新刊案内・村岡到著『連帯社会主義への政治理論---マルクス主義を超えて』(五月書房)〜政治の多元主義的把握への野心的な試み

   西川伸一  * 『QUEST』第15号(2001年9月)掲載

 政治学科の学生が必ず学ぶ政治学の古典的テーマに、地域権力構造研究というものがある。これは1950年代にアメリカで展開された「だれが支配するか」をめぐる論争である。

 火付け役となったフロイト・ハンターが、一握りの権力エリートがコミュニティのあらゆる問題を牛耳っていると結論づけたのに対して、のちのアメリカ政治学会会長ロバート・ダールは、リーダーは問題ごとに多元的に存在すると反論した。ハンターはアトランタを、ダールはニューヘヴン(ニューイングランド州)を実地に調査している。

 ダールのこの考え方は「ポリアーキー」(多頭制)とよばれ、政治学におけるもっとも有名な専門用語の一つになっている。そして、彼の多元主義的なとらえ方は日本政治の研究にも強い影響を与えた。

 1970年代まではエリート主義的、ないしはマルクス主義的なアプローチが幅を利かせていた。一枚岩的な権力エリート、ないしは支配階級が日本政治を支配しているというものである。それに対して、1970年代末より台頭してきたのが、多元主義的アプローチである。それによれば、たとえば、自民党だけが政権を担当しているが、自民党は派閥の連合体にすぎず、一方野党には国会審議において、相当の抵抗手段(「ヴィスコシティ=粘着性」)が制度的に保証されている。官僚制も省庁間で利害が多元化されている。

 いまではこれが政治学の通説といってよい。

 さて、村岡著である。第I部は「通説の検討と新構想」。そこではいわば「マルクス主義政治学」の通説が痛快なまでにくつがえされる。「政治の領域では、原理の上で根本的に変革しなければならない内実はなかった」(同書、168頁)との記述に接するとき、左翼的信条を抱く人々は卒倒するのではないか。

 前著にも共通する筆者の研究手法は、ことばへの徹底したこだわりである。「法(律)」「唯物史観」「プロレタリアート独裁」「市民」といったおなじみの用語がテキストに則ってこれでもかと再検討され、マルクスやマルクス主義、さらには先行研究の誤りや限界がストレートに指摘される。

 「〈法(律)〉の問題は、〈マルクス主義における空白〉をなしていたのである」(20頁)、「〈資本制の不当性や崩壊〉の問題は、「唯物史観」に頼らなくても、いや頼らないほうが明確にできる」(69-70頁)、「「プロレタリアート独裁」論を根本的に清算することによって、〈代議制的民主政〉においては、〈労働者・市民〉を主体として〈法(律)〉に則って、社会主義への革命を実現することが可能である」(128頁)

 これを筆者は〈連帯社会主義〉と名付け、〈則法革命〉によってそれに到達するとしている。また、以上の通説見直しとパラレルで主張されるのが、オーストリアの社会主義理論の再評価である。

 ところで筆者は随所で〈現実〉の直視を強調している。まったく同感だ。「いい加減に目を覚ませ」といっているようにも聞こえる。「マルクス主義を超え」られない、いわば既得権益集団が、自己正当化のためにジャルゴンをふりまわすのはかなわない。一方、本書の結論は、どうやら政治についての多元主義的理解に落ちつくようだ。それは、ダールの主張や日本政治学の通説に限りなく近い。

 確かに、邪悪な支配階級が一枚岩的に存在すると仮定したほうが、闘うファイトはわく。しかし、政治の現実はそれほど単純ではない。たとえば、集団的自衛権の行使をめぐり、政府与党と内閣法制局は鋭く対立している。

 一つだけ質問しよう。〈革命〉について、まず「議会の選挙において革命をめざす勢力が多数派を占めることになる」という段階があり、その後に「〈革命政府〉が樹立される」という時期が想定されている(178-179頁)。しかし、議会の多数派が〈革命勢力〉であるならば、議院内閣制に従って〈革命政府〉が成立するはずだ。なぜ二つの段階が用意されなければならないのか。その間に憲法停止のような断絶があるとするならば、〈則法革命〉と矛盾しないか。さらに、〈革命〉とはやはり〈いつかくる日〉と想定しなければならないのか。

 第II部は「補論」として、「私のトロキズム体験」や前著に対する「批評に答える」ほか時事評論である。「私のトロキズム体験」は出色。村岡さんの話し方は映画の寅さんに似ていると常々思っていたが、これを読んで納得した。村岡さんは革命家の寅さん、いやスカブラなのだ!それはともかく、活動家同士の駆け引きなど、人間のもっともどろどろした側面がホンネで描かれていて興味が尽きない。

 本書はいうまでもなく論争の書である。バッタバッタと斬られた人は数知れない。これが学問的交流や友情にとっての妨げにならないという「寛容さ」を私は大切にしたい。9月29日予定の本書をめぐる討論会がその確認の場にならんことを。


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