ぼくと語学とパルヴス研究

   西川伸一『トロツキー研究』50号(2007年6月)65-68頁

 私が本誌に拙文を書いたのは第13号(1994年秋)であった。「パルヴスとロシア革命」という特集が組まれた号である。そこに私が執筆した「パルヴス日本語文献目録」には致命的なミスがあり、次号に「お詫びと訂正」を載せてもらった。その頁は黒い枠で囲まれていて、さながら研究者としての私の死亡通知のようにみえた。その文章は「深く反省し、汚名返上に他日を期したいと思う」と結ばれている。

 しかし、私がパルヴスについて論じたのはこれが最後となった。この一件ばかりでなく、私のパルヴス研究は苦い思い出に満ちている。

 さて、パルヴスといってもほとんど知られていない。とはいえ、さすがにウィキペディアには写真とともに出てくる。本誌関係者の「仕業」かも、と直感したがどうなのだろう。それはともかく、パルヴスはトロツキーを語る上で逸することのできない人物である。

 ウィキペディアには、トロツキーとパルヴスが永続革命論を構築したこと、トロツキーの有名な著作『結果と展望』は、パルヴスが1905年1月27日に『イスクラ』85号に掲載した同名の論文名にちなんでいること、第一次ロシア革命においてトロツキーとともにソビエトを指導したことなどが記述されている。

 さらにおもしろいのは、パルヴスが商才に長け巨万の富を築き上げたことである。彼の異名は「革命の商人」であった。エンゲルスも大工場主だったと開き直って蓄財に励み、革命のパトロンたらんとしたのである。

 こんな型破りの人間像に惹かれて、私は大学院から助手にかけてパルヴス研究に取り組んだ。ところが、これはたいへんな難事業であった。パルヴスの著作のうち邦訳されているものはほとんどない。ロシアに生まれドイツで活動したパルヴスはロシア語でもドイツ語でも論文を残している。さらに、パルヴスについての研究論文には英語のものもある。

 身の程知らずとはこのこと。私は日々、英独露のどれかの辞書を引きながら、訳文をつくっていた。遅々とした作業で、「1日3頁訳すとして週で15頁、1か月で60頁・・これではとても間に合わない!」と気も狂わんばかりであった。文法的にはわかっても文脈がわからず、なにをいっているのか理解できない。徒労感ばかりが募った。それでも業績をつくらなければ研究者への道は開けない。そのころの論文は、パルヴスの著作の不正確きわまりない内容紹介の域にとどまっていた。

 それらが厳密に審査される助手試験の面接試問では、「なにかが決定的に足りない」と強く叱責された。助手から専任講師に上がる際の審査報告は、「研究者として基本的な事柄も知らない」「若さがない」と手ひどいものであった。一方、それだけ辞書を引いたのだから、語学の力はついたかといえばさにあらず。助手試験のドイツ語の点数は合格点ぎりぎり。つまりはお情けで通してもらったわけである。「君を通すことには良心の痛みを感じる」と言われた。

 私に決定的に足りないもの、それは文脈力ではないかといまは思っている。文脈力を支える若い時の読書量が圧倒的に少ない。辞書引きに追われる一方、夜は寝転がってナイターをみていては、文脈力はつくはずもない。

 己の能力のスペックをわきまえていれば、3か国語を必要とする無謀なテーマを選ぶことなく、専門書の読み込みに時間を使えたことだろう。いったい私にとってパルヴス研究とはなんだったのだろう。壮大な時間のムダと総括しては、当時の私が浮かばれない。

 私は専任講師から助教授に上がるまで7年かかっている。勤務する学部では最短なら3年で昇格でき、たいていの教員は3年から5年くらいで上がっていく。当然、私は後輩に追い抜かれた。この間に遅まきながら自分のスペックの限界を自覚し、テーマを日本語だけですむものに変更した。もちろん、ソ連・東欧の体制転換も大きな触媒となった。

 その後は比較的順調に業績が増えていき、いまは「教授」などという仰々しい肩書きを頂戴している。そこに本誌編集部からエッセイの依頼が舞いこんだ。メールにあった「パルヴス」という文字に、条件反射的に鬱屈した記憶がよみがえってきた。そのコンフェッションにこの場を借りた次第である。

 背骨の折れるようなテーマではなく、身の丈にあったテーマをさがせ、とゼミの学生たちにいつも言っている。なんのことはない。それは自分自身に向けた、「時間の大なる空費」の経験に基づく戒めにすぎない。


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