? 「鳩山民主党政権のあやうい政治主導  ──習近平・中国副主席の天皇特例会見をめぐって」


「鳩山民主党政権のあやうい政治主導  ──習近平・中国副主席の天皇特例会見をめぐって」

西川伸一『プランB』第25号(2010年2月)

はじめに
 鳩山由紀夫内閣の誕生により、政権交代が細川護煕内閣以来一六年ぶりに実現した。同じ政権交代といっても、両者はまったく性格が異なる。細川内閣は自民党と共産党を除く八党派の数あわせで成立したにすぎない。当時の民意が政権交代を望んでいたかどうかは、選挙結果からは判断できなかった。
 一方、昨年の総選挙では民意は政権交代を明確に支持した。日本の有権者がはじめて政権交代を主体的に選択した点で、大きな意義をもつ。
 ただ、細川内閣と鳩山内閣には大きな共通点が一つある。それは小沢一郎が与党幹事長の地位にあり、最高実力者として君臨している点である。鳩山首相自身は細川内閣時には新党さきがけの衆院議員であり、内閣官房副長官のポストにあった。官邸スタッフとして与党側、とりわけ小沢との調整に追われたことであろう。そして、小沢の性格や政治手法、その豪腕ぶりと強引ぶりを肌で感じ取ったに違いない。
 両者が組んだ別名小鳩政権。その金看板は政治主導である。そして、昨年一二月に持ち上がった天皇特例会見をめぐる騒動は、小鳩政権による政治主導のあやうさを明らかにした。

1 天皇特例会見に至る経緯
【「一カ月ルール」】
 天皇が来日する外国の賓客と面会する公的行為を「ご引見」という。スケジュール調整および準備の観点から、宮内庁は外国要人から「ご引見」の希望がある場合には、1カ月前までに文書で申請することを外務省と協議の上で決定し、一九九五年にこのルールを文書化した。さらに、二〇〇三年に天皇が前立腺がん摘出手術を受けたことと彼の高齢化を考慮して、二〇〇四年二月以降は運用を厳格化した。この「厳守」は外務省、在外大使館のみならず、各国の在日大使館にも周知された。
 会見といっても、単に会って握手を交わして写真撮影をするだけではない。今回の中国の習近平国家副主席との会見時間は二四分に及んだ。「陛下は、公務の合間を縫って関係資料に目を通すなど、相手国の現状や歴史をはじめ、面会する要人の家族のことまでも事前に予習し、国の大小にかかわらず、心のこもった接遇をされる。その負担は決して軽くない。」(読売二〇〇九.一二.一三)
 さすがのプロ意識であり、「一カ月ルール」には合理性があるというべきだろう。今回の事件まで例外は天災を理由にした一件だけだ。

【中国にとっての天皇会見の利用価値】
 問題の根本は、訪日する習副主席の日程がなかなか確定せず、天皇会見の申請が「一カ月ルール」に抵触したことにある。外務省によれば、習の訪日日程の正式な通告が中国側から届いたのは、一一月二三日の祝日であった。翌日、外務省は宮内庁に会見の検討を求めるが、宮内庁は一一月二六日に会見不可と回答した。ルールからすれば一週間以上遅れていたのである。それでも、中国側は天皇会見に固執した。
 習は最高指導部である政治局常務委員の序列第六位に当たる要人で、胡錦濤国家主席の最有力後継者と目されている。その胡が副主席に就いたばかりの一九九八年に訪日した際には天皇と会見しており、習もこれにならって経歴に「箔」を付けたかったと考えられる。さもなければメンツがつぶされ、近い将来の主席昇格に悪影響を及ぼしかねない。中国の後継者レースは最後まで波乱含みなのである。
 実は中国による天皇の「政治利用」には大きな「前科」がある。宮沢内閣時の一九九二年に天皇・皇后が訪中した。先立つ一九八九年の天安門事件以来、中国は首脳の往来停止や経済制裁にあえいでいた。これを打開するカードとして中国が用いたのが天皇訪中であった。江沢民時代の中国外交を支えた銭其?はその回想録で、天皇訪中を「西側の対中制裁を打破するうえで、積極的な作用を発揮した」と述べている。
 今回も中国は周到なはずだった。二〇〇八年年初より外務省に「国家指導者」の来日を打診していた。一〇月ごろには当該の人物が習であること、加えて天皇との会見を望んでいることを伝えてきた。
 なぜこのような失態に至ったのか。中国では毎年一二月に来年の経済運営方針を決める中央経済工作会議が開催される。その日時が確定しなかったため、習の訪日日程も定まらなかったということのようだ。すでに一一月一九日には中国側から外務省に習訪日の非公式打診があった。そこで中国側は一カ月を切ってしまったについて、「内政上の理由で遅れた」と申し開きをした。

【特例会見が実現するまで①】
 時系列に沿って、会見が特例として認められるまでをみていこう。前述のとおり、一一月二六日に宮内庁は外務省に会見は実現できないと伝えた。一一月三〇日、日本政府は中国側に、「一カ月ルール」と天皇の健康状態から会見は無理であると正式に通告した。中国側はこれに納得せず、執拗な巻き返しをはかっていく。
 崔天凱駐日大使を介して、小沢や山岡賢次国会対策委員長といった与党要人ばかりか、中曽根康弘元首相など中国とパイプの太い関係者に対して特例的な措置を求め続けた。その過程で、一二月はじめには王光亜外務次官が日本大使館幹部に「会見が実現するかどうかの一点に習副主席訪日の成否はかかっている」と迫った。
 一二月四日夜、首相と小沢らが首相公邸で密会している。小沢はこの会談を全否定しているが、首相は「幻と会ったのかも」と半ば認めている。会談の内容は、普天間対応とともに天皇会見問題であった。後者について、小沢は「オレはどっちでもいいんだけどな」と首相に直接述べた。首相は、小沢の内意は会わせたいと判断した。(朝日二〇〇九.一二.二四)
 その後の普天間移設をめぐる首相の発言は結論先送りに大きく傾き、それを政府方針とする一二月一五日の決定に至る。天皇会見問題も「打開」に向けて動き出す。一二月七日、首相から再検討を指示された平野博文官房長官が羽毛田信吾宮内庁長官に、特例扱いを求める電話をかける。羽毛田はルールを盾にこれを拒否した。同日には、中国公使に泣きつかれた山岡が首相や平野に電話をしたとの話もある。一二月八日ごろには、訪中を控えた小沢が会見実現を首相に電話で求めたという(これも小沢は否定)。
 それでも一二月九日午前には、平野は官邸を訪れた崔大使に「陛下のお体のこともあり大変厳しい。首相と相談して結論を出したい」と伝えた。首相自身もこのころは会見不可で納得していたようだ。

【特例会見が実現するまで②】
 ここから事態は急展開する。九日、崔大使は官邸のあと国会に回って小沢と面会する。ここには山岡らも同席していた。翌日出発する小沢訪中団の名誉団長が小沢であり、団長が山岡であった。崔は「何とかして習副主席が天皇陛下と会えるようにしてほしい」と懇請した。これを受けて、小沢は平野に電話で「しっかりやってほしい」と政府方針の再考を求めたという。小沢は首相にも次のような電話を入れたらしい。小沢も首相も否定しているが、「関係者」「首相周辺」がそれを明言している。
 「オレの面子をつぶす気か」(『週刊文春』二〇〇九.一二.二四)「何をやっとるのか」「ゴチャゴチャやっとらんで早くせい」(『週刊新潮』二〇〇九.一二.二四)
 「オレの面子」とは、小沢の訪中を指している。小沢は胡錦濤との会見を望んでいたが、直前までその日程が決まらず、七日には困難との見方も出ていた。国会議員一四三人を含む総勢六〇〇人からの大訪中団を率いる小沢が国家主席に会えないとなれば、確かに面目丸つぶれではある。特例会見の決着には、小沢の事情がおおきく絡んでいたとみるべきだろう。
 さて、小沢の恫喝に「震え上がった」(文春、新潮とも同じ表現を使っている)首相は、平野に天皇会見を実現するよう宮内庁に再度の要請をする指示を出した。翌一〇日、平野は羽毛田に「運命の」電話をかける。ここで平野は「総理の指示」を拠り所に羽毛田に方針転換を強い口調で迫った。平野が用いた論拠は二点であった。その一・日中関係は政治的に非常に重要である、習は非常に重要な人物である。その二・中国側が天皇会見を強く望んでいる。羽毛田は抵抗するが、結局押し切られてしまう。
 一二月一一日に宮内庁は、一五日に天皇が習と会見することを発表する。それを受けて同日夕、羽毛田は緊急に記者会見を開いて、「顔を紅潮させて」その痛憤を吐露した。「その後、再度、官房長官から、総理の指示を受けての要請という前提でお話がありました。そうなると、宮内庁も内閣の一翼をしめる政府機関である以上、総理の補佐役である官房長官の指示には従うべき立場。大変異例なことではありますが陛下にお願いした。が、こういったことは二度とあってほしくないというのが私の切なる願いです。」(朝日二〇〇九.一二.一二)

2 羽毛田と小沢の対立
【「親善」と「外交」】
 羽毛田はその記者会見で、「一カ月ルール」の運用方針ついて「国の大小だとか、この国が大事でこの国は大事ではないという政治的重要性で取り扱いに差をつけることなくやってきた」と強調した。大国だから、政治的に重要だからというのは、ルールを犯す理由にならないのである。なぜかといえば、「両陛下のなさる国際親善は、政府の外交とは次元を異にし、相手国の政治的な重要性とかその国との間の政治的懸案があるとか、そういう政治判断を超えたところでなされるべきものだ」(同)
 天皇は国際親善を果たすのみで、外交という政治的価値観をともなう領域には達するべきではない。象徴天皇制から導き出されるこの当然の帰結を、羽毛田は明快に述べているのである。従って、今回の例外扱いは天皇の政治利用か、言い換えれば天皇を政治の領域に踏み込ませるものかと問われて羽毛田は、「大きくいえば、そういうことでしょう」と答えた。
 こう言われた首相は、同じ一一日の夜に首相官邸で記者団を前に、「1か月ルールは知っていたが、しゃくし定規なことが、諸外国との国際的な親善の意味で正しいことなのか。諸外国と日本の関係をより好転させるための話だから、政治利用という言葉は当たらない」(読売二〇〇九.一二.一二)と、羽毛田の認識に反論してみせた。
 もちろん、天皇の存在自体が政治的であり、その行動が無色透明ということはありえない。しかし、それをできるだけ政治的に脱色するためのしくみは用意されており、「一カ月ルール」もその一つとみなすことができよう。これを政治主導よろしく乗り越えてしまった。

【小沢の激怒】
 小沢率いる大訪中団約六〇〇人が北京の人民大会堂に勢ぞろいして、中国首脳とともに記念写真に収まった。加えて、国会議員には胡国家主席と一人ひとり握手して、「ツーショット」で写真撮影してもらうごほうびもあった。これらセレモニーのあと、小沢は念願していた胡との会談に臨んだ。小沢は大いに面目を施したのである。
 翌日、天皇特例会見発表とともに、前出した羽毛田の怒りが爆発する。特例会見実現と中国側の異例の大歓待はセットではないか、その舞台回しは小沢ではないか、そしてこれは天皇を中国に売るものだ──。安倍晋三元首相などからの厳しい批判に接して、帰国後の一四日、小沢は記者会見でついに胸中を露わにする。
「だから、なんとかという宮内庁の役人〔羽毛田〕が、どうだこうだいったそうだけれども、まったく、日本国憲法、民主主義というものを理解していない人間の発言としか思えない。ちょっと私には信じられない。」「しかも内閣の一部局じゃないですか、政府の。一部局の一役人が、内閣の方針、決定したことについてどうだこうだというのは、日本国憲法の精神、理念を理解していない、民主主義を理解していないと(いうのと)同時に、もしどうしても反対なら、辞表を提出した後に言うべきだ。」「私はルール無視していいとかなんとかいっているんじゃないよ。宮内庁の役人がつくったから、金科玉条で絶対だなんてそんなバカな話があるかっていうんですよ。ね」(産経二〇〇九.一二.一五)
 羽毛田に辞任を求める激しさである。怒りの収まらない小沢は、その夜の番記者とのオフレコ懇談で「俺は一カ月ルールがあるから、前からちゃんとやっておくように言ってたんだ。なのに平野は、何の調整もしてなかった。それも俺の責任になるのか!」(『週刊文春』二〇〇九.一二.二四)と、平野の怠慢をなじった。

【怒りの背景】
 すなわち、小沢の怒りの本来の矛先は、平野を中心とする官邸の調整能力の欠如、さらはそれを放置して問題を先送りする首相の煮え切らない姿勢に向けられていた。ちょうど時期が重なった自らの訪中を成功させるためにも、「一カ月ルール」を中国側に一番厳守させたかったのは、実は小沢本人であった。
 ところが、事前の調整は果たされず、中国側は横紙破りの会見実現に奔走している。もはや小沢の豪腕に頼る以外に解決の途はなかった。小沢にとって計算外だったのは、羽毛田が記者会見までして特例会見に至る舞台裏を明かしたことである。山口県出身の羽毛田には、安倍の支援で自民党から次期参院選に出る噂があった。(『週刊朝日』二〇一〇.一.一/一.八)
 無能の平野に代わって自分が骨を折ったのに、羽毛田がそれを台無しにした、しかも羽毛田は安倍の掌中にある輩ではないか──記者会見における小沢の心境はこう推察される。

3 小沢政治主導のあやうさ
【鳩山内閣の政治主導】
 鳩山内閣は、政権発足後ただちに事務次官会議を廃止し、それに代わる基本政策閣僚委員会と各省に政務三役会議を置いた。「政」が「官」を追いつめた事業仕分けも大きな注目を浴びた。これらの政治主導のバイブルこそ、小沢の『日本改造計画』(講談社、一九九三)である。
「戦前からの官僚制を温存したため、権力の中枢は「官」であり、政治家は「民」の代表にすぎないという意識をそのまま引きずってきた。/だから、たとえ国会の多数派となって、ある政党が政権を担っても、統治機構の外部の存在にすぎないという意識が残りつづけた。たとえば、与党である自民党は、しばしば「政府」に対して「要望」を出している。このような習慣があるのは、「官」としての政府が政治の頂点であり、与党はその周辺に存在しているものという図式になっているからだ。」
 この「図式」を覆すために、鳩山内閣は上記のとおり権力の中枢から「官」を排除したのである。これこそ日本国憲法が本来要請する統治システムであり、また国民の負託を受けた選良によるあるべき民主主義の姿と小沢なら言う。彼による羽毛田批判の論拠もここにある。一二月一五日、報道陣には非公開にされた政治資金パーティーで、小沢は「宮内庁長官の言っていることはおかしい。政府が決めたことに口をはさむべきではない」と語ったという。羽毛田は憲法と民主主義を理解していないと小沢が語気を強めたのも、このつながりで理解できる。

【論理のすり替え】
 しかし、私には小沢は政治主導をはき違えているとしか思えない。小沢の仇敵であった野中広務は、小沢らが自民党を飛び出し推し進めた「政治改革」を「自分たちのやってきたこと〔金丸切り捨てによる経世会の掌握〕の責任をシステムの問題〔選挙制度〕にすり替えようとした」と語っている。今回もそれと同じ構図が繰り返されたのではないか。あるいは、つじつまの合わないことを、政治主導という免罪符を使って合理化しただけではないか。
 一二月一六日は田中角栄の一七回忌の命日であった。小沢は柏崎市まで墓参に訪れている。それほど師事した角栄から小沢は日中交流を受け継いだ。角栄の墓前で、日中友好という国益を頑迷な「一部局の一役人」による抵抗から守ったと誇らしい気持ちだったかもしれない。
 なるほど今回の決着によって、日中関係にひびが入らず、小沢の最高実力者としての面目も保つことができた。だが、「役人がつくった」ルールだからと「金科玉条」にせず、政治主導にかこつけてこれを反故にしてしまった代償は大きい。諸外国から中国だけ特別扱いするのかと問われた場合、どう答えるのか。中国には、日本はゴリ押しのきく国だと受け止められたろう。
 ルールは公平性を担保するためにある。それを枉げることは政治主導でもなんでもない。単なる場当たり的な対症療法である。例外扱いを「役人がとやかく言うべきではない」と論理をすり替えるところに、政治主導についての小沢の確信犯的な誤解がある。

【小沢の「嫌官」原理主義】
 二〇年にわたって小沢を取材してきた渡辺乾介によれば、赤貧から身を起こして大物政治家となった父・佐重喜をみて育った小沢は、父親譲りの「反体制」思想の持ち主であるという。この場合の「体制」とは、既存の権力機構、煎じ詰めれば官僚機構を指す。その「嫌官」ぶりは徹底していた。研究会を立ち上げるにも、高級官僚は起用せずに自前の人脈で研究者らを集めた。外務省に頼るのではなく、外国人秘書を三人雇って独自の情報経路を確保している。
 その小沢に大きな屈辱を与え、彼を「嫌官」原理主義者にしたのが、湾岸戦争である。当時、小沢は自民党幹事長であり、国際貢献の実現、具体的には自衛隊の海外派遣のために調整を重ねた。そこに大きく立ちふさがったのが、外務省であり内閣法制局であった。
 官僚機構に阻まれて、人は出さないままで、いくら大枚をつぎ込んでも国際社会から評価されない。この汚名をいかにそそぐかが、小沢の「嫌官」原理主義の根底に据えられた。とりわけ、従来積み上げてきた憲法解釈との整合性から、国民に信託された政権与党の機動的な政策判断を妨害する内閣法制局は、官僚支配の牙城にほかならない。のちの衆院予算員会で、小沢は内閣法制局長官の面前で、その憲法解釈答弁に「お役所としてちょっと僭越だと思う」と声を荒げた(一九九七.一〇.一三)。
 しかし、そこまでの苦労を「お役所」にさせている政治の不作為に、小沢は気づいているのか。湾岸戦争時に内閣法制局長官として辛酸をなめた工藤敦夫は、こう振り返っている。「合っていないと思ったら、速やかに改正すべきなんですね。それが、合っていないから、それをちょっと曲げろと言うのは、解釈ではない。」
 確かに、ルールに不都合があるならば、それ自体を見直すことこそ政治主導であろう。ただ、小沢からみれば、こう開き直って時間のかかるルール改正を持ち出す論法こそ、官僚主義の宿痾ということになる。小沢には今回の問題での宮内庁長官の役回りは、内閣法制局長官のそれと重なって写ったことだろう。

むすびにかえて
 権力は恣意的行使される。その負の経験から学んで統治のしくみが整えられてきた。権力を縛るために憲法・法律が制定され、その解釈が積み重ねられ、慣例が形成されてきた。翻って、小鳩内閣の政治主導は、これと逆行している。その意味で、きわめて危険な要素をはらむ。
 しかも、小沢はいま師匠の角栄以上の権力を確立している。首相は小沢の顔色をうかがって右往左往するばかり。秘密にすべき会合を認めるなど資質に欠ける。閣僚経験者は三人のみ。当選回数で小沢の一四回に匹敵する者は羽田孜と渡部恒三だけ。「一二三」(ひふみ)とよばれる当選一?三回の衆院議員が七五%もいる。小沢自身、「民主党の中には、“権力”の何たるかを知っている人間が一人もいない。人材が乏しい」(『週刊現代』二〇〇九.一二.一二)と嘆く。
 「党主席にして国家主席」(立花隆)は言い過ぎにしても、党内でだれも小沢を抑えられない。口が重い小沢の意向を忖度する「ご推察政治」が政権与党や霞が関で横行している。こうした状況で、天皇特例会見が示したように、権力者を掣肘するルールが、政治主導の名を借りて今後もご都合主義的に無視されていくのか。
 一月召集の通常国会に、与党三党は官僚の答弁禁止を柱とする国会審議活性化関連法案を提出する。内閣法制局長官も答弁できなくなる。七月の参院選を経て、民主党が参院でも単独過半数を占めれば、政治主導による憲法解釈の変更に踏み出すかもしれない。
 政権交代に浮かれている時期はとうに過ぎた。わたしたちは、鳩山民主党政権のあやうい政治主導の正邪を冷静にみきわめる必要がある。(文中、敬称略)



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