革命家の「寅さん」へのオマージュ──解説に代えて

   西川伸一 村岡到『悔いなき生き方は可能だ』(ロゴス社、2007年)解説

 村岡さんに私がはじめて会ったのは、一九八〇年代の末であるから、かれこれ二〇年近いつき合いにある。その出会いはまったくの偶然といってよい。当時、村岡さんが発行していた『現代と展望』という雑誌が、『朝日新聞』一九八八年七月五日夕刊の「窓」で紹介され、その記事をたまたま読んだ私が同誌を購入した。そこに「抜き刷りの送付を!」という呼びかけ文を見つけて、論文の抜き刷りを送った。そうしたら村岡さんから一度会いたいと手紙が来て、新宿のもうなくなってしまった「談話室滝沢」でお会いしたのが最初である。

 きっかけとなった記事の筆者は、いま村岡さんが編集長をつとめる『もうひとつの世界へ』で編集委員をご一緒している深津真澄さん(当時、『朝日新聞』論説委員)であった。そのことを知ったのは、ずっと後のことである。

 それまでも、『現代の理論』や『朝日ジャーナル』で「村岡到」なる名前は知っていた。本書でも言及されている共産党への内在的批判を興味深く読んでいた。

 初対面の印象は、ちょっとぶっきらぼうな人だなというのが正直なところである。話し方にもどこかで聞いたような独特の特徴があった。話の内容は私が送った論文の感想やその論文を『現代と展望』に転載したいから、それ用に手を入れてほしい、といったところだったろうか。小一時間話したのち、「まだ仕事をしていくから」と原稿用紙に向かう村岡さんを席に残して、「運命の出会い」は終わったのである。

 あの後の私の遍歴を考えると、まさに「運命の出会い」であった。私が問題関心を少しずつ広げることができたのも、村岡さんの論文や村岡さんが主宰する研究会で多くのことを学んだからである。そして、内閣法制局をテーマにした最初の拙著を刊行するチャンスをつかんだのも、村岡さんが編集している雑誌『カオスとロゴス』に拙稿が掲載されたことが端緒となった。

 村岡さんとのつき合いが続くうちに、実は村岡さんは映画監督の山田洋次のファンで、「フーテンの寅さん」をよく観るということを知った。あの初対面で私が感じた、村岡さんの話し方の特徴は、寅さん譲りだったのだと合点した次第である。時に毒を吐きながら、それがどこか憎めないのも寅さん譲りの洒脱さにあるのかもしれない。

 寅さんは決して人にこびない。おべんちゃらもいわない。計算ずくの腹芸もきらいだ。不器用で愚直。だからすがすがしい。まさに村岡さんの「悔いなき生き方」そのものではないか。ただ、寅さんの恋は実らないのが「通念」だが、さすが革命家の寅さんはその「通念」を粉砕してしまった。

 その山田洋次監督から、村岡さんは「スカブラ」ということばを聞いたことがあるという。大きな国語辞典にも載っていない。かつての筑豊炭鉱の労働者街でスカッとしてブラブラしている「芸人」がいたところから生まれたようだ。さしずめ、寅さんはテキヤのスカブラに、村岡さんは革命家のスカブラに擬せられよう。

 さて、筆者の人となりの紹介はこれくらいにして、本書の内容について筆を進めたい。

 「九一年のソ連邦崩壊を受けて、理論的反省を迫られ、社会主義について自分の頭で考えるようになった。なかでも九九年末に法学者尾高朝雄の『法の窮極に在るもの』(有斐閣、一九四七年)と出会い、啓示を与えられた」(一四頁)と筆者は書いている。これが本書を貫く基本的視点となっている。確かにソ連はひどい国であった。しかし、もしソ連が存続していたら、右翼的主張はこれほどはびこったであろうか。

 この時代状況にあって、筆者は果敢に「社会主義」を対置する。とはいえ、マルクス、エンゲルス、レーニンといった「教条」を念仏のように唱えるものではない。筆者の旺盛な知識欲に基づく独学で、「通念」を論破し二一世紀の社会主義像を構築するのである。それは「連帯社会主義」をめざす「則法革命」の探究と実践と要約される(前著『社会主義はなぜ大切か』)。たかが独学と軽んじてはならない。一五〇〇頁を超える『日本語大シソーラス』(大修館、二〇〇三年)を編んだ山口翼は市井の研究者である。山口は三〇年以上にわたる孤独な作業を続けて、ついに同書を実らせた。そして、一万五〇〇〇円という価格にもかかわらず、同書は刊行後、版を重ねている。高く評価されている証拠であろう。私のもっているのは第九刷である。

 これと同様の執念を、本書には感じ取ることができる。そして、尾高朝雄の啓示にはじまる知的格闘のなかから、筆者がたどりついたのが愛であり、〈行い〉であり、農業であり、「則法革命」であった。

 愛については、エーリッヒ・フロムに依拠する一方で、マルクスの愛に対する考察が不十分であったことを指摘し、疎外された労働の対概念は〈愛ある労働〉であることを明らかにする。そして、〈愛ある労働〉における労働の動機は金銭の獲得ではなく、誇りをめぐる競争=誇競になるという。これが愛を根底にした「連帯社会主義」下での、労働のあり方なのである。

 また、奥さんの前田環さんに紹介されたタルムード(ユダヤ教でモーセの律法に対して、まだ成文化せず十数世紀にわたって口伝された習慣律をラビたちが集大成したもの)のことばから、筆者は〈行い〉の重要性に気づく。ここでの〈行い〉とは、仕事以外の日常生活のなかでの振る舞いを指している。筆者でいえば活動や闘争の現場から離れた生活空間にあたろう。PTAの役員などを筆者は経験しているが、「やらなくても済むものならしないほうがよいと考えていた」。

 それは誰でもそうであろう。しかし〈行い〉を大切にしてきたなら、活動や闘争ははるかに充実したものになったのにと筆者は反省する。還暦を過ぎても、こうしたみずみずしい謙虚さを筆者は忘れていない。

 マルクスやマルクス主義が農業のもつ深遠な内容を十分理解してこなかった点にも、筆者は斬り込む。マルクスには「土地」という意識ばかりで、「母なる大地」という想定は弱かった。そのために「捨象されたもの」は、マルクス主義の農業論に大きな欠落をもたらしたのだった。ちなみに、日本の国家予算のうち農業に使われるのは四%なのに対して、軍事費は六%である。この現状は、筆者の農業保護論をきわめて説得的なものにしている。

 法(律)が社会の存続の上で決定的な位置を占めていることに開眼した筆者が、「則法革命」の提唱に向かうのはむしろ必然的といえよう。

 主権在民と民主政が憲法上保障されている今日、旧来の「政治権力を獲得する」という革命のスローガンはなにを意味するのか。実は、「政治の次元で原理の上で根本的に変革しなければならない内実はもはやない」と筆者は説く。そして、「経済的変革と政治的改善とを、法律制度としても形成・確立する必要がある」として、「則法革命」(一三五頁)という新しいことばを打ち出す。従来、「平和革命」「多数者革命」とよばれてきたが、これでは法の重要性が明確にならないからである。

 果たして現実的だろうか、と首をひねる主張もないわけではない。しかし、「抽象的立場の主張ではなく、対案をめぐる討論を」(一八二頁)という筆者の意見に、私は全面的に賛成する。対案なき反対は無意味もしくは無責任にちかい。筆者が対案を常に提示して、時代の難題に立ち向かう姿勢は「オマージュ」の一語に尽きる。

 最後に、私のこれまでの生き方は悔いばかりだが、解説を書くために本書のゲラを一読して、「なんとかなる、さあやるぞ」という気分になった。そういえば、「寅さん」映画を見終えたときも同じような心持ちになる。

                              
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