カッコをはずした「わが闘争」

   西川伸一  * 『QUEST』第38号(2005年10月)

 さっそくですが、問題です。以下の方程式を解きなさい。

 9xー(xー6)=14

 単純な一次方程式だが、これを解く場合、カッコのはずし方がわからなければ、正解を導き出せない。中学1年生のときの数学で、カッコのはずし方を習ったのだが、なかなか飲み込めずに間違いを繰り返した思い出がある。

 カッコをはずすのがむずかしいのは、数学に限ったことではない。

 

【教授会議事録にあるカッコ】

 大学の教授会は「重要な事項を審議するため」(学校教育法59条)の会議であるから、その都度議事録が作成される。私の属する学部でも同様で、入学者の決定も教員の採用も教授会の議を経なければならず、それらはすべて議事録にとどめられる。教授会の冒頭には前回教授会の議事録の確認が必ず行われる。事務長が議事録を読み上げ、訂正箇所や意見のある教員は挙手をして指摘する。

 その議事録で、あるとき気になる表記に気づいた。それは「女子内数」である。前述のとおり、入学者の決定には教授会の承認が必要とされるため、秋以降、毎週のように行われる特別入試でも、そのたびごとに教授会が開かれ、合否判定資料に基づく合格者の確定が行われる。当然、その結果は次回教授会に議事録に掲載されることになる。従来は、以下のような表記になっていた。

 

  ○×特別入試   志願者数  50(15)

              受験者数  45(13)

              欠席者数   5 (2)

              合格者数  10 (4)

             カッコ内は女子で内数

                  

 「カッコ内は女子で内数」の意味は、合格者でいえば、10名の合格者中女子は4名いたということである。引き算すれば、男子は6名いたことがすぐにわかる。なぜ女子だけをカッコでくくるのかが解せなかった。ボーヴォワールの言葉を借りれば、これは女子を「第2の性」に押しとどめる書き方ではないか。

 とはいえ、一介の若輩教授会員が教授会でわざわざ挙手して、学部長に詰め寄るのは気が引け、教員同士の飲み会で「あれはおかしいのではないか」とくだを巻くのがせいぜいであった。ここが私のだらしのないところである。

 

【役職者会への提案】

 ここで、私の属する学部の教授会運営のしくみを説明しておく。「自民党執行部」という言い方をよく聞くが、教授会も執行部(「役職者会」という)によって運営されている。教授会のある日は役職者会のメンバーは正午前に集まり、昼食を取りながら、その日の議事運営を検討する。教授会冒頭にかかる議事録もあらかじめ吟味され、誤字はもちろん不適切な文章表現などが訂正される。教授会の開会時刻は午後3時である。ちなみに、役職者会は学部長、学科長、教務主任など10名で構成される。各部署の事務職員も出席する。

 役職者会など縁がないと信じて疑わなかった私だが、ある事情から欠員が生じ、その穴埋めとして任期途中から役職者会の末席をけがすことになった。2000年12月のことである。その後、一度再任され2003年9月までその任にとどまることになった。

 毎年3月下旬になると、1泊2日の役職者合宿が行われる。年度内に片づけられなかった懸案事項を一斉に処理するのだ。宴会で学部長のカラオケを聴くというお愛敬もある。合宿の前には、検討課題があれば提案するようにと学部長から促される。

 私が参加した最後の合宿を前に、「カッコ内は女子で内数」表記の廃止を議題とするよう、私は文書で提案した。なぜそのとき急に思い立ったのかは覚えていない。いずれにせよ、今考えると、なぜもっと早い機会に提案しなかったのかと反省する。これまた私のだらしのないところ。

 提案の文章は下記のとおりである。

 

                      2004.3.18-19役職者合宿提案

 教授会議事録等における女子内数の廃止について

                           

 教授会議事録等に入学試験の志願者,合格者,入学者などを記載する場合,「全体数(女子数)」と表記し女子は内数を意味する。なぜ,女子数だけをカッコにくくり,内数とするのか。

 おそらく,当学部で女子学生が圧倒的少数派だった時代に,女子数を明示するために用いられた便法だと思われる。受講者名簿の「F」表記もそうなのであろう。

 しかし,いまでは女子学生の数は全体の3分の1前後を占めるに至り,女子学生は当学部の「例外」的存在とはいえなくなっている。特別入試の形態によっては,女子内数のほうが多数であることも珍しくない。

 それ以前に,そもそも女子をマイノリティ視するかのようは表記は,女性を「第2の性」として扱っているに等しく,ジェンダー・フリーの見地から認められない。

 そこで,女子内数表記の廃止を提案したい。それに代わる改正案としては,「全体数(男子数:女子数)」とし,カッコ内は男女別数とする。事務的煩雑さは増すことになるが,それは女子をマイノリティ視してよい理由にならない。

 他の学部においても,女子内数表記がまだとられているようである。それらにさきがけて政治経済学部が,ジェンダー・フリーの学部であることを示してはどうか。

                                以 上

【やっとカッコをはずしたぞ】

 若干解説を加えると、「受講者名簿の『F』表記」とは、女子受講者の氏名の後ろに限り女子を示す「F」(female)が付けられていた。これもはずすか、男子には「M」を付けよと同時に提案したが、学部だけでは変えられない、全学的な検討を要するとのことで、先送りになった。その後、コンピュータ・システムが変わったようで、2005年度一部3年生の受講者名簿には「F」表記がない(やった!)。

 さて、「カッコをはずす」提案に対して学部長はじめ役職者会の面々はどう反応したか。その日の日誌を再掲する。「10時から役職者会議。終了間際に自分が提案した議題。ジェンダーフリーの観点がなかなか理解してもらえない。『おやじ支配』の壁の厚さに、少し感情的に話すと学部長からcalm downと言われる。」

 基本的に、私の提案は受け入れられたのであるが、その理由は女子内数表記は合否判定情報として必要ないという形式的なものだった。カッコに隠されている本質的な問題は、どうもわかってもらえなかったような気がした。それでもとにかく、その後5月の教授会では女子内数表記の廃止が教務主任から諮られ(議事録署名人は教務主任である)、すんなり承認された。ようやく溜飲の下がる思いがした。ところがー。

【「晴れ舞台」になるはずが・・】

 2004年11月、教授会に出された特別入試の合否判定資料に、女子内数表記が依然として用いられているではないか。5月に決めたのは、廃止は議事録記載に限ってのことだったのか・・。逡巡するうちに、議題は次に移ってしまった。次回教授会で、この日の合否判定資料を転写した議事録が出されるはずである。その時に指摘すればいいと自分を納得させた。

 教授会が終わると、すぐさま研究室で5月の教授会議事録を探して、該当箇所を突きとめた。「教授会議事録等における女子の内数について、必要な場合のみ男女別に表記することとし、原則として廃止することを承認した」となっていた。「等」であるから、合否判定資料についても指摘できたのである。

 いずれにせよ、これを根拠に、次回教授会での議事録確認の際に発言してやろう。奉職してはじめて教授会で挙手して発言することになる。テレビ中継される国会の予算委員会で、はじめて質疑に立つ議員のように私は興奮していた。

 次回教授会の日がめぐってきた。私はカッコをはずす決定が記された5月の議事録を携えて、出席した。配布された議事録を繰る。なんとそこには、女子内数表記はすべて削除されているではないか!

 教授会でかっこよく発言する姿を夢想していた私は、苦笑するしかなかった。カッコをはずす「わが闘争」はこれで一件落着となった。

【「門番」における逆差別】

 関連して(というよりこじつけに近いが)、入試の点検員における男女逆差別の撤廃の「戦果」についても報告しておきたい。入試日に教員のほとんどは監督者としての業務にあたるが、採用年次の新しい教員は原則として点検員に回される。点検員というのは、校舎の前に立って、受験生が正しい受験票をもっているかを入構する前にチェックする作業である。教員の間では「門番」とよばれている。監督者の集合時刻は午前9時だが、点検員は午前7時半である。監督者は温かい教室が現場であるのに対して、「門番」はふきっさらしである。

 私は採用から7年間「門番」を務めた。その間、そしてその後も、私の属する学部では女性教員が続々採用されたが、彼女たちが「門番」につくことはなかった。事務方があてないのである。私はこれもおかしいと思った。女性だからといって「門番」を免除する合理的理由はあるのか。それでも、7年間もおとなしく「門番」をするところが、またまた私のだらしのないところである。実は「門番」のほうがラクだったりして。

 これがどういう経緯で役職者会で取り上げられたのかは、残念ながら覚えていない。私が持ち出したのか、他の役職者が提案したことの尻馬に私が乗ったのか。とにかく発言したことだけは確かである。そして、「他学部ではやっている」が決め手になったのが情けないのだが、2004年2月の入試から女性教員も「門番」に立つことになった。入試を控えた役職者会で、事務方が「女の先生をあてちゃっていいんですか」と念押ししたことが印象に残っている。

 

 セコイ闘いの戦果報告になってしまって恐縮である。やはり日誌をみると、1999年2月3日に『QUEST』編集会議に出たと書いてある。これが『QUEST』1号(1999年5月)につながった。それ以降、『QUEST』およびオルタ・フォーラムQとかかわり続け、35号からは本誌編集長を任された。その任期中に、本誌を事実上の「葬式」を出す羽目になってしまった。

 『QUEST』の表紙の裏に毎号掲載される「私たちのめざすもの」には、「大言壮語ではなく、等身大に自らを表現するほうがよいと考えます」と謳われている。最終号でも、私はその紹介の場として本誌を使わせていただいた。それぞれの生活の中での「カッコをはずす」等身大の闘いが集積されて、やがて「もう一つの世界」の相貌を具体化すると私は考えている。

 最後に、編集委員会や調整委員会は、「異業種交流会」として楽しかったです。


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