ジョン・バースと<混血のアメリカ>

越川芳明

 

発明される<インディアン神話>

 わざと民族的な出自を偽って、少数民族にありがちのもっともらしい物語を書く<覆面作家>と して市場で最も人気があるのは、ユダヤ人と「インディアン」らしい。ユダヤ人や「インディアン 」の血が少しも混じっていない白人が、ユダヤ人や「インディアン」の名を騙って、強制収容所や 居留地での出来事を捏造して売上げを稼ぐ。そうした物語を読むのは、「ホロコースト」や「イン ディアン排斥法」を経験した人たちの子孫というより、むしろ中産階級の良識ある白人知識人であ ることが多いので、皮肉なことに、いつのまにか白人の<覆面作家>が白人読者に向かって、米国 社会における「他者」の物語を語り継ぐという皮肉な構図ができあがっている。

 話を「インディアン」の物語に限ると、例えば大ベストセラーThe Education of Littl e Tree(1976)の著者のようなニセ<インディアン作家>によって喧伝されるのは、「母 なる大地」との「共生」といったありきたりな精神世界であり、「薬草」や「織物工芸品 」、「土霊」、「シャーマン」、「戦士」といった、紋切り型のイメージからなる<イン ディアン神話>である(1)。そうした口当たりのいい<インディアン神話>は、自ら作り出 した「残虐なインディアン」像に怯える白人側のゼノフォビアの裏返しに他ならず、ハリ ウッドからディズニーランドまで、二者択一の類型的イメージばかりが流通し、「インデ ィアン」は<残虐な>か<高貴な>か、どちらかのありようしか認められない。その結果 、生身の「インディアン」は、白人の作り出す美しい<インディアン神話>という、もう 一つの<居留地>に追いやられ、囲い込まれることになる。そうした「二重のディアスポラ」に 対し、チペワ族の血をひくGerald Vizenorや、スポケーン族/クール・ダレーヌ族の 血をひくSherman Alexieは、既成のステレオタイプをグロテスクなまでに誇張した 過激なパロディ小説によって、あるいは白人の英語慣用法をゲリラ的に改造する言語 実験によって、征服者側の押し付ける<インディアンらしさ>の脱構築をもくろみ、 西洋文学伝統の中にやすやすと回収されないインディアン文学の確立をめざす。(2)

 さて、白人の<覆面作家>にしろ、<ポスト・インディアン作家>とも称すべき ヴィゼナーやアレクシーにしろ、かれらの<インディアン表象>を分析することは 、特定の周縁的<エスニシティ>をめぐるauthenticityが、米国社会の中でどのように 形成されているのかを探る、すぐれた文化研究の一例になりうると思うが、ここでは、 そうした<覆面作家>でも<ポスト・インディアン作家>でもなく、これまで「インデ ィアン」との関連ではあまり論じられることのなかったポストモダンの<非インディア ン作家>について、<インディアン表象>という側面から迫ってみたい。従来John Bar thやThomas Pynchonや Robert Cooverをはじめ、ポストモダニズム作家の書く小説は、 多様な文体実験や言語実験ゆえに、社会に支配的な言説に抵抗する「政治小説」や、公 式の歴史を読み替える「歴史改変小説」と見なされてきたが、かれらは黒人奴隷と並ん で、米国史きっての被抑圧者である「インディアン」をどのように<表象>しているの だろうか。本稿では、ジョン・バースをケーススタディとして論じてみたい。

<米国植民地文書>のポスト構造主義的書き替え

 ジョン・バースは、これまで一度ならず新大陸の先住民問題と取り組む必然性に迫られ たことがある。植民地時代の東海岸を舞台にしたThe Sot-Weed Factor(1960,改訂版1967) や、その登場人物たちの末裔を語り手にしたLETTERS: A Novel(1979)において「インディ アン」を登場させているのだ。バースお得意のメビウスの輪のように捩れたメタフィクション形式 は、『千夜一夜物語』やホメロスの物語から編み出されたものとはいえ、語りの時間が自在に 過去と現在と未来を横断する<物語内物語>形式は、「インディアン」の口承文学に見られる 特色でもある。そうした「インディアン」口承文学に通じる形式を駆使しながら、バースはヨ ーロッパ人と新大陸の「インディアン」との邂逅を正面から扱う。

 とりわけ『酔いどれ草の仲買人』では、ヨーロッパ側に<文明>を置き、新大陸の「イン ディアン」に<野蛮>を置くような、十七世紀末に生きるごく平凡なイギリス人主人 公Ebenezer Cookeの視線を強調しつつ、バース自身はそうした無意識の<帝国主義的な 視線>(Mary Louise Pratt)の愚かしさを笑いのめす。しながら、「インディアン」に対す る征服者の<帝国主義的な視線>は植民地時代特有のものではなく、冒頭に挙げたようた見れ ばわかるように、「インディアン」をめぐる紋切り型イメージが現代社会のいたるところに 蔓延し、「インディアン」、「非インディアン」を問わず、内面にその支配力が及んでいる のであれば、バースの風刺は十七世紀人の政治的無意識を笑うわれわれ現代人にこそ突き刺 さってくるのである。

 そもそも、『酔いどれ草の仲買人』は、文学の想像力によってチェサピーク湾を舞台にした 米国植民地史を書き直そうともくろむものであり、当然のことながら、植民地時代の「インデ ィアン」に対するヨーロッパ人の言説を脱構築する仕掛けも備わっている。その顕著な例とし て、Captain John SmithとPocahontas にまつわる記述を挙げることができる。バースは、い わゆる「ポカホンタス神話」がそれに基づいて形成され たジョン・スミスのThe General Historie of Virginia, New England, and the Summer Isles (1624)を、いかにもバースらしい虚構によって脱神話化する。つまり、スミスによって書か れたが上記のスミスの著作に含まれなかった幻の「秘録」や、スミスと対立するBurlingame卿の 「私記」をバース自身が創作し、それらの内容的に対立する「歴史文書」を主人公のエベニーザ ーが読むというくだりを挿入するのである。

 中尾秀博が指摘しているように(3)、ジョン・スミスの植民地文献(とりわけ、ポカホ ンタスによるスミス救出)をインディアン側の儀式的、戦略的な面から読み直すといった 試みは、すでにこの小説と同時代になされているが、ここに挿入された二つの架空の「歴 史文書」は、植民地文献をポスト構造主義的に書き換えるバースの試みとして捉えることが できる。後に、バースは『レターズ』において登場人物のひとりの口を借りて、それが公的 であれ、私的であれ、「歴史文書」を書き手の政治的無意識の投影物、すなわちひとつの< 虚構>としてポスト構造主義的に読む姿勢を繰りかえす。いわく「私が思うに、スミス船長 は有能で勇敢な指導者であったが、同時に大変な悪党でもあったようだ」(4)と。

バースと<混血のアメリカ>

 しかしながら、そうした「ポカホンタス神話」の脱構築以上に興味深くかつ重要であると 思えるのは、バースが『酔いどれ草の仲買人』と『レターズ』において、主人公以上に印象 的な<混血のインディアン>(インディアン側からすれば、<混血の白人>)と、それに連 なる家系を創造したことではないだろうか。Max F. Schulzは、『レターズ』を論じながら、 混血の複数性"plurality of the hybrid"という多分に政治的なイデオロギーをもちだし、そ れを小説上の異種間結婚"fictive miscegenation"といった創作技術論に矮小化してしまって いるが(5)、むしろ、バースには人種混交への志向というか、<混血のアメリカ>への志向 が見られるのではないか。

 具体的には、ヘンリー・バーリンゲーム三世の祖先と子孫の系譜に注目したい。バーリン ゲーム三世は、他人の名前を騙るのは朝飯前で変装の名人といった、インディアン伝説でい う<トリックスター>を地で行くような人物であるが、この男の父はチカメク酋長といい 、イギリス人のバーリンゲーム卿とアハチフープ族の娘のあいだに生まれた混血児である。 母もまたイエズス会士とアハチフープ族の娘とのあいだに生まれた混血児である。この男に は他に二人の兄弟がおり、遺伝子のいたずらで、かれがたまたま兄弟よりも肌の色が白く碧 眼であったために、「バーリンゲーム三世」なる白人の名を授けられたのだが、しかし、か れが兄弟と同様、四分の一混血児であることに違いはない。

『酔いどれ草の仲買人』は、その<混血児>バーリンゲーム三世がエベニーザーの妹アンナに、 アンドルー・(バーリンゲーム)・クック三世という名の混血児・私生児を生ませるところで終 わっているが、バースはさらに『レターズ』において、クック家/バーリンゲーム家の<クレオ ール性>をいっそう強めるような物語を創造するのだ。新たにフランス人男爵が登場して、そ の息子がフランス領ルイジアナでタラティン族の酋長の娘とのあいだに混血女をもうけ、その 混血女がアンドルー・(バーリンゲーム)・クック三世と結ばれ、さらに、その後も、その孫 がふたたび男爵家の娘と結ばれる、といった具合に。かくして、ヨーロッパの諸帝国と「イン ディアン」を巻き込んだ、そうしたクック家/バーリンゲーム家におけるたび重なる血の混交は 、一族のある登場人物をして、「世界史よりも込み入っていて、毛細血管のごとく入り組んで いる」(6)と、称されるほどになる。

 バースは、『酔いどれ草の仲買人』や『レターズ』以外でも、Lost in the Funhouse (1968)のアンブローズ少年の物語であれ、Sabbatical: A Romance(1982) の 中年夫婦の航海物語であれ、故郷のメリーランド州ドーチェスター郡の沼沢地をたんなる小説の 舞台というより、その土地の「境界性」を自覚して隠喩的に捉えている。バースはエッセイ 集The Friday Book(1984)で、メリーランドがメイソン・ディクソン線によって真っぷた つに分断されたのみならず、潮の干満が沼地の地形そのものを変えてしまうので、測量技師たち によって引かれた境界線が意味をもたなくなる、と述べる。また、バースはそういう「ボーダー 州」の「ボーダー状態」に慣れ親しんだ結果、自分がどっちか一方を選べない性格の人間にな り、多くの伝統的な境界や区別を恣意的ものと見なす傾向がある、と告白する(7)。そこでは、な るほど形式と内容、事実とフィクション、人生と芸術など、文芸分野の伝統的な境界や区分に言 及しているにすぎないのだが、しかし、そうしたバースの「ボーダー状態」への志向は、境界ク ロッシングの<混血主義>とすぐ陸続きの発想であることを見逃してはならない。

 民族問題を論ずるさいに注意すべきことは、<純血主義>と並んで<混血主義>もすぐれて本 質主義的な政治的イデオロギーであることだ。とりわけ、南米においては、<混血主義>を理念 として掲げると、それが少数派の純血インディヘナを抑圧する装置になってしまう、と浜邦彦が 指摘している(8)。一方、アメリカ合衆国の場合、<混血主義>は、KKKなどの愚かな白人至上 主義者を牽制する手段となるかもしれないが、一方、南米同様、少数の純血の「インディアン」 をさらに社会の周縁に追いやる装置と化すこともある。つまり、それは諸刃の剣なのだ。

 ところで、バースと並ぶポストモダニズム文学の旗頭、トマス・ピンチョンの場合、民族問 題に関しては、バースほど明確な政治的スタンスをしめしているようには思えない。ピンチョン は、自らの民族的・宗教的なルーツともいうべき「ニューイングランド」のWASP文化に対抗する 周縁文化(メキシコ系、アフリカ系、アジア系)へのシンパシーをしめす挿話を数多く語っている が、だからといって、それを<反WASP体制>の讃美や、特定の民族主義の称揚として単純化できな い。特定の民族や宗教に対するピンチョンのスタンスはつねに両義的である。

 たとえば、Vineland(1990)では、パロディの形で巧みにエスニシティの<真正さ>の罠に はまらないようにしている。ピンチョンは単純なイデオロギーに物語が回収されることを回避 しながら、北カリフォルニアのユーロク族やトロワ族の精神世界や<黄泉の国伝説>に言及し たり、Brock Vondに仕えたRoscoeなる人物を登場させ、ローレンジャーに仕えたトントになぞら えたりしている。トントのように白人にとって都合のいい「インディアン」が体制イデオロギー の産物であるように、ここに出てくる<インディアン伝説>も、60年代のカウンター・カルチャ ーの「反体制」イデオロギーによる「発明品」なのだ。というのも、Laura Pasekによれば、実際 のユーロク族は「インディアン」にしては珍しく個人の土地所得を認め、個人の富がその人 の社会的なステイタスを決定すると考える部族であり、そうした思考はカウンター・カルチ ャーの思想とは真向うから追突するからだ(9)。

 そもそも、『ヴァインランド』は、ドラッグやロックンロールや東洋文化やコミュー ンでの生活を称揚し、ニクソン、レーガン、ブッシュとつづく保守政権に敗れた60年代の 革命活動家や、アジアや南米からの難民たちをかくまう砦としてのレッドウッドの森を舞台 にして、多分に「反体制」を擁護するかのような小説に見えながら、例えば、Brock Vond と 反体制イデオロギーの血筋を引くFrenesiとの<共犯関係>の扱いに見られるように、60年代 のカウンター・カルチャーに対する立場は曖昧で両義的である。

 このように、ピンチョンが反体制派イデオロギーとそれが作り出す<インディアン神話>に 対して両義的なスタンスを保とうとするのに対して、バースは、60年代の市民運動におけるマ イノリティ同士の「連帯」を髣髴とさせる、植民地時代における逃亡黒人と「インディアン」 の共同戦線すらも提示して、その<混血のアメリカ>の思想を堂々と掲げる。米国の先住民問 題への取り組みに関する限り、バースの方がより政治的にコミットしているといえまいか。そ こからカリブや南米をも包括するAmericasのヴィジョンへの道は、あと一歩である。

 

1
Shari M. Huhndorf, Going Native: Indians in the American Cultural Imagination( Ithaca: Cornel UP, 2001) 129-161.

2
長岡真吾も指摘しているように、重要なのは作家が自覚的に「敵の言語」を改変していくことだ(「「敵の言語」と「インディアン」作家――モマディ、シルコウ、アレクシー」『英語圏文学――国家・文化・記憶をめぐるフォーラム』(人文書院、2002年):271-289頁)。たとえば、アレクシーは、「ネイティヴ・アメリカン」などという、白人リベラリストたちが自らの罪悪感を薄めるために生み出したような名称を使わずに、あえて「インディアン」(発音はむしろ「インディン」)を使い、英語の「蔑称」を自分たちのアイデンティティの「武器」に改造してしまう(Alexie, Sherman. "The Unauthorized Autobiography of Me." Here First: Autobiographical Essays by Native American Writers. Ed. Krupat, Arnold, and Brian Swann. NY: The Modern Library, 2000. 3-14.)。一方、ヴィズナーは、白人が書いても同じようなありきたりの民族物語を繰り返したりせずに、「言語ゲーム」によって民族の物語を新たに創造していくことだという。そうした創造行為は、白人たちのためというより、先住民自身のため、 米国における被抑圧の歴史を忘れないために他ならない(Vizenor, Gerald, ed. Narrative Chance: Postmodern Discourse on Native American Indian Literatures. Albuquerque: U of New Mexico P, 1989.)。

3
中尾秀博「ポカホンタスの変容――神話化、そしてディズニー」『中央大学文学部紀要』第78号(1996年)。

4
John Barth, Letters: A Novel (New York: G. P. Putnam's Sons, 1979) 23.

5
Max F. Schulz, The Muses of John Barth: Tradition and Metafiction from Lost in the Funhouse to The Tidewater Tales (Baltimore: The Johns Hopkins UP, 1990) 53.

6
John Barth, Letters: A Novel (New York: G. P. Putnam's Sons, 1979) 21.

7
John Barth, The Friday Book: Essays and Other Nonfiction (New York: G. P. Putnam's Sons, 1984) 5.

8
浜邦彦「『人種』の解体と国民の記憶」『<複数文化>のために――ポストコロニアリズムとクレオール性の現在』(人文書院、1998年):267-281頁。

9
Laura Pasek, http://www.mnsu.edu/emuseum/cultural/northamerica/yurok.html/

 

(「現代小説と「インディアン」――ジョン・バースの混血主義」『英語青年』2004年3月号を改稿)