「食べきれないからパックを!」

西川伸一  * 『カオスとロゴス』第9号(1997年10月)掲載

 私事で恐縮だが、8月中旬に父の一周忌の法要があり帰省した。自宅での読経のあと、会場を移して「お斎(とき)」という段になった。平たくいえば、出席者の労をねぎらい、昼食をふるまうというわけである。

 披露宴会場のようなところにテーブルをコの字型に並べ、これまた披露宴のときのように、ビール瓶などとともに、次々に料理が運ばれてくる。形ばかりの「施主」となった私は、最初の挨拶と出席者に酌をして回れば、あとは特にやることがない。料理を平らげることに専念することにした。

 しかしまもなく、一皿に盛られた量の多さと皿数の多さに「これはむりだ」と音をあげてしまった。とても食べきれない。ならばテイクアウトできるものは残せばいいと戦術を変えようとすると、隣に座っている母が「それはだめだ」という。暑い中持ち帰ったもので食中毒でも起こされてはということか、この会場では持ち帰りは断られるとのことであった。

 「お斎」がはねて自宅に帰ると、おばなどが早速出された料理の品評会を始めていた。何気なく聞いていると、最もよく出された感想は味の良し悪し以前に、やはり一人分の量と品数の多すぎを嘆く声であった。「半分以上残した」「なんであんなに皿数が多いのだ」「もったいない」等々。

 法事に限らず、パーティーには膨大な食べ残し、つまりは残飯が出る。これに心を痛めない人はいないだろう。もちろん、残飯を出すのは料理提供を仕事とする業者だけではない。台所ごみの4割弱は食べ残しで、14%は手つかずのまま捨てられるという。われわれ自身の問題でもある。

 これら残飯がつもりつもって、1年間に1000万トンにもなるそうだ。95年度の米の収穫量の全国合計が約1075万トンであるから、そのすさまじい「もったいなさ」がわかる。国内でつくるコメとほぼ同じ量を、食べずにごみとして捨てているのだ。東京の1日分の残飯だけで、餓死寸前の50万人分の胃袋を満たせるとも聞く。ゆがんだ分配の構造に愕然とする。

 では一人ひとりに何ができるのか。そのとりくみの事例を紹介しよう。

 岩手県大船渡市では、宴席食べ残しの持ち帰り運動が共感の輪を広げつつある(読売新聞95年12月17日)。その提唱者によれば「私自身必ずパックを要求して、持ち帰りを実践しています。すると周囲に伝染したように広まる。だれでも内心はもったいないと思ってるんです」とのこと。

 食べ残しは生ごみになる。一方、飲食してもやがてし尿になるのだから、環境への負荷はさして変わらないのではないか、という反問もあろう。しかし、食前と食後では生活排水レベルでの負荷にかなりの差があるのだ。

 日経新聞96年9月15日付の記事によれば、排水中の汚れが微生物によって分解・浄化される際に必要な酸素の量をBOD(生物化学的酸素要求量)という値で表すと、し尿は1リットルにつき12.7グラム。だがラーメン汁は31.6グラム、ビールだと90グラムにもなる。「とにかく料理は残さず食べ尽くすこと」「捨てるくらいなら、飲んで出す。『人間浄化槽』としての機能をもっと活用すべきだ」(牛久保明邦・東農大教授の談)

 出されたものはすべて食べる。食べきれなければ持ち帰る。これだけのことで、われわれの心の痛みは大幅に緩和される。なまものの寿司が出前されているのだから、一律に持ち帰りを拒む理由はないはずだ。そして、残飯を減らすことは、実は料理を提供する側のためともいえる。

 私自身、家で料理をするようになってつくづく感じることだが、半分も残飯になることを承知の上で、おいしいものをつくろうという気になれようか。つくる人の士気を考えても、持ち帰りはすすめられるべきだろう。

 最後に話を法事に戻すと、あのとき母の言葉を鵜呑みにせず、持ち帰りを頼めばよかったと後悔している。「食べきれないからパックを」と声を上げることは、たとえ断られても、業者側に量が多すぎることを知らせる何かの足しになったかもしれないなあ。こんなことを、ようやく回復してきた胃腸をさすりながら考えた。


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