シェフィールド便り(1)元祖福祉国家の底力

   西川伸一  * 投書で闘う人々の会『語るシス』第1号(1998年7月)掲載

 今年度、勤務する大学より在外研究の機会を与えられ、ここイギリス・シェフィールド市に3月末から1年の予定で暮らしています。10月半ばまでは、妻ならびに昨年11月に生まれたばかりの娘と一緒です。シェフィールドといっても日本ではあまりなじみがありませんが、イングランド北部に位置し、イングランド第4の大都市です。人口は50万あまり。昨年公開された映画『フルモンティ』の舞台となった街です。

 出発前に、赤ん坊を連れていくことについてずいぶん心配されました。飛行機に乗せて大丈夫か、向こうで病気になったらどうする、などなど。確かに、乳飲み子連れの大旅行は大変でした。また、言葉が通じない中での子育て、医者通いのもどかしさは、ぼくたちの夫婦喧嘩の最大の原因になっている感があります。しかし一方で、いわば娘を小道具として、イギリスで得難い経験をしていることもまた事実です。

 まず一番感心させられたのは、乳児医療態勢が、ぼくたちのような一時滞在の外国人に対してもまったく分け隔てないことです。居住地のSURGERY(診療所)に登録さえすれば、そこに所属する、GP(GENERAL PRACTITIONER;家庭担当医)による診療、HEALTH VISITOR(子供専任保健婦)による育児相談、看護婦による予防接種などが有機的に受けられます。しかも診察代、薬代その他いっさいは無料!

 イギリス国民は、所得に応じて保険料を支払えば、NHS(NATIONAL HEALTH SERVICE;国民医療制度、1948年発足)による医療サービスを無料で受けられます。どういうわけか、保険料も税金も払わないぼくたちもあっさり加入が認められ、週に1回、娘の頬の発疹の受診に通っています。日本で中途になっていた予防接種もすべてこちらですませました。つまりは、思いっきりフリーライダーなのです。

 中でもHEALTH VISITORは、SURGERYに登録している未就学児の健康チェックを仕事とし、家庭訪問までしてくれます。先月末に、娘の発疹がなかなか治らないことを心配した彼女が、総合病院の皮膚科専門の看護婦と、さらには日本語の通訳ともども来宅したい、と連絡してきました。もちろん快諾。やっと日本語で・・・とわくわくしていたのですが、あいにくシェフィールドに一人しかいない通訳の方の都合がつかず、ぼくたちは超ブロークンな英語でくたくたになりました。

 もちろん、発足50年を迎えるNHSは様々な問題を抱えています。受診には予約が必要で、 即日の対応ができず、自分の予約日には治ってしまっている、ということもあるらしい。これくらいなら笑い話ですが、NHS病院に救急車でかつぎ込まれても、順番待ちの間に亡くなってしまうという話まであります。NHSの財政難で人手を確保できないために生じる悲劇です。今年度のNHS予算は、当初予定を5割も上回ることになるとか。NHSの医師(プライベートとよばれる有料開業医もいる)はろくに診てくれないという評判もよく聞きます。

 このほか、子供を連れて街に出ると、いろいろなことに気づかされます。駅やデパート、スーパーなど大きな建物のトイレには決まってベビールーム(授乳とおむつ換えができる)が別にあります。毎週行く大型スーパーのベビールームにおむつまで用意されていたのには、本当にびっくりしました。ベビーカーで階段や段差のところでまごまごしていると、老若男女を問わず必ず救いの手をさしのべてくれます。それは見事なものです。こんなところに、元祖福祉国家の底力を見る気がします。サッチャリズムをくぐってもなおそのシステムが健在であるだけでなく、それを支えるモラルが世代をわたって脈々と受け継がれているといいますか。

 娘が大きくなり、「君はイギリスの悪口だけは言ってはならない」と説教する日が楽しみです。


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