書評・エマ・ラーキン、大石健太郎訳『ミャンマーという国への旅』(晶文社、2005年)

西川伸一『もうひとつの世界へ』第17号(2008年10月)60頁。

 『1984年』といえば、ジョージ・オーウェルの有名な逆ユートピア小説である。実は、オーウェルは当時の英領インド帝国ビルマに、警察官として1922年から約5年間勤務していたのである。筆者はオーウェルの足跡を追って、1995年からビルマを旅する。そこで筆者が見たものは、まさに『1984年』に登場する「オセアニア国」さながらの世界だった。
 軍事政権はオセアニア国の支配者ビッグ・ブラザーに擬せられる。そして、軍事政権はいわば彼の地の「新語法」に従って、国名や地名を次々と変えていった。それは歴史の書き換えを意味していた。「地名が新しくなれば、旧名は地図上から消えてなくなる。そして最終的には、人の記憶からも消え失せてしまう。こういったことが可能であれば、過去の出来事をも消し去ることが可能なはずだ。」
 ちなみに、邦題の「ミャンマーという国」には、軍事政権の一方的な国名変更に対する訳者の皮肉がこめられている。
 現代の逆ユートピアでは、歴史と事実は嫌悪の対象でしかなく、図書館には歴史の本は存在しない。軍事政権は「歴史のない国」づくりをめざしている。というのも、「現状を維持していくためには、嘘で固めねばならない」からだ。
 事実を国民に知らせないためには、教育と監視が重要である。筆者はかつての英語教師に話を聞く機会に恵まれた。彼は教育の現状をこう嘆く。「学校では、もう何も教えないのです。子どもたちはただ暗記するだけです。……数学の問題だって暗記ですよ。生徒たちは3×7がどうして21になるのかわからないのです。ただ3×7=21と憶えるだけです。」
 こうして、子どもたちから思考力が、いいかえれば「嘘」を見抜く脳細胞が、ロボトミー手術のように次第に切除されていく。従って、教育の荒廃は著しい。大学は最高学府の機能をまったく果たしていない。
 一方、監視については、オセアニア国ではビッグ・ブラザーが「テレスクリーン」を通じて、国民に対して常時目を光らしている。「ビッグ・ブラザーがあなたを見守っている」という標語とともに。それが現実となった国では「軍情報部」がその役割を果たし、「夫婦間の痴話喧嘩」までが捕捉されている。筆者はある男性ガイドから、次のように耳打ちされた。「私は友人と一緒のとき、人前ではサッカーと富籤の話しかしません。」
 さらに、独裁政権にとって「敵」は欠かせない。「敵」の存在が権力を正当化する。オセアニア国であれば「人民の敵ゴールドスタイン」である。そこでは、国民がゴールドスタインの映像に憎悪をふりしぼる二分間の「業」が、毎日設定されている。軍事政権の場合は、もちろんアウン・サン・スー・チーである。「人民の望みの表象」と名付けられた集会がいくつも開かれ、動員された1万5000人もの人々がスー・チーに「転向」を求めて絶叫するのだ。
 軍事政権がスー・チーを処刑せず、軟禁を続けているのは、本音では格好の「敵」を失いたくないからではないかとさえ思えてくる。
 この悪魔的な政権が依拠するロジックは、『1984年』ですでに喝破されていた。権力の生理についてのオーウェルの慧眼を再認識させてくれる一書である。

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