にキャッシュを手渡す。帰りに、白人の猟師たちは二羽の野鳩を無言で彼女に投げてよこす。 この二者のあいだに人間としての心の交流はなく、あるのは強者から弱者への一方的な「哀れみ」 だけである。白人の猟師にはそうした意識はないかもしれないが、殺された野鳩は貧民女性の 身代わりである。この詩は、詩人と等身大の弱者の視点から語られており、これを静かな 「抵抗の詩」と読むことはさほど難しくはない。

一方、「俺がここにやってきたとき/奴らはすでにここにいた」で始まる後者の詩は、 テキサスの大牧場主の高いアングルからメキシコ系の共同体を見下ろす物語である。 アングロ白人の牧場主は、法律文書を武器に力の弱いメキシコ人を合法的に土地から追い出す だけでなく、力づくで一人のメキシコ人女性を犯し、息子たちにその夫をなぶり殺させる。 アンサルデュアは、そうした傲慢極まりない蛮行をここでは強者のアングロ白人の視点から語る。 こうした語りによって、社会の周縁に追いやられたメキシコ貧民を「野生動物」や「インディアン」 に喩える強者のゆがんだ差別意識があぶりだされる。差別や迫害へのアイロニカルな批判は行間に 隠されており、それを感じ取る作業は読者にゆだねられている。だから、こちらの詩のほうが少し だけ難度が高いかもしれない。

ところで、ぼくの担当授業のテーマは、メキシコ系アメリカ文学ではないし、少数民族の文学 でもない。ある民族や人種や階級などに肩入れして、本質主義的な立場やイデオロギーを標榜する ことを目的にはしていない。上記のアンサルデュアの詩を読んで、われわれがアングロ白人のやり方を 批判し、メシカ文明を称えるメキシコ至上主義に与したところで、何の意味もない。そこにも、 また非メキシコ人への差別が隠されているからだ。

では、どうしてアンサルデュアの詩を取りあげるのか。それは、複数の国家や社会や民族の境界に 置かれた人間の生き方に焦点を当てる「境界領域の文学」こそが、ぼくの授業のテーマであるからだ。 自分の生まれた土地でありながら、よそ者の烙印を押され、アイデンティティの矛盾・混乱を 強いられた人々に同情するだけでは十分ではなく、かれらに向けられる迫害や差別の視線を自らの 中に検索しなければならない。でないと、まったくの他人事になってしまう。アンサルデュアの 詩は、読者自らの中に、加害者であり被害者であることの「二重意識」を探るきっかけを与えて くれる。

アンサルデュアを読みながら、メキシコ人の歴史や文化の中でも、とりわけ十六世紀に メキシコを征服したコルテスの通訳の役を果たしたインディオの女性マリンチェや、カトリックと 土着の宗教との習合の産物というべきグアダルーペの聖母について触れることにもなるが、それは マリンチェやグラダルーペの聖母こそ、西洋と非西洋というふたつの文化の接点であり、 Edward Saidのいう、難民や周縁人に特有の「二重の視点」によって初めてそれらの意味を理解 しうる存在だからだ。ともに、ふたつの文化の狭間を生きることにより、マリンチェはメキシコ人の 男性から「裏切り者」の烙印を押され、一方、グアダルーペの聖母は急進派の先住民から カトリック教会の捏造だといまなおいわれつづけている。

さて、いまカリブ海に生まれ英国で育った黒人作家Caryl Phillipsを、こうした「ノマド文学」の コンテキストの中においたらどうなるだろうか。フィリップスは、英国の白人労働者コミュニティに おける移民の子として、典型的な「二重の視点」をもって生きてきた作家である。 言い換えるならば、英国の外部で生まれた黒い「イギリス人」として、国籍と人種のあいだの 狭間を生きてきた作家でもある。

フィリップスは、大英帝国の副産物ともいうべき、「帰属」のあやふやな 作家たちのアンソロジーを編んでさえいる。ドミニカ出身のJean Rhys やトリニダード出身 のV.S.Naipaulなどのカリブ出身者だけでなく、ポーランド生まれのJoseph Conradやインド生まれ のGeorge Orwellや上海生まれのJ.G.Ballardなど、総勢39名の外国生まれのイギリス人作家の 文章をあつめた、Extravagant Strangers: A Literature of Belonging(1997) が、それである。 副題にある「帰属の文学」が端的にしめしているように、それは人種や階級や性差によって 疎外された経験をもつ人たちによる、「英国性」の境界をめぐる問題提起の書である。 フィリップスはいう。「その結果、ブリテンは文化的にも民族的にも同質である国家としての 自己のヴィジョンを育んできたが、そのヴィジョンのせいで、ブリトン人の中には、英国生活とは 何かをめぐる主流の語りに参加する権利があると感じられなくなる者も出てくるのだ」と。

「帰属」や「離散」や「故郷」はフィリップスの小説やエッセイを貫く重要なキーワードだが、 どれも単純ではない。英国を見つめるかれの視線は、インサイダーのそれとアウトサイダーの それを合わせもち、ひとつに染まることはない。特権的な貴族階級特有の「社交クラブ」に勧誘 されても、それに所属する気はないし、かといって、英国を捨てる気もない。かれのような ハイブリッドのよそ者が英国で果たす役割を意識して、社会の周縁を自らの居場所に決めているのだ。 また、創作のたびに立ち返る故郷を、カリブや英国でなく、はたまた、そもそもの出発点である アフリカでもなく、それら三つが交差する大西洋としている点も、似たような環大西洋文化圏を 唱える思想家Paul Gilroyのアイディアと同様、 注目に値する。かれらは、かつての奴隷貿易を たんなる負の遺産としてではなく、奴隷貿易に関係した三つの地点が作り出す三角形の地勢図の色を、 人種と国家の再定義のために積極的に塗り替えようとしているのだ。

そういう意味で、いちばん興味深いのは、かれの比較的新しいノンフィクション 作品The Atlantic Sound(2001)だろう。フィリップスは、トラヴェル・ナラティヴの 達人Bruce Chatwin も顔負けの行動力と知的洞察を有し、ほとんど小説とかわらぬ、数多くの 登場人物と豊富なディテールを配した刺激的な語り口で、かつて奴隷貿易を担った中間航路を ゆく自身の旅をつづる。サウス・カロライナからカリブへ、そして英国のリバプールへ、そして サウス・カロライナへ戻る旅は、たんにフィリップス個人の旅を歴史的なパースペクティヴの中で 捉えるだけでなく、現在もハイブリッドに変化しつづける英国と世界のすがたを見据える旅となる。 おそらく、フィリップスは、1950年代に赤子のかれをカリブから英国へ連れてきた移民の旅を、 十六世紀の大航海の時代にまでさかのぼって西洋の非西洋との邂逅の一部として捉え、 そうした邂逅によって文化の混交が常態となった「近代」の行き着く果てを見据える心づもり なのだろう。フィリップスはいう。「西インド諸島からやってきた初期の移民者にとって、 大西洋横断の旅は、さらなる大きな冒険の幕開けにすぎなかった――そして、その冒険は英国社会を 変容させないではおかなかったのである」

そうしたトラヴェル・ナラティヴによって、自己のアイデンティティと世界史を再定義するかれの ノンフィクションの方法論は、キリスト教社会における異端分子としての黒人やユダヤ人の 視点からヨーロッパの学芸や知を問い直したThe European Tribe(1987)でも、最新のエッセイ 集A New World Order(2001)でも健在である。個人の視点と世界史の視点がダイナミックに 結びつくところがフィリップスの醍醐味であるが、かれは世界の行く先々で、いろいろな形の 外国人嫌いXenophobia(たとえばドイツにおける反トルコ感情、オランダにおける反イスラム 感情など)を見い出し、アフリカへの植民主義的な侵略行為においてキリスト教会の果たした 跡を的確にしるす。

一般にポストコロニアルと形容される作家の特徴は、西洋と非西洋のふたつの文化をその身に 体現していることに尽きるだろうが、そのために、どちらの文化の側からも「どっちつかず」の 存在として白い眼で見られがちだ。しかし、「どっちつかず」の存在であるがゆえに、ふたつの 文化の軋轢や摩擦を自らの問題とすることができる。社会的にはネガティヴに見られがちなそう した立場が、逆に強力な創作の武器になりうることをポストコロニアルの作家たちの作品はしめ しているが、とりわけフィリップスの場合、カリブの黒人文化と英国の白人文化という人種の 境界だけでなく、英国北部の都市リーズの労働者コミュニティとかれ自身の知性を育んだ貴族的な アカデミア(オックスフォード大学)という、階級の境界すらも行き来した体験が、かれの中に 何重にも先鋭化した越境の思想を育んだにちがいない。

フィリップスの小説は自身の複雑な出自や経歴を反映するかのように、対立する複数の視点に よって語られることが多い。いい意味で分裂症的な物語構造がその特徴になっている。なるほど、 最初の二作は大西洋を横断するカリブ移民の物語The Final Passage(1985)にしろ、それから 20年後に生まれ故郷のカリブを訪ねて大西洋を逆に辿る青年の旅A State of Independence(1986)に しろ、伝統的なリアリズム手法に基づいた比較的大人しい小説である。しかし、Cambridge(1991)に おいて、フィリップスは一歩踏み出して、カリブに領地を持つ白人の娘を語り手にして、その 白人女性の大西洋横断の旅とカリブでの彼女の精神の変容を書く。さらに、ポストモダン小説の 傑作Crossing the River(1993)では、人種や性がすべて異なる四つの視点からヨーロッパの奴隷貿易 とアフリカの「黒い離散」の問題を扱うといった離れ業をみせるのだ。それに比べると、ヨーロッパに おけるユダヤ人迫害の歴史とイスラエル建国の皮肉を扱ったThe Nature of Blood(1997)は、 野心作にはちがいないが、方法論的にやや大人しい。

さて、昨年の秋のこと、ぼくが授業でアンサルデュアやフィリップスを扱っていることを知った 知り合いの編集者が何気なく教えてくれた。ブリティッシュ・カウンシルの招聘により、 フィリップスが来日を果たすと。日本には一週間滞在し、東京で三回、京都で一回講演や朗読を 行うらしかった。ぼくはブリティッシュ・カウンシルに頼んでインタビューをさせてもらうことに なった。それから、あっという間にフィリップスの来日の日がやってきて、ぼくは大きなホテルの ロビーで話をすることができた。フィリップスは目がくりくりと大きく人懐っこい印象を受けるが、 その目で詳細にこちらを観察しているようで、ぼくは気が抜けなった。おまけにかれは感情をあまり 表に出さない人らしく、その顔はどこか神秘めいて見えた。大勢の客の話し声や騒音のせいで、 かれの言葉を聞き取るのにちょっとだけ難儀した。何度か聞きなおしたが、嫌がる素振りもみせず に、フィリップスは丁寧に言葉を選んで答えてくれた。いずれ時間ができたら、自分の ホームページに英文のインタビューを載せたいと思っている。

『英語青年』2003年3月号