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中国史を変えた5つの反乱

農民、宗教、外国人、西洋思想、ナショナリズムの狂信と暴力
早稲田エクステンションセンター中野校
【対面+オンラインのハイブリッド】
最新の更新2024年8月7日   最初の公開2024年8月7日

  1. 概要
  2. 09/25 史上初の農民反乱-陳勝呉広の乱
  3. 10/09 新興宗教の光と影-黄巾の乱
  4. 10/23 在中外国人の不満-安禄山の乱
  5. 11/20 西洋思想の中国化-太平天国の乱
  6. 12/11 狂信的ナショナリズム-義和団の乱


概要
以下、早稲田エクステンションセンターのサイトの
https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/68731/ より引用。閲覧日2026年9月22日。引用開始。
目標
・私たちが生きている今の時代がこのようになった理由を考える
・日本史と中国史という枠組みを取り払い、世界的な視野から東アジアを見直す
・歴史の予備知識がない人にも、身近なことから考える楽しさを体験してもらう

講義概要
「勝てば官軍、負ければ賊軍」を、中国語では「成者為王、敗者為寇」と言います。中国史では、平和な時代が長く続くと、いわゆる「マタイ効果」で社会の格差が拡大し、大規模な反乱が発生します。近代中国の作家・魯迅は「暴君の統治下の臣民はたいてい暴君よりも暴力的である」と述べています。反乱者は必ずしも「哀れな犠牲者」ではなかったのです。古代から現代まで、「中華帝国」というシステムは、数百年ごとの反乱で更新(アップデート)されてきた側面があります。本講座では、中国社会の本質を、「反乱の歴史」から読み解きます。豊富な映像資料を用い、予備知識のない方にもわかりやすく解説します。


第1回 09/25 史上初の農民反乱-陳勝呉広の乱
紀元前209年、秦帝国の末期に起きた陳勝・呉広の乱は、中国史上初の大規模な農民反乱とされています。反乱を率いた陳勝と呉広は、ともに貧しい農民出身でした。「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という陳勝の言葉は、身分制度への挑戦として有名です。反乱そのものは短期間で失敗しましたが、その後の各地の蜂起を誘発し、始皇帝が築いた秦帝国を滅亡へと導きました。前漢王朝の初代皇帝となった劉邦も農民出身であり、紙一重の差で勝者となったのです。社会の下層が暴力によって社会をひっくり返す、という最初の例となりました。
google 画像検索結果 
 
“陈胜 吴广”  “张楚 陈胜”
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PLNxQMGUDmvs4

○ポイント、キーワード
○辞書的な説明

○略年表

○名言・成語


○司馬遷『史記』陳涉世家より
参考 https://zh.wikisource.org/wiki/史記/卷048

 陳勝は陽城(現在の中国・河南省方城県)の人で、字(あざな)は渉という。呉広は陽夏(河南省周口市太康県)の人で、字は叔という。
  陳渉は若いころ、人とともに人に雇われて耕作をしていた。あるとき、耕作をやめて畑の畔に行き、長いこと思い悩んで、こう言った。
  「もし将来、富貴の身になったら、互いに忘れないようにしよう。」
   すると、雇われて一緒に耕していた仲間たちは笑って答えた。
  「お前は今、雇われて耕作している身なのに、どうして富貴になれるんだ。」
   陳渉は大きくため息をついて言った。
  「ああ、燕や雀のような小鳥に、どうして鴻鵠(こうこく=大きな鳥)の志が分かろうか。」
(「燕雀安知鴻鵠之志哉」)
   秦の二世皇帝元年(紀元前209年)七月、閭左(りょさ)の者たちを徴発して、漁陽の守備につかせることになり、九百人が大沢郷に駐屯した。陳勝と呉広も、その隊列にあたって出発することになり、屯長を務めていた。
   ちょうどそのとき、大雨が降り、道が通れなくなった。どう考えても、定められた期日に間に合わない。期日に遅れれば、法律では全員死刑である。
   そこで陳勝と呉広は相談した。
  「今、逃げても死ぬ。大きな計画を起こしても死ぬ。同じ死ぬのなら、国のために死ぬのはどうだろう。」
 陳勝は言った。
  「天下の人々は、秦に苦しめられて久しい。私は聞いている。二世皇帝は始皇帝の末子で、本来は皇帝になるはずではなかった。本来皇帝になるべきだったのは公子扶蘇である。扶蘇は、しばしば皇帝を諫めたため、始皇帝から都の外に出され、軍を率いることになった。今、扶蘇には罪がなかったのに、二世皇帝が彼を殺した、と聞いている者もいる。民衆の多くは、扶蘇が賢明な人物だったことを知っているが、彼が死んだことを知らない。 また、項燕は楚の将軍で、たびたび戦功を立て、兵士を大切にしたので、楚の人々から慕われていた。項燕についても、死んだと思っている者もいれば、逃亡したと思っている者もいる。 今、われわれが自分たちは公子扶蘇と項燕であると偽って名乗り、天下に向かって旗を掲げれば、きっと大勢の者が呼応するだろう。」
  呉広も、それはもっともだと思った。 そこで二人は占いをした。占い師は二人の意図を察して、こう言った。
  「あなた方の事業は、すべて成功するでしょう。きっと功績をあげるでしょう。ただし、あなた方が占っているのは、人ではなく鬼神のことですか。」
   陳勝と呉広は喜んだ。そして鬼神のことを考え、
  「これは、まず鬼神の威力を利用して、仲間たちを威圧する方法を教えてくれているのだ。」
  と言った。そこで絹に赤い朱で「陳勝王」と書き、それを人が網で捕らえた魚の腹の中に入れた。兵士たちが魚を買って料理すると、魚の腹の中からその書き付けが出てきたので、兵士たちは、もちろん不思議なことだと思った。
   さらに呉広をひそかに兵士たちの宿営所近くにある、草木に囲まれた神社へ行かせ、夜に篝火をたき、狐の鳴き声をまねて、
  「大楚が興り、陳勝が王となる!」
  と叫ばせた。
  兵士たちは皆、夜中に驚き恐れた。翌朝になると、兵士たちはあちこちでその話をし、皆、陳勝を指さして目配せするようになった。
  呉広はもともと人望があり、兵士たちの多くは彼のためなら動こうとしていた。
  あるとき、将尉が酒に酔っているところで、呉広はわざと何度も「逃げたい」と口にして、将尉を怒らせた。そして将尉が兵士たちの面前で呉広を辱めるよう仕向け、兵士たちの怒りを煽った。
  案の定、将尉は呉広を鞭打った。すると将尉が剣を抜いた。呉広は立ち上がり、その剣を奪って将尉を殺した。陳勝も加勢して、二人の将尉をともに殺した。
  そして陳勝は部下たちを集めて命じた。
  「諸君は雨に遭い、すでに期日に遅れてしまった。期日に遅れれば死刑だ。たとえ特別に死刑を免れたとしても、守備に赴いて死ぬ者は、もともと十人のうち六、七人はいる。
  それならば、壮士というものは、死なずに済むならそれに越したことはない。しかし、いったん死ぬのであれば、大きな名を残すべきではないか。王侯将相に、どうして生まれつきの身分の違いなどあろうか。」 (「王侯将相寧有種乎」)
 部下たちは皆、
  「謹んで命令を承ります。」
  と答えた。
  そこで彼らは、公子扶蘇と項燕を名乗り、民衆の願いに従うことにした。右肩をあらわにし、「大楚」と称した。壇を築いて盟約を結び、殺した将尉の首を供え物として祭った。
  陳勝は自ら将軍となり、呉広を都尉とした。
  大沢郷を攻め、さらに蘄を攻めた。蘄を落とすと、符離の人・葛嬰に兵を率いさせ、蘄より東の地域を攻略させた。銍、酇、苦、柘、譙を攻め、すべてこれを落とした。そして兵を集めながら進軍した。
  陳に到着するころには、戦車が六、七百乗、騎兵が千余り、兵士は数万人に達していた。
  陳を攻撃すると、陳の守令たちは皆、そこにいなかった。ただ守丞だけが譙門の中で戦った。しかし勝てず、守丞は戦死した。そこで陳勝たちは陳に入り、これを占拠した。
  数日後、陳勝は三老や豪傑たちを招集し、皆で政治について相談した。 三老や豪傑たちは皆、こう言った。
  「将軍は堅い鎧を身につけ、鋭い武器を手にして、道理に背いた者を討ち、暴虐な秦を滅ぼし、楚の国を再び建てようとしておられます。その功績は、王となるにふさわしいものです。」
  そこで陳渉は王となり、「張楚」と号した。
  このころ、秦の役人に苦しめられていた各地の郡県では、人々がそれぞれ長官を捕らえ、殺して陳渉に呼応した。
  陳勝は呉広を仮王とし、諸将を監督させて西へ進み、滎陽を攻撃させた。
  また陳の人・武臣、張耳、陳余には趙の地方を攻略させ、汝陰の人・�ケ宗には九江郡を攻略させた。
  このころ、楚の兵を数千人ずつ集めて蜂起した者は、数え切れないほどであった。
  葛嬰が東城に到着すると、襄彊を楚王に立てた。しかし後になって陳王がすでに王となっていたことを知ると、葛嬰は襄彊を殺して陳に戻り、事情を報告した。陳王は葛嬰を処刑した。
  陳王は魏の人・周市に命じ、北へ進んで魏の地方を攻略させた。
  呉広は滎陽を包囲した。しかし李由が三川郡の守となって滎陽を守っており、呉広はこれを落とすことができなかった。
  陳王は国中の豪傑を集めて政治について相談し、上蔡の人・房君蔡賜を上柱国に任命した。
  周文は陳の賢人で、かつて項燕の軍で暦や天文を担当し、春申君にも仕えた人物である。本人は軍事に詳しいと言っていたので、陳王は彼に将軍の印を与え、西へ進んで秦を攻撃させた。
  周文は進軍しながら兵を集め、函谷関に到着したころには、戦車千乗、兵士数十万人に達していた。戯に到着すると、そこに軍を駐屯させた。
  秦は少府の章邯に命じて、驪山の労役に服していた囚人や、奴婢から生まれた者たちまで、すべて兵士として動員し、楚の大軍を攻撃させた。
  周文は敗れ、函谷関の外へ逃げ、曹陽に駐屯して二、三か月とどまった。章邯が追撃して再びこれを破ると、周文はさらに逃げ、澠池に十余日駐屯した。しかし章邯が攻撃し、これを大いに破った。
  周文は自ら首をはねて死に、その軍も戦わずに崩壊した。
  武臣は邯鄲に到着すると、自ら趙王を名乗り、陳余を大将軍、張耳と召騷を左右の丞相とした。
  これを知った陳王は怒り、武臣らの家族を捕らえて拘束し、処刑しようとした。すると上柱国は言った。
  「秦がまだ滅びていないのに、趙王やその将相の家族を殺せば、秦をもう一つ作るようなものです。それよりも、趙王として正式に認めてやるほうがよいでしょう。」
  そこで陳王は使者を派遣して趙王を祝福し、武臣らの家族を宮中で拘束したままとし、張耳の息子・張敖を成都君に封じた。そして趙王に対して、兵を急いで函谷関の内側へ進ませるよう促した。 趙王と将相たちは相談した。
  「われわれが趙王を立てたのは、楚の意向によるものではない。楚は秦を滅ぼした後、必ず兵を趙に向けるだろう。 考えてみれば、西へ兵を送るのをやめ、使者を北へ派遣して燕の地を攻略し、われわれ自身の勢力を広げるのがよい。 趙は南では黄河を押さえ、北には燕と代がある。楚が秦に勝ったとしても、趙を思い通りにすることはできない。もし楚が秦に勝てなければ、楚は必ず趙をいっそう重視することになる。 秦が弱っている機会に乗じれば、天下に対してわれわれの望みをかなえることができる。」
  趙王もその意見をもっともだと考え、西へ兵を送ることをやめた。そして、もと上谷の卒史だった韓広に兵を率いさせ、北へ進んで燕の地を攻略させた。
  燕の旧貴族や豪傑たちは韓広に言った。
  「楚はすでに王を立て、趙もまた王を立てています。燕は小国とはいえ、万乗の国です。どうか将軍に燕王となっていただきたい。」
  韓広は答えた。
  「私の母が趙にいるので、それはできない。」
  燕の人々は言った。
  「趙はいま、西では秦を恐れ、南では楚を警戒しています。趙にはわれわれを阻止する力はありません。それに、あれほど強大な楚でさえ、趙王やその将相の家族を害することを恐れているのです。どうして趙が、将軍の家族だけを害することができましょう。」
  韓広はそれももっともだと思い、そこで自ら燕王を名乗った。
  数か月たつと、趙は燕王の母と家族を燕へ送り返した。
  このころ、各地を攻略していた諸将は、数え切れないほどになっていた。 周市が北へ進んで狄に到着すると、狄の人・田儋が狄の県令を殺し、自ら斉王を名乗り、斉の兵を率いて周市を攻撃した。 周市の軍は散り散りになり、周市は魏の地へ戻った。そして、かつての魏王の一族である寧陵君咎を魏王に立てようとした。 しかし、そのとき咎は陳王のもとにいて、魏へ行くことができなかった。 魏の地がすでに平定されると、人々は相談して周市を魏王に立てようとした。しかし周市は承知しなかった。 使者が五度も往復した末、陳王はついに寧陵君咎を魏王に立て、魏へ送り出した。周市は結局、魏の宰相となった。 将軍の田臧らは相談した。
  「周章の軍はすでに敗れた。秦軍がいつ攻めてきてもおかしくない。われわれは滎陽を包囲しているが、いまだに落とせていない。秦軍が到着すれば、必ず大敗するだろう。 ならば、少数の兵だけを残して滎陽を守らせ、精鋭をすべて率いて秦軍を迎え撃つほうがよい。 しかし、いまの仮王・呉広は思い上がっており、軍事のことを理解していない。相談しても無駄だ。彼を殺さなければ、われわれの事業は失敗する恐れがある。」
  そこで彼らは相談のうえ、王の命令だと偽って呉広を殺し、その首を陳王に献上した。 陳王は使者を派遣し、田臧に楚の令尹の印を授け、上将軍とした。 田臧は諸将の李帰らを滎陽城の守備に残し、自らは精鋭を率いて西へ進み、敖倉で秦軍を迎え撃った。 戦いとなり、田臧は戦死し、軍も敗れた。 章邯はさらに進軍して滎陽城下の李帰らを攻撃し、これを破った。李帰らも戦死した。 陽城の人・�ケ説は兵を率いて郯に駐屯していたが、章邯の別働隊に攻撃され、敗れて軍は散り散りになり、陳へ逃げ帰った。 銍の人・伍徐も兵を率いて許に駐屯していたが、章邯に攻撃されて敗れ、伍徐の軍も皆、散り散りになって陳へ逃げ帰った。 陳王は�ケ説を処刑した。
  陳王が最初に立ったころ、陵の人・秦嘉、銍の人・董緶、符離の人・朱雞石、取慮の人・鄭布、徐の人・丁疾らも、それぞれ独自に兵を起こした。 彼らは兵を率いて、郯で東海郡守の慶を包囲した。 陳王はこれを知り、武平君畔を将軍に任命し、郯を包囲している軍を監督させた。 しかし秦嘉はこの命令に従わず、自ら大司馬を名乗り、武平君に従うことを嫌った。 そして軍吏たちに言った。
  「武平君はまだ若く、軍事のことを知らない。彼の命令を聞いてはならない。」
  こうして王の命令だと偽って、武平君畔を殺した。
  章邯はすでに伍徐を破り、陳を攻撃した。上柱国の房君は戦死した。
  章邯はさらに兵を進め、陳の西方にいた張賀の軍を攻撃した。陳王自身も戦場に出て監督したが、軍は敗れ、張賀は戦死した。
  十二月、陳王は汝陰へ向かい、そこから戻って下城父に到着したところ、その御者であった荘賈に殺され、秦に降伏された。 陳勝は碭に葬られ、「隠王」という諡号を贈られた。
  陳王のもとで、かつて涓人から将軍となった呂臣は、「蒼頭軍」を組織して新陽で兵を起こした。そして陳を攻撃して陥落させ、荘賈を殺し、再び陳を楚の領土とした。 もともと陳王が陳に到着したとき、銍の人・宋留に兵を率いさせて南陽を平定し、武関へ進ませていた。 宋留はすでに南陽を攻略していたが、陳王が死んだと聞くと、南陽は再び秦の支配下に戻った。
  宋留は武関に入ることができず、東へ進んで新蔡に到着したところで秦軍と遭遇した。宋留は軍を率いて秦に降伏した。 秦は宋留を咸陽へ送り、そこで宋留を車裂きの刑に処し、その遺体をさらした。
  秦嘉らは陳王の軍が敗れて陳勝が逃亡したと聞くと、景駒を楚王に立てた。そして兵を率いて方与へ向かい、定陶の近くにいる秦軍を攻撃しようとした。 さらに公孫慶を斉王のもとへ使者として送り、力を合わせてともに進軍することを求めた。 斉王は言った。
  「陳王が戦いに敗れたと聞いているが、死んだのか生きているのか分からない。楚はどうして、われわれに相談もせず王を立てることができるのか。」
  公孫慶は答えた。
  「斉は楚に相談せず王を立てたのに、どうして楚だけが斉に相談して王を立てなければならないのですか。それに、最初に兵を起こしたのは楚なのです。天下に対して命令を発する立場にあるのは楚です。」
  田儋は公孫慶を殺した。 秦の左右校の軍が再び陳を攻撃し、これを陥落させた。 呂将軍は逃走し、兵を集めて再び軍を立て直した。
  また、鄱の盗賊である当陽君・黥布の兵も合流し、再び秦の左右校を攻撃して青波でこれを破った。そして、再び陳を楚の領土とした。 ちょうどそのころ、項梁が楚懐王の孫である心を楚王に立てた。
  陳勝が王であった期間は、全部で六か月だった。 王となって陳を支配していたころ、かつて陳勝とともに雇われて耕作していた仲間の一人が、陳勝が王になったと聞いた。そこで陳へ行き、宮殿の門を叩いて言った。
  「私は陳渉に会いたい。」
  宮門の役人は、彼を捕らえようとした。しかし男が何度も自分の身分や陳勝との関係を説明したので、ようやく放した。ただし、陳勝に取り次ごうとはしなかった。 やがて陳王が宮殿から出てくると、男は道を遮って、
  「渉! 渉!」
  と呼びかけた。 陳王はそれを聞いて、その男を召し出し、車に乗せて一緒に帰った。 宮殿に入り、殿舎や帳(とばり)を見ると、男は驚いて、
  「なんとまあ! 渉が王になって、こんなに堂々としているとは!」
  と言った。 楚の人々は、多いことを「夥(か)」と言ったので、天下の人々はこの話を伝え、
  「夥(おお)いかな、陳渉の王となりしことよ」
  という言葉が広まった。陳渉が王となったことから、このような言い回しが天下に伝わったのである。
  この男は陳王の宮殿に出入りするにつれて、ますます遠慮がなくなり、陳勝がまだ身分の低かったころの出来事を、あれこれ話すようになった。 ある者が陳王に進言した。
  「あの男は愚かで何も分かっていません。勝手なことを言い、王の威厳を軽んじています。」
  陳王はその男を斬った。
  これを見た陳王の昔からの仲間たちは、皆、自分から身を引いて去っていった。このため、それ以後、陳王に親しく近づこうとする者はいなくなった。
  陳王は朱房を中正に、胡武を司過に任命し、群臣を監督させた。 諸将が各地を攻略して戻ってくると、彼らの命令が少しでも気に入らなければ、捕らえて罪に問い、細かいことまで厳しく調べることを忠誠の証とした。 また、陳王が気に入らない者については、司法を担当する役所に引き渡すこともせず、自分で直接処罰した。
  陳王は朱房と胡武を信任した。 諸将はこのため陳王に親しみ、従おうとはしなくなった。これこそが、陳王が敗北することになった原因であった。
  陳勝自身はすでに死んだ。しかし、彼が配置し、派遣した侯・王・将軍・宰相たちが、最終的には秦を滅ぼすことになった。天下に最初に兵を起こしたのが陳渉だったからである。
  漢の高祖の時代になると、陳渉のために碭に三十戸を置いて墓を守らせ、祭祀を続けさせた。この制度は、今日に至るまで続いている。

○その他
[一番上]


第2回 10/09 新興宗教の光と影-黄巾の乱
184年に起きた黄巾の乱は、後漢王朝を揺るがした大規模な宗教反乱です。指導者の張角は、民衆を救う宗教運動「太平道」を率いた人物でした。いつの時代も、貧富の格差や政治腐敗に苦しむ人々は、いわゆる「終末論」や「千年王国」的な宗教思想にとびつきます。民衆は「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」というスローガンのもとに結集しました。この反乱は鎮圧されましたが、後漢王朝は大きく弱体化し、「三国志」の英傑たちが群雄割拠する乱世となります。新興宗教が反乱の原動力にもなる先例となりました。
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第3回 10/23 在中外国人の不満-安禄山の乱
755年、唐の玄宗皇帝と楊貴妃の時代に起きた安禄山の乱は、中国史上最大級の内乱でした。反乱の指導者・安禄山はソグド系とテュルク系の血を引く胡人で、現在の言葉でいえば「在中外国人」の有力軍人でした。唐王朝は国際色豊かな帝国でしたが、その一方で民族や文化の違いによる緊張や、いわゆる「ガラスの天井」の問題も抱えていました。この戦乱によって唐王朝は大打撃を受け、中国社会のあり方も大きく変化しました。国際国家とか多民族国家と呼ばれる唐王朝の破綻は、21世紀のグローバル化の時代を生きる私たちにも多くの教訓を残しています。
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第4回 11/20 西洋思想の中国化-太平天国の乱
1851年に始まった太平天国の乱は、死者数千万人という中国史上最大規模の内戦でした。指導者の洪秀全は広東省出身の知識人で、キリスト教の影響を受けて自らを「イエスの弟」と称しました。しかし、その思想は西洋のキリスト教をそのまま受け入れたものではなく、中国独自の色がつけられました。洪秀全が創始した国家「太平天国」は南京を首都として一時は清王朝を脅かしますが、最終的には滅亡します。19世紀にはキリスト教が中国化して反乱の原動力となり、20世紀には民主主義やマルクス主義が中国化して中国革命の原動力となりました。
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第5回 12/11 狂信的ナショナリズム-義和団の乱
1899年に始まった義和団の乱は、外国勢力への反発から生まれた民衆運動です。義和団の中心となったのは華北地方の農民や武術集団で、「扶清滅洋(清を助け、外国勢力を滅ぼす)」を掲げました。彼らは呪術的な信仰と迷信的な魔法の力によって「自分たちには西洋の銃弾も通じない」と信じ、多くの民衆を引きつけました。しかし日本を含む列強諸国の連合軍によって鎮圧され、清王朝はさらに弱体化します。無名の民衆たちによる暴力的なナショナリズムの沸騰は、その後の中国でも、文化大革命を始め、何度も繰り返されることになります。
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