書評・内藤一成『貴族院』(同成社、2008年)

   西川伸一『もうひとつの世界へ』第15号(2008年6月)60頁。

 江戸時代、日本は「鎖国」していた──こうした日本史の「常識」が覆りつつある。高校の教科書には、「鎖国」という言葉を本文中に出さないものも、すでにあるという。「鎖国」は幕府の公式見解にすぎず、実際には当時の日本は東アジアの中で盛んに交易を行っていた。(「朝日新聞」2008年3月12日)

 先入観に縛られると、理解を誤る。貴族院についても、同様のことがあてはまるのではないか。議会とは名ばかりのラバースタンプ機関──私は貴族院について、せいぜいこの程度の認識しかもちあわせていなかった。

 ところが、本書を読み進めていくと、貴族院は単なるお飾りではなく、衆議院と政府の間に立って国益を熟議する誇り高き存在であったことがわかる。皇室の藩屏(「垣根」=守護者)意識が、その矜持を支えていた。もとより明治憲法は衆議院の優越を認めておらず、仮に衆議院が可決した法案であっても、貴族院が否決すればその法案は不成立になった。政権担当者にとっては、うるさ型がそろう貴族院をどうさばくかは常に頭の痛い問題であった。

 貴族院議員は、七つのカテゴリーからなる複雑な構成をなしていた。@皇族議員、A公侯爵議員、B伯子男爵議員、C勅選議員、D多額納税者議員、E帝国学士院会員議員、さらにはF朝鮮・台湾在住者議員である。@Aは世襲であり、B〜Fの任期は7年であった。Bは同爵者による互選で選ばれ、Cには官僚経験者が多く勅任された。BCが貴族院の議論の趨勢を決める存在であった。

 さて、1891年の議会開設にむけて、前年には貴族院議員の議席が続々と埋まっていった。何百人にもなる候補者が推薦され、人選が滞ったのはCであった。それでも山県有朋を首相とする時の藩閥政府は、政治的打算に走ることなく、客観的な要件を満たせば反政府的な立場の人であっても議席を与えた。

 これについて筆者は、「貴族院の独立性に意味をあたえるものとして、何より近代日本が立憲政治の導入に真摯に取り組んだ証として高く評価されてよい」と主張する。そして、第一議会において、貴族院は政府に対しても衆議院に対しても、従順ならざる存在感を遺憾なく発揮したのである。

 その後も貴族院は、第15議会では第4次伊藤内閣が提出した増税法案に強硬に反対し、第28議会では第2次西園寺内閣の最重要法案であった衆議院選挙法改正案を、圧倒的多数で葬り去ってしまった。さらに、第1次近衛内閣が第73議会に提出した国家総動員法案についても、その授権法的性格を厳しく指弾した。戦局が悪化の一途をたどると、貴族院本会議で敢然と戦争批判、東条内閣批判の演説をぶつ強者の議員もいた。

 貴族院は1947年3月31日に最後の議事を終えた。その折、徳川家正議長は活動終了の辞を述べた。「我が貴族院は慎重、練熟、耐久の府として大いに国運の進展に貢献し、或時は憲政擁護の為、将又綱紀粛正の為に尽くしたことも一再に止まりませぬ」

 ノーブレス・オブリージ(高い地位に伴う道徳的・精神的義務)の府が放った光彩を、わたしたちは曇りのない眼で受け止める必要があろう。

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