私の問題意識 忘れられた型破り革命家に注目する

   西川伸一   『稲妻』第157号(1989年2月5日)

 このたび『現代と展望』第28号に、「パルヴス社会主義論の先駆性」なる拙稿を掲載していただいた。序文を書き改めた以外はほぼ旧作の転載であったが、はじめての他流試合とあって、少々胸の高ぶる思いがした。そして次に舞い込んだのが、本欄執筆の依頼である。快諾はしたものの、日々、己の無知を再確認しているのが現状で、問題意識を明言するにははなはだ心もとない。そこで私の現在の研究テーマであるパルヴス(1867-1924年)の人となりと彼の持つ問題性に私見を述べることで、表題に代えたいと思う。

 ロシア生まれのドイツ社会民主党員パルヴスは、その両国をまたにかけて活躍した人物である。90年代には党内左派の“暴れん坊”として論壇で異彩を放ち、また第一次ロシア革命では帰国して、トロツキーとともにペテルブルク・ソヴェトを指導している。しかし彼には“堕落した革命家”というイメージがつきまとう。ゆえに彼は今日まで、マルクス主義思想史の片隅にその名をとどめているにすぎないのだ。それはなぜか。

 第一次大戦勃発を境に、パルヴスはいわゆる“社会愛国主義者”に転じてゆく。すなわち彼は、ドイツの勝利がロシアの革命をもたらすとの確信から、ドイツ政府の政策を積極的に支持した。さらに舞台裏では、政府と結託してドイツの資金をボリシェヴィキに流す仲介役を演じていたのである。この働きから、ロシア革命の立役者はレーニン、トロツキーの両巨頭ではなく、パルヴスを加えた三巨頭だとする論者もいる。革命とは、コストのかかる事業なのだ。

 しかしパルヴスが“堕落した革命家”と呼ばれるのは、大戦を機とした「転向」や歴史の水面下で暗躍したゆえだけではない。それは、次のような彼の謎の性格のゆえでもあった。トロツキーは『わが生涯』の中でこう述懐している。

 「この革命家は、まったくおもいもかけぬ観念に夢中になっていた。すなわち金持ちになることである。…彼はその夢さえ、社会革命について抱く夢と結びつけていたのである。」

 この指摘にもあるように、パルヴスはバルカン戦争や第一次大戦に乗じて、軍需物資、穀物等の取引で巨額の富を築き、これを革命資金としてロシア革命につぎ込んだのである。「革命の商人」というパルヴスの異名はここから発する。革命にはカネが要る。それゆえ革命家はよろしく資本家になるべきだ─ 彼はこう明快に割り切っていたのだ。開き直りとも解せるこの視点は、次の言葉にも伺える。

 「社会主義運動の中には、大金持ちや大商人が少なからず存在している。サン=シモンは軍需品の調達で一財産を築いたのだし、フーリエは商人であった。オーウェンは工場主であったし、エンゲルスも同じく工場主であり、かなりの大資本家であった。もし彼の資金がなければ、マルクスはとても惨めな状態にあったことだろう。」

 パルヴスはユダヤ人である。一方ではマルクスを筆頭に錚々たる革命家群を生み、他方ではロスチャイルドらの大財閥を生んだユダヤの血が、パルヴスの中に混在していたのだろう。そしてそのどちらにも秀でていたことが、パルヴスの生涯に特異な陰影を与えたという気がしてならない。

 ところで、この“堕落した革命家”というレッテルをはがすと、そこにはいかなるパルヴス像が浮かび上がってくるのであろうか。私の関心はこの点にある。そしてこれまでのわずかな研究から言えることは、彼は革命理論家としても一流の資質を備えていたということだ。ちなみにその例として、前掲拙稿の内容を要約しておこう。

 1906年、ドイツに戻ったパルヴスは、革命の教訓を踏まえて、たて続けに力作を発表する。その中で彼は、20世紀資本主義を位置づけるにあたって、“組織された資本主義”に近い認識を示し、それゆえ革命戦略も、敗北した第一次革命のような“機動戦”ではなく、持久力を要する“陣地戦”に改めなければならないと主張したのである。さらに彼は、革命後の社会についても視野に収めていた。すなわち、生産手段の国有化による社会主義国家の肥大化を熟知し、それに対抗するために、都市自治体や多様な組織・集団などの独立した権力核が、国家権力を包囲すべきだと訴えた。パルヴスは革命後の社会像として、国家に人民がからめとられない立脚点を多く備えた、多元的な柔構造をなす社会を描いていたのである。

 それだけではない。「血の日曜日」の直後には、プレハーノフの「非連続的二段階革命論」に固執していた当時のロシアのマルクス主義者に対して、プロレタリアートこそ権力を掌握すべきだとの見解を示し、彼らに“爆弾のような効果”を及ぼしたのだった。この時パルヴスが示したロシア革命の戦略「労働者民主主義論」は、トロツキーの「永続革命論」の先駆をなすものである。遡って1890年代の農業綱領論争、修正主義論争等の党内論争にあっては、左派の急先鋒として健筆をふるっている。また、「転向」後も、『グロッケ』なる機関誌を創刊し、グローバルな政治経済論、社会主義党の官僚化問題、技術・エネルギー論、大衆社会・文化論などで、卓見を披瀝したと言われる。

 社会主義を論ずるにあたっては、マルクス、レーニンの威光があまりにまばゆく、そのまぶしさゆえに彼らの周囲にいた同志たちの思想や行動には(少数派や異端であればなおのこと)目を伏せがちである。しかし、マルクス、レーニンを縷々引用して自説の正当化をはかる議論は、ペレストロイカの今日、あまり生産的とは言えない。むしろ、この両者にとらわれずに多士済々の革命家たちを見据える粘り強い営みこそ、社会主義という思想体系をより豊かなものとし、ひいては、実現すべき社会主義社会を硬直化した体制にしないための、フェイル・セーフを提供するのではなかろうか。これが現在の「私の問題意識」と敢えて言えば言えそうなことである。


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