特別講義レポート
2002年7月17日、風間賢二氏、来たる。

 風間賢二さんといえばひねくれた読書好きのあいだではとても有名な人だ。
 難解をもってなるポストモダン小説からファンタジー、ホラー、そして世間サマが眉をひそめるようなポルノ小説まで広大な書物の世界を縦横無尽に猟渉し、私たちにとっておきの果実のありかをこっそりと教えてくれる。もちろんその果実ときたら珍味中の珍味、楽園追放級のシロモノだ。中毒症状だってある。危ない読書の虜になった幸せは、なってみなくちゃわからない。そんな人間にとって風間さんはある種のグルなのだ。

 その風間賢二さんが来た。特別講義の講師としてやって来た。
 空席のほとんどない大教室の教壇に風間先生が立って、烏龍茶を片手に越川先生と談笑している。こころなしか烏龍茶の缶を口へもっていく立ち姿がかっこいい。
 特別講義とは本来大学教職員、院生用に外部から講師を招いて設けられるものである。しかし今回は責任者の越川芳明先生と関係者の方々のゲリラ的奮闘によって、私たち学部生だけではなく学外へも開放されることになった。楽しいことは独り占めにすべきではない。

 越川先生による簡単な挨拶と紹介がすんで講義がはじまった。
 風間先生の声はすこしやわらかだ。ホラーブームから「指輪物語」、「ハリーポッター」、「千と千尋の神隠し」などの大ヒットに代表されるファンタジーブームへの移行、という前置きを聞いていると既視感、というか既「聴」感を覚えた。そこで気がついたのだけれど、先生の語りの調子と先生の著書の語りの調子はすごくよく似ている。あたりまえじゃないか、と言われるかもしれない。同じ人物によるものなのだから、と。でもそう言う人は、どうか試しになんでも思うことを文章に書いてみてほしい。そこに表れるあなたの声は、生身のあなたの声とまったく違う声音を持っているはずだ。あるいは、いつもの会話の言葉で何かまとまった文章を書いてみてほしい。それはリーダビリティーを持ちうるだろうか?すごく難しいはずだ。でも風間賢二さんはそのことに成功している。自分の声を文章に生かしきること。肩ひじを張らない普通の言葉で文章を書くこと。しかも読者が喜びを感じるような文章を。私たちが風間さんにひきつけられる秘密はここにもあったのだ。

 ファンタジー文学の様態と形式、というのが今回の講義の主題である。
 まず、ピエール・カルテックスからツヴェタン・トドロフによって理論化されたヨーロッパ型のファンタジー。これは一般的に「幻想文学」と呼ばれるものであり、トドロフの定義によると「日常へ非日常が侵入・介入することによって作中人物(読者)が感じるためらい」をその骨子としている。この定義は現在にいたるまで有効とされているが、後にローズマリー・ジャクソン、キャサリン・ヒュームらによってバフチン、ラカン、あるいはフーコーなどの現代思想の成果がとりいれられた。つまり、「現実」なるものがその時代のイデオロギーの産物でしかないこと、私達の生とそれを取りまく世界はきわめて曖昧で不確定だということをふまえて幻想文学を再定義したのである。この場合トドロフのいう「ためらい」は「ミメーシス(現実模倣)という鏡にあらわれるゆらぎ」「現実の変容(転覆ではなく)」をあらわしたものとされる。具体的な作品としてはノディエの幻想短編、キャロルの「シルヴィーとブルーノ」、あるいはトドロフがその著書の中で論じているヤン・ポトツキ「サラゴサ手稿」などがあげられる。
 つぎに英米型のファンタジーだが、こちらのほうがより私たちの思い描く「ファンタジー」に近い形をしている。たとえばテレビゲームのRPG、有名なところで「ドラゴンクエスト」、「ファイナルファンタジー」を考えてみよう。物語の主人公たちはある目的のために――「世界」の崩壊を防ぐため、あるいは再生させるためだ――私たちが生きている世界のものとはまったく別の風景や不思議な生き物や人種をもつ世界を旅する。そこで彼らは次々とイベント(=危機)をこなしてはつぎのステップに進み、犠牲を払いつつも最終的には目的を達成する。これらの物語はさきほど述べたヨーロッパ型とはまったく異質の形式をもつ。そしてこのタイプのファンタジーの祖先ともいえるのがさきごろ映画にもなった「指輪物語」である。作者トールキンはファンタジーの真髄とは「別世界創造」にあるとした。その世界に遊ぶことによって回復し、曇りのない視野を取りもどす逃避文学としてのファンタジー。ここで視野の刷新ということに関してはブレヒトの「異化作用」、チェスタトン「ムーリーホック理論」につらなる系譜が描ける。このタイプのファンタジーは60年代カウンターカルチャー以降、大量生産・大量消費がつづいていることは周知のとおりである。具体的な作品としてはさきの「指輪物語」、C・S・ルイス「ナルニア国物語」をはじめ枚挙にいとまがない。ダンセイニ、マーヴィン・ピークらの作品もこれらとはまったく毛色が違うが確固とした別世界物語であることは間違いない。

 後半はファンタジーにおける妖精なるものの表象に話はうつった。
 妖精物語のモチーフは取り替え子、妖精花嫁、妖精郷に大別することができるが、それぞれ人生における誕生、性、死と再生という主要な出来事をあらわしている。しかし、おもしろいのはじつは妖精のカラダであり成立の歴史なのだ。
 フェスリー、シモン、ドイル、そしてあの恐ろしいダッドと18世紀末からおこった妖精画がつぎつぎとスライドによって私たちのまえに映される。そこでわかってくるのは、神話を題にとった絵画やキリスト教徒受難の絵がある時期もっぱら人間の裸体を描く/観るために制作されたのと同様、妖精画も美しい女体を描くための方便であったという事実だ。あろうことか、キノコ(ペニスの暗示です、もちろん)のうえに腰かける金髪の女性、なんていう絵もあった。

 そもそも、いま私たちがイメージする妖精の存在はナショナリズムの産物だ。19世紀にはいり民話採集の手法が確立されると人々はこぞって自国の民話をもとめた。
 この動きとヴィクトリア朝の取り澄ました仮面の下のいわばダークサイド、ポルノグラフィックなものに対する欲望や心霊主義が渾然一体となって、あの純無垢でこうごうしい妖精の姿がつくりあげられたのである。妖精が必ずといっていいほど金髪碧眼で若々しく美しい女性の姿をとるのはこれらの反映なのであった。もしかしたら、切り裂きジャック、アーサー・マッケン、コナン・ドイル、アレイスター・クロウリーそしてハヴェロック・エリスらをつくりあげたものとおなじものから妖精はつくりあげられたのかもしれない。繰りかえし妖精画の題材として取りあげられる「真夏の夜の夢」を書いたシェイクスピアの言葉をもじって言えば、それらは"悪夢とおなじ材質で出来ている"のだ。そしてもちろんそれはひどく甘美な悪夢なのである。

 セクソロジー、コティンガリー妖精事件、心霊主義と風間先生の話が佳境にはいったところで残念ながら時間切れとなってしまった。あとの授業がつまっているので延長はできない。余韻にひたるのはあわただしく教室を追い出されたあと、それぞれの帰途についてからのことだ。真夜中に先生の本を読みふけり、図書館の書庫の隅においてある妖しい本たちに手を伸ばすのもいい。あるいはあの物語たちの登場人物のように、日常の中でふとあらわれるゆらぎに思いをはせるのもいいだろう。いずれにせよそれらは禁じられた果実の眷属であって、甘くておいしいことこのうえないから。



2002年7月20日
文:岡田 智之
写真:橋爪 美恵