映画の見方ファイル(「ボーダー映画は21世紀を映し出す」ほか)
越川芳明
"ボーダー映画"は21世紀を映し出す!
<ボーダー映画>は、スケボー映画にあらず!確かに、20世紀は国家同士の戦争に明け暮れたナショナリズムの時代だったが、21世紀はポスト=国家主義の時代である。国境の枠を越えて流動する人々こそが――中田ヒデや野茂英雄のように外国チームでプレーをするスポーツ界の「ヒーロー」であれ、ボートで日本にやってくる「違法難民」であれ――今世紀を象徴する人類のイコンだ。
国境の壁を越えて流動する<アウトサイダー>たちを扱った映画を、ひとまず<ボーダー映画>を名づけることにしよう。比較的新しい作品では、レオン・イチャソ監督の『ピニェロ』(2002年)や、タランティーノ監督の『キル・ビル』(2002年)がある。前者はストリートワイズなカリスマ詩人、ミゲール・ピニェロの短い生涯を題材にした映画だ。ピニェロは生粋の<ニューヨーカー>でもなく、かといって生粋の<プエルトリカン>でもなく、中途半端な<ニューヨリカン>。かれはその1点に徹底的にこだわった作品を書き、遺灰をNYのコンクリートの上に撒いてくれと頼む。
一方、後者は、結婚式の教会で殺されかけた花嫁が、一人リベンジの旅へと立つ物語。だけど、<復讐>がテーマのこの映画、なぜ花嫁はわざわざ沖縄なんぞに遠回りするのだろう? 花嫁を除く参列者のすべてが殺されたテキサス州のエル・パソと、沖縄との共通点は何か。ともに、「周縁」の土地として、中央政府にテキトーに扱われてきた歴史があるのだ。タランティーノが花嫁の派手な立ちまわりのシーン(@東京)に隠したのは、周縁=小国(あざけられる者)から中央=超大国(あざける者)に対し、「ええかげんにしいや」というばかりに切りつける、もう一つの<復讐>の刃なのだ。
<ボーダー映画>は、わざとらしい道徳心や正義感に訴えることなく、ステレオタイプを超える思考へといざなう。当然ながら、国境地帯や社会の周縁が舞台となった映画が多い。米国とメキシコとの国境地帯を舞台にしたもので、古くはサム・ペキンパ監督の『ワイルド・バンチ』('69年)や『俺たちに明日はない』('67年)や『明日に向かって撃て』('69年)といった<強盗団映画>がある。とりわけ、『ワイルド・バンチ』は、10年代のメキシコ革命を背景にしているだけに、単なる<強盗団映画>として見逃すわけにはいかない。ペキンパ監督、アウトローの視点から米国社会を見直すことはできても、原作がわるいのか、メキシコ人の扱いが粗雑なのが惜しい。米国という<男>に犯される<女>としてのメキシコ、といった安易なイメージが全編にただよっているのが、ムチャクチャ不満だ。
それに対し、メキシコや中南米を西欧人のステレオタイプな映像から救うという偉業を成し遂げているのは、『エル・ノルテ』('83年)のグレゴリー・ナヴァや、『赤い薔薇ソースの伝説』('93年)のアルフォンソ・アラウや、『エル・パトレイロ』('91年)や『ウォーカー』('87年)のアレックス・コックスぐらいなものだろうか。
一方、日本映画では、日本の国境地帯<オキナワ>をステレオタイプなイメージから救ってくれた<ボーダー映画>として、高嶺剛の『ウンタマギルー』('89年)や中江裕司の『パイパティローマ』('94年)を挙げておきたい。
また、瀬々敬久監督の『黒い下着の女 雷魚』('97年)や『RUSH!』(2001年)は、いまどき<外様>とか<御三家>とか、鎖国時代のことばを平気で使っている、あたまがチョー古すぎの日本のマスコミに突きつける反=純血主義の<ボーダー映画>の傑作だ。
「半端」な映画ほど面白い!
<ボーダー映画>と並んで、ぼくに興味があるのは、<半=作家主義>映画というか<半=映画主義>の映画で、映画のプロではない人が監督になったり、脚本を担当したりして、面白い映画を作ってしまったというレアなケースです。
<半端な>という意味の<半>です。でも、出来上がりはシビレルくらいに素晴らしく、<半端>どころではない。通常、映画通からは<一発屋>として無視されますが、こういう幻の<私生児>に惹かれます。たとえば、'64年にメキシコで作られ、最近、米国でもDVDで発売された『黄金の軍鶏』などは、脚本が、なんとG・マルケスとC・フエンテス、原作はメキシコのマルケスとも称されるフアン・ルルフォといった、ラテンアメリカ文学の超豪華メンバー。カメラもメキシコの厚田雄春というべきガブリエル・フィゲロアです。
ただ、作家が脚本を書けばすべて素晴らしい映画になるかというと、そうでもない。たとえば、『ラマン 愛人』は、ほかのデュラスの作品を元にした映画と同様、作家自身が脚本を担当していますが、助演の中国人を美しく描きすぎていて、シラけてしまう。
それに対して、小説家自身が作った面白い<半=作家主義>の映画として、マルグリット・デュラスの『インディア・ソング』や、村上龍の『トパーズ』や、北野武の『キッズ・リターン』が思い浮かびます。また、カメラマンの撮った<半=映画主義>の映画として、『ラティーノ』も忘れられません。カメラマンのハスケル・ウレックスラーが80年代のニカラグアの農民革命への米国レーガン政権の関与という、トンでもない政治問題にいち早く取り組んだ意欲作です。一方、わが国でも宇多田ヒカルのダンナのファッション・カメラマンが撮っている『キャシャーン』などは専門家にはバカにされていますが、その実、割と大きな可能性を秘めているのかもしれない(とは、編集部の意見です)。
リメイク映画は、先に見よ
最近は、ハリウッドも面白い脚本に飢えているせいか、『リング』をはじめ、日本映画までリメイクするようになってきた。もっとも昔だって、黒澤明の『七人の侍』や『用心棒』をセルジオ・レオーネが『荒野の七人』や『荒野の用心棒』に作りかえるといった例があったけど。噂によれば、溝口健二の『雨月物語』も、ハリウッドでホラー映画にリメイクされるらしい。
オリジナル作品とリメイク映画があるとき、それらを鑑賞するさいの法則は<リメイク映画は、先に見よ>だ。すでにオリジナルを見ちゃってる人は、リメイクを見ちゃダメ。ガッカリするのがオチだから。
どちらも見ていない人は、とりあえずリメイク作品を見て、それからオリジナルへ向かうべきです。たとえば、S・ルメット監督、シャロン・ストーン主演の『グロリア』(98)→カサベテス監督、ジーナ・ローランズ主演『グロリア』(80)、エイドリアン・ライン監督の『ロリータ』→スタンリー・キューブリック監督『ロリータ』(62)、ガス・ヴァン・サントの『サイコ』(98)→ヒッチコックの『サイコ』(60)という順序がハズせない。
だけど、どんな法則にも例外は付きもの。リメイク映画がオリジナルを凌いでしまうといったケースもある。アラン・ドロンの『太陽がいっぱい』(60)よりもマット・デイモンの『リプリー』(99)のほうがいいとか。(もっとも、デイモンのあの顔が嫌いな女性たちは、ゼッタイ反対するでしょうが)。面白いのは、同一監督によるセルフ・リメイク作品で、W・ワイラーがリリアン・へルマンの『子供たちの時間』を原作にして、『この三人』(36)と『噂のふたり』(61)を作っていて、どちらもいいといったケースもある。
(『スタジオ・ボイス』2004年2月)