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掲載誌 『漢文教室』第196号,2010年5月25日発行,大修館書店,pp.1-3

●特集=いまこそ「漢文力」を!  漢文をヒントに考える
 加藤(かとう) 徹(とおる) (明治大学)


 漢文には何でもある。人間のこと、世の中のことを考えるうえでのヒントに満ちている。
 例えば『淮南子』斉俗訓の「伊尹(いいん)の土功」の故事は、現代人が読んでも示唆に富んでいる。
 故伊尹之興土功也、修脛者使之蹠钁、強脊者使之負土、眇者使之准、傴者使之塗、各有所宜、而人性齊矣。胡人便於馬、越人便於舟、異形殊類、易事而悖、失處而賤、得勢而貴。聖人總而用之、其數一也。

 故に伊尹の土功を興すや、修脛(しうけい)なる者には之をして钁(くは)を蹠(ふ)ましめ、強脊(きやうせき)なる者には之をして土を負はしめ、眇者(べうしや)には之をして准せしめ、傴者(うしや)には之をして塗らしむ。各(おのおの)(よろ)しき所有りて、人の性は斉(ひと)し。胡人は馬に便に、越人は舟に便なり。形を異にし類を殊にするもの、事を易(か)ふれば而(すなは)ち悖(もと)り、処を失へば而ち賤しく、勢を得れば而ち貴し。聖人は総(す)べて之を用ふ、其の数は一なり。
 大意を示すと次のようになる。
 いにしえの理想的な政治家であった伊尹は、土木工事も見事だった。足の筋肉が強い者には、シャベルを踏んで地面を掘り起こす仕事を与えた。背中の筋肉が強い者には、掘り起こした土を運ぶ仕事をやらせた。片方の目が不自由な者には、片目をつぶって測量する仕事を担当させた。背中の曲がった者には、背をかがめて低い場所を塗る仕事を割り振った。伊尹の土木工事の現場では、障がいのある者もない者も、自分の個性を生かして、平等に生き生きと働くことができた。世界は広い。いろんな人がいる。北の騎馬民族は馬を巧みに操るし、南の異民族は舟を操るのがうまい。人はそれぞれ違うが、不得意なことをやらされればダメになるし、得意なことをやれれば輝く。理想的な聖人は、そこをわきまえているので、誰もが個性を生かしつつ一致団結して働ける環境を作るのである。──
 筆者の意訳は冗長だが、原文は簡潔である。
 この寓話のポイントは、「眇者」や「傴者」などの障がい者をもつ人も、適切な環境さえ整えれば、健常者と同等以上に働ける、というところにある。測量するときは、鉄砲で獲物を狙うときのような要領で片ほうの目はつぶらねばならぬから、むしろ「眇者」のほうが適任だ──という発想は、現実的に正しいかどうかは別として、寓話の喩えとしては面白い。
 漢文を材料の一つとして、今ここにある問題を考える力。それを仮に「漢文力」と呼ぶことにする。漢文力を働かせ、伊尹の土功の寓話を現代にあてはめると、いろいろなことを考えさせられる。
 今の日本にも社会的弱者はいる。心や体に障がいをもつ人も、会話はできるが漢字が苦手な外国人も、パソコンが扱えず電子情報から取り残されがちなお年寄りも、ひとりで子育てをしながられ働かねばならぬシングルマザーやシングルファーザーも、それぞれハンデを抱えている。昨今は、福祉予算削減とか事業仕分けとか、暗い話題が多い。今こそ私たちは、伊尹の土功の故知をあたため、知恵を出しあい、新しい雇用を創出すべきではないか。ハンデをもつ人にもできる仕事、ではなく、ハンデをもつ人だからこそ適任である仕事を工夫し、みんなが一緒に働ける職場環境を作るのだ。インターネットなど科学技術の進歩も、うまく活用すれば、現代版「伊尹の土功」を実現するために役立つはずだ。……等々、一つの漢文をタネとして、さまざまな考えが湧いてくる。
 もちろん漢文にも限界はある。『淮南子』の引用箇所の前後を読むと、失業者を出さないのが行政の責務であると強調する一方、個人の職業選択の自由──それは失業の危険と表裏一体である──という民主主義的な思想は希薄であることがわかる。また現代日本の初等教育や中等教育においては、「眇者」や「傴者」など障がいが出てくる教材の取り扱いは慎重に行う必要があるため、漢文教材としては敬遠されるかもしれない。だが、そうした限界を考慮に入れても、伊尹の土功の漢文寓話は、現代人の思考の起爆剤として有用である。

 もう一つ、漢文力を働かせる例題として、『呂氏春秋』貴公に載せる「荊人、弓を遺す」の漢文寓話を掲げてみたい。
天下非一人之天下也、天下之天下也。(中略)荊人有遺弓者、而不肯索。曰「荊人遺之、荊人得之、又何索焉」。孔子聞之曰「去其荊而可矣」。老聃聞之曰「去其人而可矣」。

 天下は一人の天下に非(あら)ずして、天下の天下なり。(中略)荊人(けいひと)に弓を遺(おと)す者有りて、肯(あへ)て索(もと)めず。曰く「荊人、之を遺し、荊人、之を得。又何ぞ索めんや。」と。孔子、之を聞きて曰く「其の荊を去らば可ならん。」と。老聃(らうたん)、之を聞きて曰く「其の人を去らば可ならん。」と。
 大意を書くと次のようになる。
 世界は、誰か一人のためにあるのではない。世界は、世界のためにあるのだ。昔、荊の国のある人が弓をなくした。しかし彼はあえて弓を探さなかった。彼の言いぶんはこうだった。「荊の国の人間が弓をなくしても、荊の国の誰かが拾って使ってくれるだろう。探す必要なんかないさ。」この話を聞いた孔子は、こうコメントした。「惜しい。荊の一字を捨てられたら良かったのに。」老子は、こうコメントした。「惜しい、人の一字も捨てられたら良かったのに。」──
 例によって、原文は簡潔なのに、意訳は冗長である。
 道で百円玉を落としても大損をした気持ちになる筆者から見れば、弓をなくした荊人の考えかたは、じゅうぶん尊敬に値する。
 弓をなくした荊人は、エコノミストの視点をもっていた。
「自分個人は損をしたが、そのぶん誰かが得をしたのだから、国全体で見ればチャラになる。マクロ経済の視点が大事なのだ。」
 しかし博愛主義者の孔子は、さらに大局的見地に立つ。
「惜しい。どうして『荊』という国名にこだわるのか。自国人でも外国人でも、人間はみな同じはずだ。国籍のこだわりを捨てた達観ができたら、もっと良かったのに。」
 無為自然をたっとぶ老子は、さらに高い視点に立つ。
「惜しい。どうして『人間』にこだわるのか。土から木が生え、その木から弓が作られ、その弓が腐ってまた土にもどる。大自然のサイクルからはみ出さなければ、それでいいではないか。」
 では、ここでまた漢文力を働かせて、この漢文寓話の主旨を、現代社会にあてはめてみよう。
 弓は「財貨」を、荊人は「愛国心」の象徴とも読める。孔子は「博愛主義」を提唱し、老子は「地球環境」を重視する。もちろん、史実の孔子や老子がこのようなコメントを残したわけではあるまい。寓話の常として、彼らのキャラクターを借りて、それぞれ異なる視点のコメントを仮託したものであろう。
 こうした漢文を読むと、『呂氏春秋』ができた紀元前三世紀の時代も、二十一世紀の現代も、人類の本質はあまり変わっていないような気がしてくる。愛国心、博愛主義、自然環境との調和。今も昔も、さまざまな主義主張の人がいる。自国の経済成長を確保するため二酸化炭素削減に消極的な人々もいれば、環境保護を叫んで捕鯨船に体当たり攻撃を行う過激な人々もいる。
 ただ、地球は昔より狭くなった。中国の工場の煙は、風に乗って日本の空を汚す。一国の不景気や金融不安は、たちまち世界に広まる。現代の自分たちの問題を、あえて遠くからクールダウンして見つめ直すうえでも、「荊人、弓を遺す」の寓話は、多少、参考になるかもしれない。

 以上、漢文力を鍛える二つの例題を掲げてみた。
 筆者は大学で、教養の授業を担当している。数年前、授業の教材と内容をまとめて、『漢文力』という本を書いたことがある。学生が自分の頭で物事を考える訓練をする上で役立ちそうな漢文を選び、解説を書いた。拙い内容ではあるが、類書が無かったこともあり、韓国語や中国語に翻訳されたり、NHKのテレビ番組「世直しバラエティー カンゴロンゴ」の原案となるなど、意外な反響があった。
 その後も『漢文の素養』『怪力乱神』など漢文の本を書いた。書けば書くほど、自分の筆力では書ききれない漢文の世界の奥深さを実感し、亡羊の嘆にくれた。また、自己形成における中等教育の重みも、あらためて実感した。
 筆者が漢文に興味をもったのは、中学生の時だった。高校のときは、漢文の授業がいちばん好きだった。三十年たった今でも、高校生のときに読んだ漢文はわりあい覚えている。
 筆者自身も、高校生のころは、わからないことが多かった。自分と世の中のかかわりかたについて、悪戦苦闘の自問自答と試行錯誤をくりかえした。高校時代の漢文の授業では、自分なりのヒントをいくつか拾うことができた。
 高校卒業後も心に残る漢文は、ごく一部の断片にすぎないのかもしれない。しかし、自分の心の襞に引っかかった漢文の断片は、自分の中で熟成し、数年後、数十年後、人生の折節でふっと思い出されることがある。
 高校で学ぶ漢文は、一生使える教養になりうる。
 今の若い人々にも、ぜひ、面白い漢文をいろいろ読んでほしいものである。


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