アンデスの麓を吹き抜ける風のように

ホセ・マリア・アルゲダス(杉山晃訳)『アルゲダス短篇集』(彩流社、2003年)

 

日本に東京文化と関西文化の違いがあるように、ペルーにも山岳文化と海岸文化の違いがあるらしい。首都リマに代表される海岸地方が欧米風の近代主義をとり入れ、合理的な思考を尊ぶのに対し、アンデスの山地は、いまなおインディオの神話の中に生き、山や木の精霊を語り、ときに濁流となって暴れ狂う川に畏怖の念を抱く。

20世紀のペルーを代表する小説家であり、民俗学者でもあったアルゲダスが描くのも、そうした二つの文化のぶつかり合いである。ここに訳出された13編の短篇のほとんどの舞台が山岳でもなく海岸でもない、その中間の麓の草原地帯(パンパ)であるのも、そうした理由からだ。

麓の草原にこそ、二つの文化がぶつかりあうペルーの現実が見られる。その端的な例が水の権利だ。ごく少数の白人農場主は自己の経済力にまかせて、インディオの長老と手を組み、軍隊や警察を抱きこみ、水の権利を一人占めする。熱帯の草原では、水は命の次に大切なものだが、水を確保できない多数のインディオ(小作人たち)の畑は干からび、トウモロコシも実が小さく貧弱なものしか出来ない。

アルゲダスは慈悲心に欠けた強者の海岸文化(白人農場主、軍隊)への怒りを隠さない。かれらはインディオと寝た自分の女を崖から突き落としたり(「復讐」)、村一番の乳をだす牝牛をインディオの手から強引に奪いとったり(「小学生たち」)、未成年の少年を力ずくで軍隊に徴用し善良な母親を狂気に陥らせたり(「ドニャ・カイターナ」)するような「悪魔の心」をもつ人間として描かれる。

アルゲダスの小説には、つねにそうした圧制への憎悪と、暴力的革命への熱い衝動が潜んでいる。と同時に、シビアな現実から目を背けることないし、空想に走ることもない。むしろ、インディオたちの挫折を見て、悲嘆にくれているようなところもある。そこがともすればロマン主義に陥り易いスタインベックら北米の白人作家と違うところだろうか。

この短篇集の中でも、最高傑作と思われるのが「水」と題された作品だ。語り手は孤独な白人の少年。本来ならば強い白人農場主の側に立つところだが、幼くして母を亡くしたアルゲダス自身と同じように、インディオによって育てられ、その山岳文化に親近感を抱きながら、結局二つの文化のどちらからもはじきだされる存在である。地の文にケチュア語やインディオの歌がはさまれ、角笛吹きの青年の軽快な笛の音と激しいアジテーションに彩られて、祝祭的な雰囲気の中で物語が展開するが、最後には悲しい結末が待っている。

アルゲダスの物語は、アンデスの麓を吹きぬける山岳の風のように、冷たくそして熱い。いちどその屈折した独特な風にあたると、やみつきになる。同じ訳者による『深い川』や『ヤワル・フィエスタ』(ともに、現代企画室刊)も、あわせて勧めたい。

(『STUDIO VOICE』2003年9月号を改稿)