読売新聞の論調にみる「改憲意識インプット戦略」

   西川伸一  * 『社会主義理論学会会報』第56号(2004年7月10日)

  *以下は、『カオスとロゴス』第25号(2004年6月)掲載の論文「読売新聞の「改憲意識インプット戦略」」を圧縮したものである。                

  はじめに

 憲法改正の最後の手続きは、言うまでもなく国民投票である。これは日本国憲法96条に定められている。そこで、憲法改正を本気で実現しようとすれば、長期的戦略に基づいて、現行憲法の機能不全を国民の意識に刷り込んでいく必要がある。

 この報告では、読売新聞の1980年代後半以降の論調をたどることで、その一断面を明らかにしたい。

  1 読売新聞「主筆」としての渡邉恒雄

 さて、読売新聞といえば、発行部数1000万部を超すわが国最大の新聞である。その世論形成に与える影響は計り知れない。この読売新聞に文字どおり君臨するのが、ナベツネこと渡邉恒雄・読売新聞グループ社長である。そして渡邉には「主筆」というもう一つの肩書きがある。彼は1985年6月に専務・論説委員長のまま「主筆」になり、現在に至っている。

 渡邉は「主筆」について次のように語っている。

「僕は死ぬまで主筆だと言っている。主筆というのは「筆政を掌る」のが役目。分かりやすく言うと、社論を決めるということ。読売では、僕が主筆なんだ。僕は社長を辞めても、主筆だけは放さない。読売の社論は僕が最終的に責任を持つ。そう思っているんです。(中略)朝日の空虚な観念論を完全にひっくり返すまでは僕は主筆を辞めれないんだよ。僕以外に誰ができる。そういう信念なんだ。」(渡邉、1999)

 このように、読売の社論は「主筆」が決める制度となっている。まもなく78歳になろうとする老人が、この「主筆」だけは手放さないと公言しているのである。彼の「信念」流布のために、1000万部を超える大新聞の社論を牛耳り、世論を操っている。なんとも空恐ろしい話だ。

 言い換えれば、読売の社論は「主筆」渡邉の意のままに統一されている、ということである。「主筆」渡邉が憲法改正を唱えれば、論説委員会はそれに従って社論を決めることになろう。それゆえ、国民への改憲意識インプットに果たした渡邉の「功績」は計り知れない。渡邉によれば、「読売新聞が憲法改正試案を出したら、改憲論がどんどん出てきて、世論の改憲支持が高まって、しかも国会の中に憲法調査会をつくることになった」という(渡邉、2000)。

 そして渡邉は、満足げに次のように語っている。「我々の最大の武器は、1000万部行き渡っている紙面なんだ。そこに我々の主張を掲げられる。これだけの武器を持っているんだから、これを善用しなければ。」(渡邉、2000)

 「善用」という言葉に注意したい。要するに、渡邉の「信念」の開陳・流布・実現の道具として提言報道を利用する、という意味なのであろう。これにより、世論を導き、政治を動かす。最近でもイラクでの邦人人質事件について、読売が自己責任論で声高な論陣を張ったことが、世論形成に大きな影響を及ぼした。これが「善用」の一例を示している。

 渡邉は公式にはいかなる民主的審判も受けない。いわば「1000万部の独裁者」が世論を誘導し、国の政治の根幹を操っているという状況にある。

  2 社説論調の変遷

  (1)元旦社説

 元旦社説には読売のその時々の立場がはっきり表れる。たとえば、湾岸危機が戦争に至ることが濃厚になった1991年社説では、次のようにたたみかけている。

「国連憲章、とくにその第七章と矛盾するような憲法解釈は改めるべきだ。」「日本が一国平和主義のカラに閉じこもり、カネさえ出せば国際社会の一員としての義務は果たせたとして、すませるものではない。」

 まだこの時点では、憲法改正ではなく憲法解釈の変更を求めているにすぎない。これに対して、1993年元旦社説は、「二十一世紀に向けて、世界の変動を見据えた国民的次元の新しい憲法論議が必要な時を迎えている。」と書いた。

 これは、その前年12月に、読売が設置した「憲法問題調査会」の第1次提言がなされたことと関連している。そこでは憲法九条二項の改正が望ましいと提言された。これを受けた1993年元旦社説では、憲法問題調査会の主張を紹介した上で、「新しい憲法論議が必要」とした。つまり、改憲志向を遠回しに示したのみで、社としての立場は明言していない。

 ところが、1994年元旦社説になると、「修正」という言葉を用いて、憲法改正を事実上主張することになる。この年の11月に出される憲法改正試案の地ならしであると推測される。

 1994年11月の憲法改正試案発表以後は当然、元旦社説で憲法改正が主張されていく。そして、興味深いことに、国会での憲法調査会の議論がはじまったのちの2001年元旦社説を最後に、憲法改正については元旦社説で取りあげられなくなる。憲法調査会が軌道に乗ったことで、所期の目的は達成されたと判断したのだろうか。

  (2)憲法記念日社説

 読売の憲法意識を知る上で、憲法記念日の社説にも注目する必要もある。

 1991年社説は、「過去の狭い憲法解釈」に縛られずに「タブーを排して、多面的な角度から憲法論議を進めるべきだ」と主張する。「憲法解釈は改めるべきだ」とした1991年元旦社説も考え合わせると、この1991年に読売の改憲意識インプット戦略がスタートしたと判断できる。

 1994年社説になると、改憲を理由づける二つの論点が新たに追加される。一つは、「これほど長い期間にわたり、憲法が一度も変わらなかった国は、世界でも異例である」こと。もう一つは、改憲の焦点、すなわち現実との乖離が著しいのは第9条だけでなく、公金の支出制限を定めた第89条もそれに当たるという指摘である。

 1997年社説は「衆参両院に常設の憲法問題等委員会」が提言される。これは、のちに憲法調査会として実現する。またこの社説でも、各種調査で改憲賛成が反対を上回っていること、現行憲法は改正されていない「世界最古」の憲法であることが念押しされている。

 小泉首相の登場を受けた2001年社説以降は、集団的自衛権の行使容認へと憲法解釈を変更せよとの論調が強まる。当然、こうした主張は、内閣法制局のあり方への強い批判へと連動する。たとえば、2001年社説では、「国益の観点から内閣が総合的に下すべき最高度の政策判断は、政府の一機関に過ぎない内閣法制局が左右するような筋合いのものではない。」

 2003年社説は、「読売新聞の世論調査によると、憲法改正に賛成の人は54%と、六年連続で半数を超えた。憲法改正論が国民の間に広く定着したことは、もはや明らかだ」と書き、改憲意識インプット戦略の成果を誇っている。

   (3)内閣法制局に言及した社説

 読売が内閣法制局を目障りに感じはじめるのは、むしろ遅いくらいである。

 阪神・淡路大震災から1年経った1996年1月17日付社説でようやく、内閣法制局の憲法解釈それ自体が「憲法の要請だろうか」と疑問視されはじめる。具体的には、緊急事態であっても、首相が閣議決定に基づかずに各省庁を直接、指揮監督することについて、内閣法制局は違憲の疑いがある、として難色を示した。この点を衝いた。

 その後、読売新聞社が刊行していたオピニオン雑誌『This is 読売』1997年5月号では、コラム「寸言」が「内閣法制局は廃止せよ」と訴えている。15年間にわたるこの匿名コラムの筆者は、実は渡邉恒雄であった。内閣法制局に対する渡邉の意識がここに明確に表れている。これが2001年以降の読売社説の論調に反映される。

 「憲法調査会 「新憲法」への道筋固める1年に」と題された2001年2月9日付社説は、集団的自衛権行使不可を「奇妙な解釈」と形容し、その解釈は「内閣法制局の専権事項ではない」と断じた。同年憲法記念日社説もこの点に言及し、「政府の一機関に過ぎない内閣法制局が左右するような筋合いのものではない」という。

 さらに、「9.11」直後の日米首脳会談を受けた2001年9月27日付社説では、「自衛隊の行動がどこまで武力行使と一体となるかについて、極めて限定的に解釈してきた内閣法制局の在り方も、見直す必要がある」と述べ、はじめて内閣法制局のあり方自体を俎上に載せた。

 2003年元日社説になると、自衛隊のインド洋派遣は「内閣法制局がいかに理屈を組み立てて否定しようと、実態的には、いわゆる集団的自衛権の行使そのものである」といい切り、「子供にでもウソとわかる強弁」「明々白々な現実から遊離した空虚な言葉遊び」と、ややヒステリックに響く形容すら用いられている。

 以上のとおり、読売社説の内閣法制局に対する姿勢は1990年代はまだ穏やかであったが、今世紀に入って厳しいものに変わっている。そのきつい口調は、「9.11」以降のアメリカからの外圧に苦慮する日本の支配層のいらだちをそのまま代弁しているようにみえる。

  3 改憲意識はどこまで進んだか

 それでは、これまで検討してきた1991年以降の読売の改憲意識インプット戦略は、国民の憲法意識にどのような変化をもたらしたのか。

 読売は1981年以来、5年ごとに憲法に関する定期調査を行っている。ところが、1991年調査の次は1993年に実施され、その後は毎年実施となっている。改憲意識インプット戦略の成果を測定するためであることはまちがいない。

 毎回設問され、その回答結果が1面で必ず見出しとなる質問は、「あなたは、今の憲法を、改正する方がよいと思いますか、改正しない方がよいと思いますか」である。その回答の経年変化をみると、二つのことがわかる。第一に1993年に改正派が非改正派を上回って以降、この傾向は定着していること。第二に改正派は1990年代には50%前後だったのが、2000年からは50%台後半から60%へと傾向的に増加していること。

 第一の点について補足すれば、1981年から開始されたこの調査で、改正派が非改正派を上回ったのは、1993年調査がはじめてだった。湾岸戦争、その後のPKO活動をめぐる関心の高まりが、国民の憲法意識を大きく変えたことがわかる。

 一連のこの調査で読売の意図をもっと露骨に感じるのは、読売および日本の支配層が改正を最も望んでいるはずの第9条には、2001年調査までは直接質問していない点である。そうではなくて、「あなたは、いまの日本の憲法のどんな点に関心をお持ちですか。」と問いかけ、選択肢に「戦争放棄、自衛隊、徴兵制」(1993年調査まで)ないしは「戦争放棄、自衛隊」(1995年調査以降)を設定している。

 当然、この選択肢が一番多く選ばれ、憲法改正には第9条改正が避けられないことが暗示される。そして、ようやく2002年調査で第9条を直接問うことになる。その結果、第9条改正派は漸増しているものの、過半数には達していないということが明らかになった。従って、読売の期待にそぐわず、2002年と2003年の記事では、この設問と回答についてまったく論評されていない。2004年では言及されたが、冷静な記述にとどまっている。

  むすびにかえて

 「あなたも腹を固める時がきた」と山口二郎北海道大学教授が書いたのは、2003年6月のことだった。山口は政府と自民党に対して、「小泉政権と自民党が民主主義、立憲主義を守ると言うのなら、憲法改正を発議し、まず九条だけについてその存廃を国民に問うべきである」と結んだ(『週刊金曜日』2003年6月13日)。

 これは大きな「賭け」だが、上述の読売の調査にも表れているように、第9条に限定した国民投票なら「まだ」勝てるかもしれない。そうすれば、第9条は「押しつけ」られたのではなく、国民が選び取ったことになる。改憲勢力とて、国民投票をやって負けたら一巻の終わりである。ピンチをチャンスに変えたい。

【参考文献】

渡邉恒雄『天運天職』(光文社、1999年)

『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社、2000年)

魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』(講談社、2000年)


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