ロバート・クーヴァー(越川芳明訳)『ジェラルドのパーティ』

(講談社刊2500円、1999年3月)

あとがき

ロバート・クーヴァー(1932− )は、時代に十年以上も先駆けた作品を発表してきた。この場合、「時代」とは、コンピュータに代表されるテクノロジーの進歩と、その家庭への普及をさす。ぼくが日本語版の『ユニヴァーサル野球協会』を刊行したのは一九八五年だが、ようやくそのころ日本ではファミコンが流行りだしてきたのだった。野球ゲームに没頭するあまり事実と虚構の区別がつかなくなる男を主人公にし、小説自体も後半で、主人公が消え、事実と虚構の区別がつかなくなる、そんなゲーム性のつよい小説(つまり、ヴァーチャル・リアリティの世界)がアメリカ本国で発表されてから、十五年以上もたっていた。そして、ちょうどそのころ、ファックスや(留守番電話や携帯電話も!)PCはまだ多くの家庭には普及しておらず、ましてハイパーテキストという言葉もまったく馴染みがなく、インターネットにいたっては存在すらしていなかったが、クーヴァーはすでに電脳時代の到来を前提にしたような小説を発表していた。それが『ジェラルドのパーティ』(1986年)である。

通常、クーヴァーはジョン・バースやトマス・ピンチョンやウィリアム・ギャスなどと共に「ポストモダン系の作家」と見なされている。かれらは小説というものが言葉からできたフィクションである(つまり、「小説は<現実>を映しだす鏡(道具)ではない」)という認識に立って、テクスト上にもうひとつの「リアリティ」を作りだそうとした。たとえば、クーヴァーはマスコミや政府機関の発表する「公的なニュース」に基づく「歴史」に疑問を抱き、冷戦時代のローゼンバーグ事件を題材にした「オールタネート・ヒストリー」、大作『火刑』(1977年))を書いた。これはジョン・バース(たとえば、偽古典文体で、十七世紀アメリカを書き直した『酔いどれ草の仲買人』)や、トマス・ピンチョン(ピューリタンの時代にさかのぼって、アメリカン・テクノロジーの時代を書き直した『重力の虹』)にも共通する姿勢である。

クーヴァーはこれまでにピンチョンほど遅くなく、かといってバースほどは早くないペースで作品を出してきた。すなわち、六〇年代半ばに処女作『ブルーニスト教団』を発表して以来、四十年近くにわたる作家歴で、長編小説を六冊(一〇〇ページ前後の中編小説もカウントすれば、作品の数は二倍になり、短編集や戯曲も含めれば、三倍近くになる)出しているが、『ジェラルドのパーティ』は四番目の長編である。

たとえば、小説の冒頭で、若い女優のロスが無残にも何者かによって殺されている。ロスはジェラルドをはじめとする男たちのマドンナであり、批評家ヴィック(離婚して、ひとり者)をして、ロスとのたった十分かそこらの情事こそが「人生の最良のとき」といわしめるような女だ。天衣無縫というか奔放なロスゆえに、恋人ロジャーは彼女との結婚にこぎつけても、心休まるときがない。結婚は新たな受難のはじまりにすぎない。だとすると、ロスの死は、嫉妬に狂った新郎が仕業だろうか。

小説の主人公は、ジェラルドという名(ラストネームは読者には知らされない)の中年ドンファンである。昔は世界各地で浮き名を流した「恋愛の達人」だが、いまは古きよき時代の記憶の中で生きるほうが多い。もちろん妻はいるが、現在、アリスンという女にご注進である。そんなジェラルドが自宅でパーティをひらく。小説の時間は、ジェラルドの記憶の中で昔の出来事(そのほとんどが、昔付き合った女たちとの情事の思い出)にさかのぼる以外は、パーティの一夜に限定されている。パーティの参加者は、ザック・クワッグ(舞台監督)をはじめとする多数の演劇関係者(俳優や舞台装置係やメイキャップ係など)、ロジャーをはじめとする法曹界の人々、うだつのあがらない中年批評家ヴィックをはじめとする文学関係者、画家テイニアをはじめとする美術関係者など、七、八十名ちかくの比較的富裕な中流階級のインテリたちだ。それに、殺人の捜査のためにパーデュ警視正とふたりの粗暴な警官(ボブとフレッド)が加わり、トイレの管が詰まってその修理にスティーヴともうひとりの鉛管工ゴールディが加わる。この小説の登場人物は、すべてパーティの参加者(ジェラルドが招待していない者も含めて)である。だから、パーティ会場は、ひとつのミクロコスモス。さまざまな人間模様が、さまざまな男女の愛の縺れが、ブニュエルの『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』に劣らぬ過激なユーモアをこめて展開される。

『ジェラルドのパーティ』では、クーヴァーの創作形式の特徴をあますところなく見いだすことができる。そのいくつかを拾ってみると、

  1. スラップスティック的なおかしさ。この点はすでにヴィクトリア朝SM小説のパロディ『メイドのおいど』(佐藤良明訳、思潮社)を読んだことがある読者には、説明不要だろう。しかし、それを知らない読者でも、この小説を一読すれば、いかにクーヴァーがかれ自身の小説を社会的・政治的権威がことごとく失墜するカーニヴァレスクなアクション、血と糞とセックスの横溢するラブレー風な哄笑、ポストモダンのアメリカ中流生活を風刺するドタバタ喜劇で塗り込めるかがわかるはず。登場人物たちはひとり残らず人間の威厳(仮面)をはぎ取られる。語り手であり、視点人物でもあるジェラルドも例外ではない。犯罪をめぐって深遠(そうな)推理を皆の前でひけらかすパーデュ警視正も、またジェラルドがひそかに慕う才女のアリスンにしても例外ではない。必ず思いがけない落とし穴がかれらを待っていて、権威ある謹厳実直な人格、エレガントな振る舞いが貶められる。

  2. 著者自身の文学論・芸術論を照射するメタフィクション。プロ野球を題材にしながら、いつのまにか作者(神)と作品(宇宙)とをめぐる文学論への遠い自己言及(メタフィクション)になってしまったのが、第二作目の『ユニヴァーサル野球協会』だとすれば、アメリカ郊外とおぼしき一軒家での一夜の乱痴気騒ぎが、演劇と恋愛をめぐる寓話的メタフィクションとして読めるのが、『ジェラルドのパーティ』である。

  3. ハイパーテキスト性。クーヴァーは、長年ブラウン大学の創作科で教えてもいるが、ジョージ・P・ランドローらのハイパーフィクションの擁護者としても知られている。かれ自身の作品は、厳密にいえば、電子テキストでもハイパーフィクションでもないが、「リンク」(この小説の場合は、部屋と部屋をつなぐドア)でつながれる枝分かれした物語群、ヴァーチャル・リアリティへの指向性、情報の中のアンビギュアスなノイズの存在など、かぎりなくパイパーテキストに近い。ラリー・マキャフリーはこの小説の会話文体を真似て、小説への「リンク」ともいうべき「序文」を発表している(『フィクション・インターナショナル』1990年)が、そのことはこの小説に読者からのアプローチ(ハイパーテキストのインタラクティヴィティ)を許容する素地があるということを示唆している。

  4. 著者によるメタ情報(解説・手がかり)の欠如。これは前述のAとも関連するが、この小説を何度読んでみても、ぼくには犯人が誰なのか、わからない。果たしてパーデュ警視正がいうように本当に小人のヴェイチェルが殺ったのか、そもそもロスをはじめとして、死人たちは本当に死んでいるのか(奇妙な言い回しを許してほしい)。通常のリアズム小説では、テキスト上に登場人物Aが死んだと書かれていれば、読者は本当に死んだと考えてもよい。小説はそうした約束事の上に成り立っている。しかし、この小説では、夢の世界のように、そうした「事実」自体が曖昧である。まず小説内の場所や時間が特定されていない。舞台はアメリカ郊外らしきところだが、そんなことはどこにも書いてない。単に読者が想像するだけである。「いつ」に関しては、もっと手がかりはない。とりあえず読者がテクストを読む、まさに「そのとき」を基準にするしかない。しかも、読者は視点人物ジェラルド(途中、意識が朦朧とする)を通して、パーティの出席者のように、ところどころで他人の会話を立ち聞きしたり、他人の行動を垣間見たりするが、出来事や会話をを百パーセント理解するわけではない。

 

さて、クリフトファー・エイムズは、『クリティーク』(1990年、冬号)で、この小説のモチーフのひとつ、「コスチューム交換」(あるいは「仮装」や「服装倒錯」)について触れ、次のように述べている。「このようなコミックなコスチューム交換は、深遠な祝祭的変身を反映している。すなわち、儀礼的なセッティングにおいて、個人の違いは曖昧になるのだ。アイデンティティは分類学的範疇に依存しているが、祝祭のカオスの中では、そうした個人の違いは消え去る」と。たとえば、ジェラルドはさまざまな仮面やコスチュームをつけてロスと一緒にアドリブでヌード写真を撮影したときのことを、「その一時間かそこらの経験のほうがわたしに演劇について多くのことを教えてくれた----遊び=演技(プレイ)としての演劇、思わぬ洞察を引きだしたり、埋もれた記憶を掘り起こしたり……」と、思い起こす。また、ジェラルドはパーティのさなか、薄暗がりの中でアリスンと肉体関係を結ぶが、アリスンと思った女は実は処女のサリー・アンで、膣痙攣をおこして、二人の体は離れなくなる。

クーヴァーはこれまでに、現代アメリカの祝祭空間を題材にしてきた。たとえば、野球場(『ユニヴァーサル野球協会』)、大統領選挙(『火刑』)、パーティ(『ジェラルドのパーティ』)、いずれもアメリカの一般市民が感情とリビドーを解放する文化的祝祭空間であり、誰もが日常の社会的役割や関係性(仮面)をかなぐり捨てて、根源的な肉体性に回帰する場である。この小説で、読者はそんな一種の仮装舞踏会で、ジェラルドをはじめとする登場人物たちが「自分でなくなる瞬間」(あるいは、別の自分を発見する瞬間)を目撃することになる。

ぼくはこの小説をめぐってもっともらしいことをあれこれ「解説」してきたが、大きな問題、大きな謎には触れてこなかった。この小説一番の難問だ。ミステリーの解説で、殺人の手口や殺人者の名前を教えるのはルール違反である。だから、ぼくもそんなことはしない。というより、できない。その理由はすでに述べた。しかし、この小説を訳しているあいだも、訳し終わった後も、ぼくの脳裏から離れなかった謎には触れなければならないだろう。

なぜジェラルドはパーティをひらくのか? なぜジェラルド夫妻は殺人や自殺(ロスは何者かによって殺され、悲しみのあまり暴れ狂う夫ロジャーは警察によって殴り殺され、画家のテイニアは二階の浴槽で自殺し、またヴィックも警察によって瀕死の重傷を負わされ、その後息をひきとり、さらに死人が出る)があっても、パーティを中止しないのか? なぜホステス(妻)はそれらの死にも平然とし、客に出すべき料理や酒の心配などをしているのか?

もちろん、答えはない。いや、答えは読者の想像にゆだねられれているというべきか。ぼくには確信などないが、このパーティ自体が芝居ではないか、という考えが何度も頭をよぎった。ジェラルドが招待した人たちによる、シナリオのないアドリブ劇。そんな演劇性によって、非日常空間の祝祭性が増す。ジェラルドはいう。「演劇とは、すべての芸術と同様、現実のために尽くす一種の幻影であり、その十全の理解には全面的な自己没入が必要なのだ----宗教と同じように」それに対して、アリスンはいう。「あるいは、愛と同じように」と。

演劇(芸術)と宗教と愛、どれも似ているようで似ていないが、たったひとつだけ共通点がある。それらは、どれもわれわれ人間が生きていくために必要な「遊び」である。「わしゃそんな無駄なものいらん。セックスと銭だけで十分満足だ」とうそぶく人間もいるかもしれないが、蕩尽でないセックス(子ども生むためだけのセックス)や、何も消費しない「貯蓄のための貯蓄」などありえない。仮に種の保存だけのためのみにセックスをし、貯蓄のための貯蓄をして死んでいった人がいるなら、ぼくはそんな人を芸術家(あるいは、宗教家)のごとき徹底性ゆえに尊敬もしよう。が、いまだかつてぼくはそんな人に出会ったことがない。たいていの人間は「生産性」や「経済性」のみでは、生きられない。いや、むしろ、そうした「効率」の原理にさからった無駄とも思える蕩尽やギャンブルに喜びを見いだすことが多い。

パーティの最後に、アナトールの脚本でクワッグが監督する劇は、劇中劇かもしれない。その劇が目の前の殺人事件(死体)を劇の中に取り入れることによって、ジェラルドをはじめとする登場人物には、事実と虚構の境目がわからなくなる。しかし、そうした境界領域だからこそ、愛をめぐる逆説が強化されることも確かなのだ。もし人を愛する気持ちが不変であれば、演技などいらない。しかし、悲しいかなわれわれは移り気で、性欲も年と共に衰える。そんな愛の意欲の衰えを補うのが、演技力(手練手管)である。ジェラルドはいう。「わわわれは俳優=愛する人の内的二重性を認めねばならない」と。ジェラルドにかぎらず、愛の当事者にとって、愛が成就されるかぎり、求愛の行為が演技(虚構)だろうが、本意(事実)だろうが、どうでもいいことである。愛というものも、所詮、ふたりが夢見る幻かもしれないのだから。

そんな恋愛と演技の虚実をめぐるメタ・ミステリーとして、本書を読めなくもないが、前にも断ったように、それだって、本書を読むための無数のシナリオのひとつにすぎない。本書(あるいは、本書を読むこと)がひとつの「事件」とすれば、読者一人ひとりが探偵として、その謎解きのために自己の読書経験に基づく知的推測(憶測、おもいつき)を働かすことを著者のクーヴァーは目論んでいたのか。それとも、本書自体がひとつの「シナリオ」だとすれば、読者が舞台監督としてそれを読み直す(書き直す)ことを目論んでいたのか。

それにしても、たった一夜のパーティを訳す(自分なりに再演する)にあたって、十余年もの歳月をついやすことになるとは!この間、多くの方々のお手をわずらわすことになってしまった。編集者の豊郷さん、堀さん、松沢さん、山口さん、ありがとうございました。(ぼくの仕事があまりに遅いので編集者が四人も変わったといったら、その間、日本政府は何人総理大臣が変わったか? とアメリカの友人に慰められた)。それでも、ホストよりも手際のいい山口さんのアシストのおかげで、ようやく開催にこぎつけることができました。さあ、皆さんも、ようこそ「ジェラルドのパーティ」へ。

 

一九九八年暮れ サンディエゴにて

越川 芳明

 

著者 ロバート・クーヴァー

1932年生まれ。処女作『ブルーノ教団』(1966)で、すぐれた新人作家に与えられる「ウィリアム・フォークナー賞」を受賞。『ユニヴァーサル野球協会』(1968年、訳書は若林出版)、『火刑』(1977)などで、ポストモダン作家の地位を確立。その他に、子供向けのお伽話を大人向けに書き直した『ベニスのピノキオ』(1991)や『ブライヤー・ローズ』(1996)などがある。

 

 

訳者 越川 芳明

1952年生まれ。明治大学教授。『アメリカの彼方へーーピンチョン以降の現代アメリカ文学』(自由国民社)、訳書に、スティーヴ・エリクソン『彷徨う日々』(筑摩書房)、ポール・ボウルズ『遠い木霊』(白水社)、トマス・ピンチョン『重力の虹』(共訳、国書刊行会)、ゲーリー・インディアナ『マリアの死』(白水社)など多数。