消えた講義メモ
イタロ・カルヴィーノ『カルヴィーノの文学講義――新たな千年紀のための六つのメモ』
(朝日新聞社刊 )
越川芳明
「利害をはなれた読書のなかでこそ、私たちは「自分だけ」のものになる本に出会うことができる。私の知人に美術史家がいて、その人は目ざましい読書家だが、これまでに読んだ書物のなかでもっとも深く愛着をおぼえる本として、ディケンズの『ピクウィック倶楽部』をえらび、あらゆる機会にこの本から引用し、人生のあらゆる出来事を、ピクウィックからとったエピソードに照らし合せて考える。時が経つにつれて、彼自身が、彼の宇宙が、彼にとっての真の哲学が『ピクウィック倶楽部』のかたちを装うようになり、すべてがディケンズの本そっくりになってしまっている……」
文学が人生を模倣(ミメシス)するのではなくて、人生が本を模倣(コピー)するという、はなはだ倒錯的ともブッキッシュともいえる思想を読者に深く印象づけるこのエピソード、実はぼくの友人の話ではない。古典文学をめぐるカルヴィーノのエッセイのなかでぼくが発見したものだ(須賀敦子訳『なぜ古典を読むのか』)。つい「発見」などと大袈裟な言葉を使いたくなるほどの、宝石(あるいはその原石)のごとき文章がテクストのそこここにうまっていて読者の探求を誘う。だから、ぼくの本はペンや鉛筆によってしるされた宝の地図の様相を呈する。さきほどのエピソードにつづけて、カルヴィーノはいう。「古典とは……全宇宙に匹敵する様相をもつ本である」と。つまり、その美術史家はディケンズの本を自らの内的宇宙のモデルとしたのであり、そのくらいの本でないと古典と呼ぶに値しない、とカルヴィーノはいいたいかのようだ。
本書『カルヴィーノの文学講義』に見られる文学論も、古典をめぐるエッセイで述べられたものと大きくちがうわけではない。ここで大きくちがっていると思えるのは、語りの力点の置きどころと、語りの方法である。まず、語りの力点が文学の未来に、未来の文学に置かれていることが注目に値する。つまり、カルヴィーノがここで数多くの古典作品(ポップアートからギリシャ神話まで、あるいは科学者の文献から宗教家の文献まで多岐にわたる。とりわけ特権的に、ポール・ヴァレリー、ダンテ、ジョルダーノ・ブルーノなどの名が多出する)を引用するのは、未来に向かってひとつの課題――20世紀末の現在、「全宇宙に匹敵する様相をもつ本」の創造は可能か?――を問うためである。カルヴィーノ自身の言葉を引けば、その問いは「2000年以降、幻想文学は可能か?」ともいい換えられるのだが、マスメディアがテクノロジーを駆使して現代人に浴びせつづける強烈かつ紋切り型の「イメージ爆弾」に、いかに文学的想像力は対抗できるのだろうか? そのことを詳しく論じている余裕はないので、ポストモダンの条件(テクノロジーとハイパー消費主義)を自らに課せる文学の可能性へのカルヴィーノの提言は、本書の「多様性」という章を読んでほしい。
一方、本書での語りの方法であるが、後世に残したい文学的な価値とカルヴィーノが考えたもの、すなわち、「軽さ」、「速さ」、「正確さ」、「視覚性」、「多様性」といった項目を、カルヴィーノは具体的な作品を挙げながら、直線的・論証的・説明的というよりは、幾度も脱線したり、細部に分け入ったりして、横断的・派生的・体験的に語る。最初は、その語りの奔放さにぼく自身、正直なところ戸惑った。「講義」ということばが連想させるある種の割り切りというか、単純化された論理のようなものを期待していたからである。しかし、カルヴィーノは、さながらダンテのガイド役として地獄の難所を案内するヴェアトリーチェのように、われわれ読者を様々な木々や雑草が地下で連結しあう森のごとき百科全書的な文学世界(「全宇宙に匹敵する様相をもつ」)へといざなう。本書を最後まで読むと、ここでの語りこそが、かれの説く五つの文学的価値の実践的モデルにほかならないのではないか、という思いに捕らわれる。すなわち、かれの講義録は、たとえば「軽さ」について論じるという唯一の制約を自らに課せながらも、ぼくが大学で行うような平凡かつ予定調和的な講義とはちがって、その語りの展開は自由自在、予想外な方向にすすみもする(「重さ」を賞揚する場面もある)。さながら幾つもの選択枝のまえに立たされた人間のように、そのときどきの言葉の論理が決定する道筋に身をまかせているかのようだ。「速さ」を説く場面においても、カルヴィーノはその反対である「迂回」の価値を全否定するものではない。
本書はカルヴィーノがハーバード大学で行う予定だった文学講義の草稿をもとにしている。六つのメモという副題がついているところからわかるように、本来は六回の講義を受け持つはずであった。しかし、本書には五つの「メモ」しか残されていない。草稿が五回分残されているだけである。妻による「まえがき」によれば、最後の一回分はUSAに着いてから、書かれるはずだったという。
通常行なわれている、じつに味気ない説明によれば、講義をする予定だった1985年にカルヴィーノが脳溢血で急逝したために、「一貫性」と題されるはずだった最後の「メモ」が欠けているらしい。つまり、「偶然」の出来事がかれの講義録を未完に終わらせた、と。しかし、本書がカルヴィーノの遺書となったということや、宇宙の体系を丸ごと捉えようという完璧主義者カルヴィーノの未完成願望などを考え合せると、最後のメモの欠如はほとんど意図的ではないか、と思われてくる。つまり、カルヴィーノは件のメモを書いたが(少なくとも頭の中では考え抜いた)が、それをわざと破棄した(あるいはわざと書かなかった)のではないか、と。真相はあくまで闇の中であり、カルヴィーノの幻の意図は証明されえないだろう。だが、むしろたとえ証明されなくとも、そう想像したほうが読者の参加や、読者との対話を重んじたカルヴィーノの文学にふさわしいのではないか。未完成の空白が残されたことで、読者にはそのミステリーの探求が永遠に要求されることになるからだ。
(『一冊の本』1999年8月号)