カオスとしての東京を幻視する

越川芳明

 

 

作家の星野智幸が『群像』(五月号)に台湾紀行を寄せているのを面白く読んだ。星野は、初めての台湾旅行の新鮮な驚きを書き留めるだけでなく、日本の植民地政策のなごりともいえる、台湾に息づく「クレオール」としての日本語の欠けらにも、ユーモアをもってさりげなく触れている。

「台湾料理の定番のひとつが牛肉麺。……店の黄色い看板には「シワソウエイラオシアンニヨーロウメエン 五星級」とわけのわからない振り仮名が書いてある。私をこのたびに誘ってくれた『古都』の翻訳者によると、「川味老張牛肉麺(四川風味の老張牛肉麺という意味)」の中国語の発音を、適当にカタカナに直したもので、そのまま声に出して読んでも絶対に通じない代物らしい。日本語使用者には音読できたところで意味はわからないし、北京語話者に対してはカタカナで表記する意味がないし、なぜ発音がカタカナで示されねばならないのか不明である」と。

こうした異国の都市の謎は、ときにそこを訪れる人を混乱に陥れるだけでなく、その人自身の立っている磁場をぐらつかせたりもする。旅をすれば、なぜ、なぜ、なぜ、の自問の連続である。この世の中に快適なだけの旅など存在しない。

ちょうど訳しおえたばかりのエリクソンの新作『真夜中に海がやってきた』にも、作家が異邦人として過ごした東京への「なぜ?」がそこここにちりばめられている。しかし、この小説では、東京が世紀末的廃墟として幻視されているところが注目される。しかし、この小説では、カオスは単なる秩序の崩壊ではなく、むしろ新しい秩序の始まりとして、最後に提示される。それはともかく、小説のなかの虚構の東京の一部をご覧にいれよう。

「東京のいたるところの町角で人々が地図をつくっている。クリスティンはこの都市(まち)にやってきた最初の日に、そうした光景を目にする。……東京は、異邦人としてのクリスティンには秩序のない都市に映るのだ。通りには名前がなく、家々には空間で意味をなす連続した番号がついていない……東京では、誰でも手の甲に、この都市の一大地図の一部が刺青してある。道に迷うと、そのたびに人々は町角に群がって、自分の手を差し出し、ずたずたに寸断された手紙の断片を寄せ集めるように、手の甲と甲を合せるのだ」

エリクソンはかつて創作の父として、フォークナーやボブ・ディランの名をあげたことがある。かれは登場人物たちの無意識、悪夢、強迫観念に焦点をあてて、現代や歴史を捉え直す長編作家であり、これまで短編はひとつも書いていない。かれが短編に向かない理由は、先ごろ北米大陸発見物語シリーズ全七巻のうちの一部が翻訳されたウィリアム・T・ヴォルマン(『ザ・ライフルズ』)にもいえることだが、自由自在な空間処理のせいかもしれない。ヴォルマンの小説が北極圏、ニューヨーク、ロンドンを自在に移動するのに対して、エリクソンは、東京だけでなく、カリフォルニア、ニューヨーク、フランスのブルターニュ半島、ロンドンを自在に行き来する。もちろん、エリクソンの小説では、ヴォルマンと同様、時間も自在に行き来し、過去と現在と未来が混在する。それによって、虚構と事実の境界がかぎりなく曖昧になる。かれの小説は、「夢」にこだわる。それは別に登場人物の夢を書くということではなくて、合理性が優先される日常の論理とは違うもうひとつの論理、「夢の文法」で小説全体を貫くということを意味する。

たとえば、この小説において、最後まで名前を明かされない四十代の"居住者"は、自宅に引きこもり「狂気」のカレンダーの製作にとり憑かれるが、その年表は、従来の百年刻みの西暦によらずに、かれ自身の黙示録的ヴィジョン(これも一種の「夢の論理」だ)による年号がつけられている。また、小説の最後に、「夢ヴァージン」(夢を見たことがないのでこう呼ばれる)の少女クリスティンや老人カールが「目撃」する東京やサンフランシスコなどの都市の崩壊(そして新しい生命の萌芽)も、「夢」の出来事のように時間の配列を逆さにしたような書き方でなされている。 『ちくま』2001・6

 『真夜中に海がやってきた』(筑摩書房)