出てゆくのも自由、帰ってくるのも自由――

ニューヨークのボウルズ

越川芳明

ニューヨーク脱出

ポール・ボウルズの生まれたのは、ニューヨークといっても、マンハッタン島から川をひとつ隔てたクイーンズ地区のジャメイカというところだ。マンハッタンから地下鉄E号線やF号線に乗ると、ジャメイカの手前にメイジャー・リーグのニューヨーク・メッツの本拠地シーア・スタジアム、テニスのUSオープンの会場フラッシンメドウ・テニス・センターがある。またジャメイカの南東部には、JFケネディ国際空港もある。ボウルズが生まれた1910年に地下鉄がクイーンズ地区に開通したというから、今世紀の前半は、典型的な郊外住宅地としての役割を果たした場所とみなすことができよう。ボウルズはジャメイカに5歳のときまで住んでいたという。しかし、自分の生まれた土地にあまり執着しないアメリカ人らしく、かれはやがてニューヨークをながく留まるところというより、そこから脱出すべき場所として感じるようになる。

ニューヨークは、ボウルズが作曲家として頭角をあらわしてきた1930年代の後半から10年間、ブロードウェイの舞台音楽を手がけるために旅先のヨーロッパやメキシコやアフリカから帰ってくるところだった。ボウルズはつねにもたげてくる放浪癖をおさえられなかった。都市文明嫌いのボウルズのノマド的気質を伝える文章が、『止まることなく』という自伝のそちこちに見られるが、次の文章はそのひとつである。ニューヨークでの仕事が一段落したものの、ボウルズには経済的な余裕はなかった。そこに農務省からニューメキシコのリオグランデ渓谷の農業地に関する映画を作るので、その背景音楽を作ってくれないか、と依頼がきたのである。芸術的な見地からは興味をそそる仕事ではなかったが、未知の南西部(メキシコの文化・音楽の影響のある)のアルバカーキーに滞在できるという条件が、「ニューヨークから離れたくてしかたなかった」ボウルズには、非常に魅力的に映ったのである。

「シカゴから南西に向かってサンタフェまで疾走し、空が徐々に澄み渡り、明るくなってゆくのを見たとき、私は人生の扉がもう一度開き、意味を持ちはじめた気がした。それは、見知らぬ土地に足を踏み入れたときになぜか不意に襲われる、いわくいいがたい感情だった。ひとたび映画の仕事が終わったら、メキシコまで足を伸ばし、できるだけ長くそこに留まろうと思った」

どうしてボウルズはニューヨークに愛着をいだかなかったのか? ぼくはひとつには、家族からの逃避願望があったのではないか、と疑っている。とりわけ、高圧的な父親と、父親に従順であった自分からの逃亡であったようにも思える。先ほどのボウルズの幼少時のジャメイカの家には、フェンスで囲われた裏庭があったらしいが、父は近所の子どもたちと遊ぶことを禁じ、その裏庭で患者の迷惑にならないように遊ぶよう、命じたという。つまり、子どもらしく自由に遊ぶことができなかったのである。ボウルズはヴァージニア大学の一年のときに生まれて初めてヨーロッパに旅立つ決心をするが、「家族全員の度肝を抜く、このようなすばらしいチャンス」を実行するにあたって、両親の知人の協力をあおいで、出生証明書とパスポートを取る。実際に船がニュージャージーのホボケンの港を出港するときも、ボウルズの念頭にあったのは、家族への恐れだった。先ほどの自伝は、こう告げる。「海が荒れた3月の朝だった。ハドソン河の波立ち騒ぐ河面を船が進んでいった。そうした最中でも、私は誇大妄想的に両親がいるのではないかとずっと警戒していた。両親がいま私を見つけ出したら、この航海をやめさせられるのだ、と」 ときは1929年、ボウルズはまだ19歳だった。

それから、10年後、ボウルズは作家の卵でレズビアンのジェイン・オアと結婚することになる。彼女は突拍子のない行動に出たり、わがままだったりしたが、ユーモアのセンスに富み、個性的だった。トルーマン・カポーティは、『ふたりの真面目な女性』の序文で、彼女をこのように称している。「短く刈ったカーリーヘアのダリアみたいな頭や、つんと突き出した鼻、悪戯っぽく輝く瞳にいささか狂気じみた光を湛え、あの独特の声(少しかすれたソプラノの)で、女子学生みたいにみえる体に男の子のような服装をして、軽いびっこをひいて歩く姿は、20年以上前に私が初めて会ってから、少しも変わらないらしい」 ボウルズのピアノの師匠のアーロン・コープランドも、「彼女は不思議な子供みたいな性格だった。とても感じやすく、すぐに動揺してしまう」と、ミリセント・ディロン(『伝説のジェイン・ボウルズ』の作者)に証言している。

新婚旅行の旅先で、次第にポールとジェインの間に亀裂が生じる。たとえば、ふたりはパリで六週間ほど過ごしたが、ジェインは毎晩3時まで遊んでいた。彼女がときどき会っていた連中の中にはヘンリー・ミラーがいたという。彼女の毎晩の朝帰りに業を煮やしたポールは、アルコールに溺れた自堕落な暮らしをやめて、ジェインに南仏行きを提案する。ジェインは毎晩、レスビアン・バーで楽しくやっていて、それが自分のライフスタイルだから、と反論する。いったんふたりは仲直りしたものの、数日後、ポールはひとりで南仏へ旅立ってしまう。しかし、ポールはジレンマに陥っていた。一方で、ジェインに対して、あれほど嫌った父親と同じように、口うるさい抑圧的な保護者の役割を果たしていたからだ。そもそも、ポールは社会的な常識におもねない彼女の奔放さにこそ惹かれたのではなかったか。だから、ポールは南仏に着いてすぐに、惨めな気持ちになり、彼女にカンヌに来てほしいとの電報を打つのである。その後、ふたりは夫婦であることはやめないが、互いの自立を尊重する(つまり、ふたりの性生活を重んじない)結婚生活を送るよう、軌道修正するのである。

ニューヨーク生活

1938年秋、ボウルズは新婚旅行で過ごしていた南仏のコートダジュール近郊の家で、一通の電報を受け取った。オーソン・ウェルズがニューヨークのマーキュリー劇場で上演を予定している劇のために、かれの協力を必要としているという内容だった。具体的には、『トゥ・マッチ・ジョンソン』という笑劇の合間に映す一連の映画に音楽をつけてほしいというものだった。27個もの旅行かばんを携えて、ボウルズとジェインはドイツ船オイローパ号に乗り込んだ。ニューヨークに着くと、ふたりは、ホテル・チェルシーに落ち着いた。通常、マンハッタンの西23丁目の6番街から10番街までの周辺地区が「チェルシー」といわれているが、ホテル・チェルシーは西23丁目の222番地にあった。1884年に建てられた、12階建てのレンガつくりの建物で、トマス・ウルフをはじめ多くの文人が住んだことで有名である。

ジェインとボウルズはそのホテルに、週15ドル(バス付き)の部屋を借りた。しかし、ピアノがなかったので、ボウルズは友人のつてを頼って、オーストリアの建築家で舞台デザイナーでもある男のペントハウスを無料で借り、そこで作曲の仕事をした。ふたりはほとんど無一文であった。この仕事で、数ヶ月分の生活費が工面できる、と当て込んでいた。しかし、ボールズはオーソン・ウェルズから意外なことを伝えられる。マーキュリー劇場は、次作に別の作品を上演することになった、と。ウェルズは困惑したボウルズに、劇団のプロデューサーのハウスマンに会うようアドバイスを授ける。ボウルズは、怒りを隠さずハウスマンのもとへ駆けつけた。しかし、ハウスマンはしょげた顔つきで涙ながらに、100ドルの小切手をボウルズに渡すだけだった。ボウルズはそれを泣く泣く受け取るが、100ドルでは船賃にもならないので、怒りはとうていおさまるものではなかった。

ボウルズは結婚後たえず生活費の捻出に悩まされるが、だからといって、ニューヨークでもひもじい思いを強いられたという印象はない。生活を楽しむための術を知り、また芸術仲間との交友術も心得ていたからだ。フランスの伝記作者ロベール・ブリアットの『ボウルズ伝』には、こうある。「この数年間を通じて、金の問題はいつもポールの頭を占領していたが、それはこの時期だけにかぎらない。(中略)かれには作曲家という職業があった。この職業で気に入っていた点は、ニューヨークにとどまっていなければならない理由があまりなく、そのため、旅を諦める必要もなく、多少の金があれば楽に暮らせる、場合によっては贅沢といっていい暮らしもできる国に行けたことだ。(中略)普段はフィッツジェラルドとはかけ離れたイメージで見られがちだが、大西洋を往復するジェインとボルウズのカップルの上流階級並みの生活は、それと比較してもおかしくないものだった。事実、ふたりはいつも気前よくお金を使っていた」と。 ただし、フィッツジェラルド夫婦とちがうのは、ニューヨークの西44丁目にあるアルゴンキン・ホテルなどの超一流ホテルで豪遊したスコットとゼルダとはちがい、ボウルズたちが贅を尽くしたのは、モロッコのホテル・ミンザであり、その国では4星の超一流ホテルでも、1泊がたったの3ドルだった。

さて、マーキュリー劇場から手ひどい仕打ちに遭ったボウルズは、ホテル・チェルシーを出なけらばならなくなる。そこから数ブロック南に下った18丁目と7番街の角にあったボロ下宿に引越すことになった。ふたりにとっては、つらい時期であった。普通はそんなことでもあると、生活もクリエイティヴな仕事も萎えてしまいがちであるが、ふたりに限っては、むしろ逆だった。ふたりはかえって元気になって、本領を発揮するのだ。ふたりは寒さを凌ぐために、サットン・プレイスの友人宅に居候し、金曜日になると、皆でパーティを開いた。ボウルズは、作曲家として政府の援助を得るために、<連邦政府音楽プロジェクト>の主任に会いにいった。主任はボウルズの話を聞き、かれに仕事をやりたい、といったが、そのためには、生活保護を受けていなければならない、と付け加えた。そこで、ボウルズは共産党本部へ出向き、「失業を証明する」ために、さらなるアドバイスを受ける。共産党本部の職員は、ニューヨークの貧しい地区に住居を移し、近くの労働者連合に出向き、失業申請をするのだ、と要領だけを伝えた。ボウルズがそのアドバイスどおりにすると、思ったよりも早く調査員がやってきた。ボウルズはブルックリンのウォーター通りの一角に小さな部屋を借り、レンタルでピアノを借り、オペラ『デンマーク・ヴェシー』第二幕の仕事に取りかかっている最中だった。わざわざフランスからマーキュリー劇場のためにやってきたのに、劇場側が約束を反故にした旨を話し、作曲中の曲を聞かせてやると、女性調査員はできるかぎり力になることを約束し、ボウルズは金曜日のパーティに彼女を招待した。彼女のおかげで、週に23ドル86セントの小切手をもらうことになったが、そのために、小学校一年生のためのピアノ曲とか、大人の大合唱団向けの合唱曲とか、条件つきの曲を作らねばならなかった。しかし、「こうした仕事にはほとんど時間を取られず、比較的自由に自分の曲を作った」と、ボウルズ自身は語るが、そのことを後で知った父は、共産党員のくせに政府の金をもらうとは、と苦虫をつぶすような顔をしたという。

一方、ジェインはニューヨークで独自の人脈を発掘していた。友人のジョン・ラ・トゥシュから、アスキュー・サロンを紹介され、ポールと一緒に、上流階級の邸宅で開かれるサロンに足繁く通った。ミリセント・ディロンは次のように記す。「30年代半ばのニューヨークの芸術・文学・音楽界は、小さく私的な世界であった。そこには名声を不動のものとした一つのサロンがあった。画商カーク・アスキューと妻コンスタンスのサロンである。このサロンに作家、音楽家、画家、パトロン、劇場関係の人びと、近代美術館と関わりのある人たちが集まってきた」と。 常連には、ヴァージル・トムソンやアーロン・コープランド、画家のモーリス・グロッサー、近代美術館(MOMA)の館長アルフレッド・バー、詩人のe.e.カミングズなどがいた。「アスキュー邸でポールはしばしばピアノの前にすわり、自作を弾いたり歌ったりした。ジェインはといえば、男のひざからひざへと移動していくのだった」

ジェインは日常生活を営むには向いていなかった。彼女は、パリ滞在中と同様、ふたたび深夜までスピヴィの店(59丁目とレキシングトン街のオフィスビルの最上階)をはじめとするナイトクラブに入り浸りになった。男の服装をし、物まねが得意で、茶目っ気があるジェインは、真の意味でのボヘミアンであり、レズビアンだった。ディロンはいう。「ポールは彼女の生活を変えようという努力をすでにあきらめていた。かれは心に決めたのである。「誰かと一緒にいたいのなら、相手の行動を受けいれなければならない」と。ふたりは多くの時間を時間を別々に過ごした。かれは自分の仕事と友人に、彼女は彼女の友人に時間をさいていた」

参考文献

Bowles, Paul. Without Stopping. London: Peter Owen, 1972. ポール・ボウルズ(山西治男訳)『止まることなく――ポール・ボウルズ自伝』(白水社、1995年)

Bowles, Jane. "Two Serious Ladies" in The Collected Works of Jane Bowles. Introd. Truman Capote. New York: Farrar, 1966. ジェイン・ボウルズ(清水みち訳)『ふたりの真面目な女性』(思潮社、1994年)

Dillon, Millicent. A Little Original Sin: The Life and Work of Jane Bowles. New York: Anchor Books, 1982. ミリセント・ディロン(篠目清美訳)『伝説のジェイン・ボウルズ』(晶文社、1996年)

Sawyer-Laucanno, Christopher. An Invisible Spectator: A Biography of Paul Bowles. New York: Weidenfeld & Nicolson, 1989.

清水克祐 『アメリカ文化事典』(名著普及会、1986年)

ロベール・ブリアット(谷昌親訳)『ポール・ボウルズ伝』(白水社、1994年)

本文中の訳文は、原則として上記訳書から引用させていただいた。表記の統一上、一部加筆したことをお断りしておく。

(『GQ日本版』特集 作家のニューヨーク、作家のパリ、1999年11月号)