ナボコフをクレオール小説として読む
ウラジミール・ナボコフ『ベンドシニスター』(みすず書房、2001・2)
「我々クレオールの作家の第一の富は複数の言語を所有していることである」
このように言って、それまで負の遺産と考えられていたクレオール性を積極的に活用することを説いたのはポストコロニアルのカリブの作家たち(『クレオール礼賛』平凡社)である。いまそうしたポストコロニアリズムの文脈で、ナボコフのアメリカ合衆国への亡命後第一作目である『ベンドシニスター』(原作は一九四七年)を見てみると、ナボコフもまたすぐれてクレオールの作家であったことに気づかされる。
ひとつに、ナボコフの翻訳者たちは、たとえばシャモワゾーのようなカリブ出身のフランス語作家を日本語に変換しようとする翻訳者と同様に、ただちに翻訳の技術的難問に直面させられるのだ。複数言語を利用したハイブリッド文体をいかに日本語の翻訳のなかに活かすか、という難問に。カリブの作家と違って、ナボコフの言葉あそびは早くから評価されていたにしても、それを翻訳に活かすとなると、カリブ作家の翻訳と同様に、恐ろしくムズカシイ。
本書の巻末につけらえたナボコフ自身の「序文」(一九六四年)にこんなことが書いてある。「言葉の世界では地口は一種の疫病、伝染病である」と。また「この本には、字の綴り替えと組み合わされた地口のような、文体的歪曲があふれている」とも。
ナボコフのこの言葉は非常に示唆的である。ナボコフはこの小説が「地口」からなるとして、それが「疫病、伝染病」であり、「文体的歪曲」であるという。しかし、この小説のひとつの大きな主題が警察国家の「グロテスクな非人間性」であってみれば、抵抗の文学のまっすぐな文体よりも、まるでファンハウスの歪んだ鏡のようにそれ自体が人間や組織の狂気を映しだす、カフカにも似たこうした「文体的歪曲」こそ相応しいのではないか。
ナボコフはさきの「序文」で、「わたしは「誠実」でもなければ「挑発的」でもないし、「風刺的」でもない。教訓作家でも寓意作家でもない」と言い、この小説を単純な「寓意小説」として読まないよう、読者にあらかじめ釘をさしているが、しかし、この小説を活気づけているのが、体制への容赦ない諷刺精神であり、ブラックユーモアであることも事実なのだ。もしそれがなかったら、ぼくは途中でこの本を投げ出していただろう。
たとえば、この小説の主人公は世界的に高名な哲学教授であるらしいアダム・クルークだが、ナボコフは、警察国家パドゥクグラートの杜撰で非能率的な官僚制をそれに手も無く翻弄される頑固者のクルーク教授の数々のエピソードを通じて、痛烈に批判している。妻を亡くして病院から帰宅するわれらがクルーク先生は、橋のたもとで歩哨につかまると……。
「これは何だ?」と二人のうちの肥ったほうが訊いた。通行証を押さえた爪でひとつの言葉をさしている。クルークは読書の眼鏡を眼にあて、男の手の上から覗きこんだ。
「大学だ」と彼は言った。「ものを教える場所さ――何も特別なことはないよ」
「いや、ここだ」肥った兵士が言った。
「ああ『哲学』だ。ほら、あれだよ。mirok(小さなピンクのじゃがいも)のことを想像するとき、これまでに食べたものや、これから食べるもののことはいっさい参考にしないで考えるようなものさ」
……このあと、この融通のきかない二人の歩哨はクルークの通行証にサインがないことに難癖をつけて、もういちど橋の反対側まで行ってサインをもらってくるように言い、絶対に引き下がらない。そのくせ、クルークが老体に鞭をうち反対側まで戻って、サインをでっちあげてくると、もはや歩哨たちの姿はないといった具合だ。
この小説は、語りの面でも、面白い特徴が見られる。核となるのは、主人公のクルーク教授の亡命(未遂)の物語だが、語りの人称に関していえば、クルークの一人称の語りで始まり、ただちにクルークを視点に据えた三人称の客観描写に移り、最後に語り手(作者)の独白で終わる。真ん中の三人称の客観描写のなかにも、酔っ払ったクルークから亡き妻に宛てた「手紙」(この手紙によって、ふたりの出会いやこれまでの生活が読者に語られるが、このテクニックはイケルと思った)が挿入されたり、シェイクスピア劇(『ハムレット』)の解釈をめぐるパロディの議論が挟まれたりする(この部分は、ぼくに知識が乏しいせいか、翻訳では楽しめなかった)。しかし、もっと重要なことは、「序文」でナボコフ自身が種あかししているように――これがなければ、読者にはほとんどわからない――そこここに、レマルクのような通俗作家からジョイスようなモダニスト作家まで、いろいろな文献のパクリがちりばめられていることだ。恐るべき博識というかパクリの才能に改めて感服した。
最後に、翻訳について。加藤光也氏の訳には、ほとんど文句のつけようがない。最後まで読み通せたのも、氏の丁寧かつ誠実な訳(訳注もふくめて)のおかげである。ただ、最初に触れた翻訳の難問には、氏はルビを振るとか、原語(ナボコフ語)をそのままイタリック体で残す、という方法で対処されているが、ロシア語を知らない読者にとって、ルビはほとんど意味をなさないし、ナボコフ語も同様である。氏の対処法はクレオール文学の翻訳を試みたいと思っている者にとって、残念ながら参考にならなかった。
『読書人』2001・5・18