1.はじめに
「普及や発表のため」ではなく・・・


私が実施した「労働教育」の事例を報告するにあたり、あらかじめ2点、断わっておきたい。第1に、「この実践を広めるため」とか「発表のため」に行った授業ではない。授業実践のモデルとして供するものではないので、生徒にとったアンケート集計の分析・考察はおろか各種資料の活用も充分にはなされていない。第2に、授業後に「評価」するために通常の考査(中間テスト)を行ったが、「労働教育の理解度」の判定を特段工夫している訳でもない。「労働教育」の授業の第1時間目に、生徒一人ひとりの実態を把握しておいたうえで、まずは授業をやってみて生徒がどう反応しどう対応したか、についての事例報告である。

「労働教育」の前に、生徒たちの労働状況を知る必要がある


私の勤務するI定時制高校普通科は、1学年あたり、1クラス20人強で4クラスある。生徒の「労働環境」に簡単に触れておきたい。資料1に示す、「働くことについて」のアンケート①(表1のプリントNo.1)を2学期の最初の授業でとった。予想通り、およそ6割の生徒が「働いている・働いた経験がある」と回答した。これは、16歳の年齢をクリアーしたこと、夏休みで時間があったこと、学校が入学時当初から「昼間は仕事を持ちなさい」と指導しているからだと推察できる。この時期から2年、3年生と学年進行しても、「就労経験者」は劇的には増えない。

全体の5分の1ほどは、4年間在学中アルバイトやパートの就労経験のないまま、さらに「就職活動」もせず卒業を迎えている。近年、定時制高校への入学が増えている、外国にルーツを持つ生徒や「発達障害・学習障害」の生徒の、就労時におけるハードルは高いままである。

資料1 :「働くことについて」のアンケート(PDF)

上記のアンケートで、中学校在学中から「働いている」という生徒が何人かいた。低賃金で働かされ、「遅刻したら殴られた」と回答した生徒もいた(後述)。 中学校の学習で、いわゆる「キャリア教育」や「職場体験・見学」があったらしいことは、断片的に生徒たちが話してくれた。

しかし、それが自己を見つめ進路決定につながったという生徒はほとんどいない。進路を見きわめられた生徒は、定時制高校には入学して来ない。あぶれて行き場がなく、「ワケあり」の生徒が多く定時制高校に集まってくる。ましてや「労働教育」を受けた経験もなく、中学在校時に何らかの取り組みがあったとしても、それらを咀嚼して入学して来る生徒は、定時制高校では、誤解を恐れずに言えば皆無に近い。

教員は「労働教育」を捉えているのか


「労働教育」をめぐる高校教員の現状について考えてみたい。定時制高校で教えている教員は、否応なく「生徒の現実」に直面し思い悩む。その生徒の働く状況から「労働教育」の必要性を痛感するのは、自然の帰着であると言える。私たちは現場の切実な声を背景に、東京都教育委員会に対して「労働教育の必要性」を繰り返し要請してきた。その結実のひとつが、5年前から発行されている『これだけは知っておきたい!働くときの知識・高校生版』の小冊子である。もちろん発行するにあたり「中身」の検討には加わったが、「発行」したのは東京都産業労働局雇用就労部労働環境課からであった。

学校種別で言えば「アルバイト原則禁止」の全日制高校と、働くことを奨励している定時制では温度差はある。全日制においては「キャリア教育」が盛んに言われるようになったが、「労働教育」に替わりうるのか。喫緊の必要性は確かに定時制にあるが、「労働教育」を目前の問題解決の処方箋としていいのだろうか。長年定時制教育に関わってきた教員の「労働教育」に対する思いは様々である。

特に、定時制を希望せず赴任してきた若い教員は、今までの経験もなく対応に苦慮する。中には生徒の実態に目をつぶり、「年季あけ」を待ってそそくさと定時制から異動する者や、雑用等にかまけて「お手上げ」のまま諦めてしまう(知ろうとしない)教員も少なからずいる。また、経験の浅い教員は、問題の早期解決のノウハウを日々の生徒との関係からではなく、対症療法的に求めてしまう。

たとえば、授業への遅刻が絶えない生徒に対して、「時間を守るのは社会の基本ルールだ。あと〇回遅刻したら、単位を出さないよ」ときつく注意する。この方法で、たしかに遅刻しなくなる生徒もいるかもしれない。これが対症療法的解決だ。だが本来、教員がなすべきは、なぜ遅刻が絶えないのだろう?と生徒の背景や内面を理解しようとすることである。もしかすると、アルバイト先が、定時に「上がらせない」でいるのかもしれないのだ。

この事例報告を、課題を抱える生徒の家庭・経済面、仕事・交友関係などを的確に把握し、迅速に対応していくことだけでなく、根本的な解決策に向けて試行錯誤しながら共に成長していく「労働教育」のささやかに試みとして捉えていただきたい。この事例報告から、「全日制では受験と関係のない「労働教育」に時間を割くことは出来ない、「働く青年が目の前にいる」定時制だから出来たのではないか」と結論づけないで欲しい。同時代を生きる教員として、全日制も定時制も「働くこと」の意義と普遍性を問い続けていただきたいと思う。

2.授業実践の概略と生徒の反応


2014年度「現代社会」1年生対象の授業は、2学期のスタートにあたりアンケートをとり、教科書よりはむしろ自作の資料(プリント)や新聞記事のコピーなどを中心として進め、「労働教育」には計12時間をかけた。「現代社会」は週に2日あるから6週間、つまり、ひと月半をかけて学んだ勘定だ。全体の流れを、配布資料に基づいて整理すると表1のようになる。



では、生徒たちはどのような反応を示したのだろうか。2点述べよう。  

第1に、ほとんどの生徒は、収入金額や労働時間、休日日数や勤労可能な最低年齢といった、もっぱら「即物的なもの」に対して関心を示した。たとえば、アルバイトと正社員の求人票を比較してみるワークでは(表1のプリントNo.2)、最初は「アルバイトのほうが、自由がきく」といった意見が多かった。

そこで、さまざまな雇用形態があることを知識として示し、働くことの意義や自己実現・自分が描く将来について考えさせた。ところが生徒たちは、生涯賃金がいくらかになるのか以外、関心が希薄であった。ほんとうは、生涯賃金や将来の見通しについて掘り下げて話をするつもりでいたのだが、12時間では時間が足りなかった。

また、労働三権や労働三法に関する説明(表1のプリントNo.3)になると、「なに言ってんの?」という反応であった。働いていない生徒もいて、反応がいまひとつなので、この点についても掘り下げることはできなかった。  

しかしながら第2に、生徒たちの理解度は悪くなかった。資料2として、中間テストの問題を示す。35分で100点満点の試験だ。1学期の中間テストは平均三十数点であったのに対して、2学期は六十数点へと大幅に上昇した。私としては、1学期と難易度を変えたつもりはない。つまり、生徒たちの理解度・関心度があがったのだと考えてよいだろう。

資料2:中間テスト問題(PDF)

3.生徒の家庭・経済面、仕事・人間関係を把握する  


だが、以上をもって良しと評して終わりにしてはいけない。教員としては、働くことについての生徒の理解度を高めることに加えて、生徒の家庭・経済面や、仕事・人間関係をより深く把握することも重要なのである。例を挙げよう。勤労可能な最低年齢(労働基準法第56条)について説明していると(表1のプリント3)、S君が発言した。

「オレ、中学で『もうお前なんか学校に来るな』と言われて、親から『じゃあ働け』と言われて働いていた。オレ、法律違反だったの?」

S君が自分のことをふり返って自発的に発言したのは、単なる知識の教え込みではない授業を展開したからだろう(ちなみに私は、「いや、働かせる方も悪いんだよ」と回答した)。

もう一例挙げよう。T君は非常にヤンチャで、授業に来るといつも立ち歩くか、すぐに机に伏せて寝てしまう。「なんでこんな授業に出なきゃいけない?」と思っているからだ。けれども、ときたま引っかかる話があり、そういうときは反応し発言する。

労働基準法を扱ったときのことだ(表1のプリント3)。なにか言いたそうにしているから、話を聞いてみた。すると、彼は中卒後すぐにガソリンスタンドで働き始めたのだが、遅刻すると殴られるのだという。私は、「ああ、こいつはこんなきつい仕事をしていたんだな」と気づくことができた(私は、「殴るのはいけないし、言葉のパワハラもいけないんだよ」と説明した)。

私たち教員は、課題を抱えた生徒の課題に対して迅速に対応していくことが求められている。しかし、それが対症療法的なものに陥ってはいけない。そうではなく、根本的な解決策に向けて試行錯誤しながら共に成長していくことが肝心である。

4.関心の高まりと成長へのはたらきかけ  


では、生徒たちはどのように成長しうるのだろうか。表2に示すのは、12時間の授業を終えて実施した対生徒アンケートの結果である。ここからは、「ためになったこと」のなかでは、「最低賃金」と「労働に関する法律・ルール」が、「今後自分自身に生かされそうなこと」のなかでは、「賃金・時給」「勤務時間・シフト・休息」「有給休暇・休日」が、圧倒的に高い割合をしめていることがわかる。先ほど述べたように、生徒の関心は「即物的」なのである。もちろんそうはいっても、知識・理解が進んでいることには間違いない。  



では、関心の高まりや知識・理解の深まりは行動面での変化をもたらすのだろうか。ここでは、私が一番嬉しかったこととして、大工の仕事をしているU君のことを述べたい。9月下旬、新聞掲載の最低賃金に関する易しい解説文を読みながら穴埋め問題を解いたときのことだ(表1のプリント5=資料3)。

資料3:2014年度最低賃金の改定(PDF)

U君は、現代社会の授業をずっと休んでいた。この日は遅刻したものの、出席したので、次のように促した。

「こんど東京都の時給は888円に上がるんだよ、君の時給はどう? 棟梁に給料を上げてくれ、なんては言えないだろうから、間接的に、『学校の先生がこう言ってた、とか言ってごらん』」

この時点での彼の時給は、最低賃金引き上げによって、それを下回ることになる金額であった。そこでU君は行動に移した。棟梁の奥さんに、

「僕の給料どうなってます? 法律で、東京都は10月1日に888円に上がるそうですよ」 と伝えたのだ。彼は、10月冒頭の授業には遅刻せずに来て、「給料が上がった、しかも、9月から900円に上げてくれた」と報告した。U君はそれ以来、私の授業に、相変わらず遅刻はするものの、出席するようになった。  

生徒の出す「信号」(教員が気づかないことが往々にしてあるが)を、キャッチしていかねばならない。生徒一人ひとりの状況を包括的に理解し、一人ひとりに適したはたらきかけができるようになること、それは私の成長である。私のはたらきかけを受けとめながら、あるいは反発しながら、関心や知識・理解を深め、さらには行動を変えていくこと、それは生徒たちの成長である。もちろんそこには、うまくいかないことや歯がゆいことも多々ある。共に成長していくとは、こうした試行錯誤を含めた、相互的な営みなのである。

5.まとめとして
生徒の実態を知ることと関係性を継続すること


「今月から時給が950円になったよ。」廊下で出会ったU君が報告してくれた。「まだ同じ棟梁のところでやってるの?」と私。

私の授業を聴いて、自らの力で時給を上げたU君である。U君は他の教科で出席日数が足りず「留年」してしまって、現在は(直接教えていないので)教室で会うことはない。時々会ったとき「報告」をしてきて、私もそれに応える。これを書いているつい先日も「報告」があり、大工を一時やめて「日給12,000円を出す建設業に仕事を変える」という。「それは(賃金が高いということは)仕事がきついんじゃないの」「今のところはどうするの」「ちゃんと5時には学校に来られるの」と、私も根掘り葉掘り質問攻めをする。

また、この授業をやった1年後(もう授業は「現代社会」ではない)に、P子が深刻な顔で相談にきた。「今働いているガソリンスタンドをやめたい」という。職場の人間関係に悩んでいた。賃金も不満だ。暴力もふるわれた。しかし、店長はなかなかやめさせてくれない。「給料明細書」を持ってこさせた。支給額は書いてあるが、労働時間数が未記入だ。「最低賃金」を下回っていることが十分に判断でき、即刻やめるよう「指導」した。

学校のワクを越えて生徒は体感として理解する


この授業を終えてわかったこと、「成果」をいくつか羅列してまとめとしたい。ひとつは「労働教育」は、授業のワク・学校のワクにははまらない(留まらない)、ということである。学校教育でありがちな「知識の詰め込み」ではなく、生徒の就労の実態を把握し、それに対応したものを「教材」としていくのが授業導入・準備の順当なところだろう。しかし、「教材」のほとんどは学校の外にある。

いきなり労働三法や労働者の権利・団結とかを最初に取り上げても、生徒の切実で刹那的な日々の生活には届かない。それでも最低限の「知識・理解」として、やらないよりはやった方がいい。また学校は、学んだ「評価」を求められる。生徒の多くは、教科書の内容をやって欲しい、そして「それが試験に出るかどうか」が一番の関心事だ。

今回の授業で、詳しい法律は生徒たちに何ひとつ身に付いていないことは明らかである。が、①「最低賃金」があり、毎年変わること、②アルバイトも「有給」が取れること、③自由にやめられること、については体感として理解出来ているのではないだろうか。

正解のない「労働教育」を模索しながら


「労働教育」を実践している教員たちでさえ、矛盾に満ちた「労働」をしている。決して強いられている訳ではないが、「ブラック」バイトだのサービス残業だのと指摘されている昨今、それをしっかり自らが演出しているのである。

一家を支え、家庭のため生活のために働き懸命に学校に来る生徒。一方で部活動があるから、授業休んでも放課後の部活には出るといった部活とのつながりで学校に来ている生徒もまた少なからずいる。定時制の放課後は短い。教員たちは全くの善意で、勤務時間を遙かにオーバーして生徒たちとつきあう。それが、自分たちの勤務時間の「無定量性」を助長し、ひいては生徒たちが苦しんでいるサービス残業等の労働環境の改善を妨げるものとは深慮せずに部活に打ち込んでいる。勤務時間が終了したので「正しく」帰った教員よりも、サービス残業が常態化している教員の方が、クラブ活動を共にしている生徒たちにとってはより相談や悩みを打ち明けやすい教員となる。

「労働教育」を問う時、私たち教員の「働き方」も問われている。そしてそれは、学校現場で生徒に労働のあり方・働くことの意味を問うものであり、「生き方」そのものを見せ合っていく機会を創っていくものではないだろうか。私の考える本来の「労働教育」は、特別仕立ての授業や講義・講座で一気に醸成されるものではない。不断の教育活動と生徒たちとのニュートラルな関係の営みで積み重ねられ育まれていくものだと思う。

緊急に対応しなければならないこと(トラブル対応など)も念頭に置きつつ、「労働教育」の存在を示すこと、学校現場では直ぐには解決しないもの、答えの出ないもの、そして「生き方」も視野に入れた「労働教育」の姿勢を保ち続けていきたいと考えている。