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早稲田大学エクステンションセンター中野校
【対面+オンラインのハイブリッド】

テーマ別に学びなおすと面白い中国の歴史
日本人と中国人を知るための教養講座

最新の更新 2022年1月24日    最初の公開 2022年1月8日

火曜日 13:00−14:30 全4回  2022年01月11日−02月08日
(日程詳細) 01/11, 01/18, 01/25, 02/08 (※02/01はありません)
  1. 01/11 貨幣が語る歴史――古代の貝貨から電子マネーまで
  2. 01/18 中国医学の特徴――西洋医学との発想の違い
  3. 01/25 海を渡る妖怪――九尾の狐と白蛇伝
  4. 02/08 女性を苦しめた旧習――纏足の発生から廃絶まで
目標
・私たちが生きている今の時代がこのようになった理由を考える。
・日本史と中国史という枠組みを取り払い、世界的な視野から東アジアを見直す。
・歴史の予備知識がない人にも、身近なことから考える楽しさを体験してもらう。

講義概要
 この講座では、「中国とは何か」を大づかみで理解します。日本や西洋と比較しつつ、中国文明数千年の特徴を、写真や動画なども使いながら、わかりやすく解説します。中国史についての予備知識がないかたも大丈夫です。日本史や西洋史に興味のあるかたも、中国史と比較することで、きっといろいろな発見があると思います。お気軽にご受講くださいますよう。
詳細は https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/53885/ をご覧ください。


第1回 2022/1/11 貨幣が語る歴史――古代の貝貨から電子マネーまで
○中国のお金の歴史は独特です。西洋では古代のギリシャ・ローマの時代から銀貨などの金属コインが広く流通しました。一方、古代の中国では、「貨幣」という漢字が示すとおり、貝殻や幣(布の一種)など金属貨幣以外のお金も広く流通しました。世界最古の本格的紙幣の流通は中国で始まりました。また21世紀の中国は世界屈指の電子マネー大国となっています。なぜ中国では古来、金属以外の通貨が発達してきたのか。お金から見た中国文明史をわかりやすく解説します。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-ksj2SH1H2HG6H7rhtnLOrr

○キーワードとポイント
・貨幣、金銭→「貨」「幣」「銭」の字源
 Cf.加藤徹『貝と羊の中国人』
・自然経済(現物経済)→貨幣経済 →信用経済
Cf.ヤップ島の石貨(Rai stones) 「お金の歴史」の源流
・士大夫(したいふ)と「士農工商」「士民」
・集中、展開、蓄積のサイクル

〇中国人の民族性
 「財神到」、紙銭、銭剣(霊幻道士」)、・・・
〇逆説・お金儲けに消極的な宗教・思想は近代的富裕化に有利
 産業革命も経済成長も「宗教的思潮」の影響が大きい。
 近代史でも、スペインやイタリアなどカトリック系の国よりも、イギリスやアメリカ、オランダなどプロテスタント系の国々のほうがいち早く近代資本主義を確立し、富裕化した。その理由は、逆説的だが、カルヴァン主義の「非合理性」にあった。
 ドイツの社会学者マックス・ヴェーバー(1864-1920)は、著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismusで「非合理の合理」という逆説のメカニズムを解明した。
 カルヴァンの予定説=因果律の否定→禁欲的労働→近代的資本主義の発生と社会全体の富裕化
「私は幸せになれますか?」「天国に行けますか?」
 ★予定説 predestination:結果は全て、全能の神によって最初から決まっている(決定論)。個人の努力で、神の予定を変えることはできない。
 祈っても、戒律を守っても、善行を積んでも、天国に行けるかどうかは神のご意志。
 ★因果律 causality:原因が結果を生む。努力は報われる。
 祈ったり、戒律を守ったり、善行を積めば、天国に行ける。

〇中国の伝統的思想はお金儲けに寛大だった。
 中国の伝統的な宗教・思潮は「三教九流」
 三教は、儒教、道教、仏教。(日本では「儒仏道」の順で言うことが多い)。
 九流は、儒家、道家、墨家、法家、名家、雑家、農家、縦横家、陰陽家。
 最後に「小説家」を加え「九流十家」と呼ぶこともある。
 cf.班固『漢書』芸文志「諸子十家、其可観者九家而已」。諸子十家、その観るべきものは九家のみ。(最後の小説家は、取るに足らない)
 春秋戦国時代に成立した九流は、多かれ少なかれ「富国強兵」などシビアな現実と向き合わざるを得ず、お金儲けについても現実的だった。

〇儒教の開祖・孔子とお金
 孔子は「礼」を重んじた。分を過ぎた贅沢はしなかったが、社会的な対面を保つための出費は惜しまず、就職活動などにも積極的だった。
★『論語』先進第十一:顏淵死。顏路請子之車、以爲之椁。子曰「才不才、亦各言其子也。鯉也死、有棺而無椁。吾不徒行以爲之椁。以吾從大夫之後、不可徒行也」。
 孔子の愛弟子である顔淵(顔回)が、若くして亡くなった。父親の顔路は孔子に「先生のお車をください。それを売って、あの子の椁(外棺)を造ってやろうと思います」と頼んだが、孔子は断って、こう言った。「誰でも、自分の子はかわいい。鯉(孔子の長男)が死んだとき、わが家は貧乏で、棺は用意できたが、棺をおさめる椁は用意できず、簡素な葬式を出した。私は、馬車を売ってまで、わが子の墓を立派にしようとはしなかった。私も国の大夫の末席につらなる身分なので、車に乗らず徒歩というわけにはゆかないのだ」。
★『論語』子罕第九:子貢曰「有美玉於斯。??而藏諸。求善賈而沽諸」。子曰「沽之哉。沽之哉。我待賈者也」。
 孔子の弟子である子貢が、孔子にきいた。「すばらしい宝石がございます。箱にしまいますか。よい買い手を探して、売りますか」。「売るよ、売るよ。わしもずっと、良い買い手を待っておるのだ」。
 ※美しい宝石、は、自分や弟子の才能の比喩。孔子は「世捨て人」ではない。

★『論語』顔淵第十二:子貢問政。子曰「足食足兵、民信之矣」。子貢曰「必不得已而去、於斯三者、何先?」。曰「去兵」。曰「必不得已而去、於斯二者、何先?」。曰「去食、自古皆有死、民無信不立」。
 子貢が政治の要諦をたずねた。孔子は答えた。「まず食糧の確保。次に軍備。そして民の『信』を確立する」。「もし、やむをえずどれかを削るとしたら、まずどれでしょうか」。「軍備を削る」。「もし、残りの二つのうち、やむをえず削るとしたら、どちらでしょう」。「食糧をあきらめる。昔から人はみな死ぬ。しかし、民は『信』がなければ立つことはできない」。
※信=信義、信念、社会的な信用などの根底に共通するエトス。

〇毛沢東と中国共産党の政策
 1949年10月1日、中華人民共和国の建国。成功したとは言いがたいが、毛沢東も中国人なので、孔子の「食兵信」のセオリーを踏襲している。
 食を足す=土地改革(中国語では「土改」と略す)。地主の土地や財産を没収して公有化。百万人、ないし三百万人の死者が出たとされる。
 兵を足す=軍備増強。1964年、核実験に成功。
 民、これを信にす=中国共産党が主導する思想教育。

〇貨幣の歴史と中国
 貨幣=お金の三つの機能。「支払」と「交換・流通」を分けて四つの機能とする考え方もある。
★価値の尺度となる。
 ランキング好きな中国人に適している。
 漢の時代、中国では官職の階層性を年俸である「秩石」(ちっせき)の石高で示した。
 例「二千石(にせんせき)」。漢代の規定で、郡太守が毎月120斛(こく)を支給されたことから、知事などの地方長官を「二千石」と表現する。
cf.『漢書』巻19上百官公卿表上
★支払
 社会に流通することで、決済手段となる。
 英語で給料を表すサラリー salary の語源は、古代ローマの兵士に給料として支払われた「塩」を意味するサラリウム salarium。
 貨幣による支払いと、物々交換の支払いの比率は、国や時代によって大きく異なる。
cf.日本の昔話「わらしべ長者」:藁しべ→アブが結び付けられた藁しべ→蜜柑→反物→馬→屋敷
cf.日本の「乞食」は「食」でなく「銭」を乞う
 1429年、室町時代の日本を訪れた朝鮮通信使(通信使正使:朴瑞生)は、帰国後に提出した「復命書」で当時の日本の生活や社会情勢を詳述した。日本の農村で精巧で効率的な水揚水車を使っていること、日本では乞食すら食物ではなく銭を求めることに驚いている。
★蓄蔵
 貨幣は経年劣化を気にせず、貯蓄することができる。
cf.「美人の計」
 春秋戦国時代の経験から生まれた、中国人の伝統的策略の一つ。敵対国の機嫌をとるために献上する財産についての策略。もし敵対国に土地(領土)などの生産財を献上すれば、相手はますます強くなる。もし、金銀などの物材を献上すれば、相手はますます富強になる。だから、美女を献上したほうがよい。美女は消耗品・奢侈品なので敵対国の国力にはプラスにならない。むしろ、相手国の君主が美女の色香に溺れ、相手国が弱体化してくれればしめたもの、という考え方。

〇中国の貨幣の種類
 貨幣の主な種類は四種類。
★計数貨幣(個数貨幣)
 一定の形状と品位、重量を保証された貨幣のこと。個数を数えるだけで授受される。コインなど。先秦時代の貨幣は「布貨」や「刀貨」など、必ずしも円盤型ではなかった。
★秤量貨幣(しょうりょうかへい/ひょうりょう−)
 重量によって交換価値を計算して使用する貨幣。江戸時代の丁銀(ちょうぎん)・豆板銀(まめいたぎん)、中国で清代に用いられた馬蹄銀(ばていぎん)など。現代中国では姿を消す。
★紙幣
 北宋の時代、四川地方で発行された「交子」が、世界初の紙幣とされている。
★電子マネー
 現代中国で急速に普及。

〇中国の貨幣の変遷
 漢字「銭」の字源は、「金属」と「浅」「残」「桟」の右半分を組み合わせた文字。換金性をもつ小さな金属片、の意。
 古来、慢性的に人口が多かった中国では、一人あたりの金属資源は相対的に少なかった。社会経済の規模とくらべ、銅貨は慢性的に不足する傾向にあった。金属の地金の価値が額面の価値を上回ると、銅化は鋳つぶされてしまった。

★殷周期:貝貨・青銅貨など、原始的な計数貨幣。「貨」は「貝」が変化したもの、の意。「幣」は「ぬさ」の意。
 殷の自称は「商」であり、これが「商売」「商人」の語源になった。
★秦漢期:銅貨・布・金が貨幣として流通。銅貨は、秦の半両銭、前漢の五銖銭が有名。五銖銭は、唐の開元通宝の発行まで、長く流通した。
 cf.呂不韋の「一字千金」の故事。宮崎市定などの説によると、シルクロードの交易の結果、中国から金が長期に流出した。
★後漢から唐:銅貨・布が流通。金は希少化が進んだ。
 cf.「三国志」の曹操の父親、曹嵩は、後漢の時代「一億銭」を朝廷に献上し、最高位の官職「三公」のひとつである太尉の職についた。
★宋代:銅貨、鉄貨(敵対国への銅の流出を防ぐため一部地方で)、紙幣(世界史上初)。
★元代:紙幣、銀貨(秤量貨幣である銀錠)。元王朝は銅貨の流通を抑制した。
★明清期:銅貨、銀貨、紙幣。
 明の太祖・朱元璋は銅貨を発行して流通させた。交易の結果、メキシコドル「墨銀」(洋銀)など、大量の銀が中国に流入し、銀本位制の下地となった。対照的に、銅貨が不足する傾向は進んだ。
 cf.明の永楽銭は、信長の旗印。
★中華民国:銀貨、紙幣。
 中華民国は当初、清の銀本位制を引き継いだ。世界の経済情勢の変化により、1935年、国民党政府の宋子文(「宋家三姉妹」の兄弟)は銀貨の流通停止と全国統一通貨「法幣」を発行した。
cf.「杉工作」:偽造法幣。戦時中、日本の陸軍登戸研究所では、蒋介石政権の紙幣の偽札を作ったと言われる。
★中華人民共和国:硬貨、紙幣。現在は電子マネーが普及中。
 中国の「外貨兌換券」(1979年-1993年)は、今はもう昔話。

〇西晋の魯褒の風刺文学「銭神論」
 架空の人物の問答体によって、世間で金銭が神に等しい存在であることを風刺した文芸作品。
「お足」の語源:「銭神論」の一句「無翼而飛、無足而走」。お金は、翼がないのに飛び、足がないのに走る。
「孔方兄」(こうほうひん):アナが四角い(孔方)お兄さん。銭の異称。

〇阿堵物(あとぶつ)
 宋の劉義慶『世説新語』規筬(きしん)上の故事。「阿堵」は俗語で「これ」「あれ」の意。
 西晋の王衍(おうえん 256-311)は、政治家だったが、清談を好み、「銭」という言葉すら口にしなかった。彼の妻の郭氏は夫を試そうと、下女に命じて、いたずらをしかけた。ある朝、王衍が目覚めると、寝床のまわりは銭だらけだった。王衍は下女を呼び「阿堵物をどけろ」と命じた。
 以来、銭のことを婉曲に「阿堵物」と呼ぶようになった。
 なお、王衍はのちの西晋の亡国に際して、奴隷から身を起こして五胡十六国の後趙の開祖となった石勒(せきろく)によって殺された。

〇王戎(234-305)
 王衍の従兄。「竹林の七賢」の一人。ケチで有名。
 『世説新語』によると、夫婦ともに金もうけに熱心で、夜おそくまでお金を数えた。
 彼は庭の李を売ったが、李がよそで発芽しないよう、ひとつひとつ錐で種に穴をあけて売った。
 また、娘がとつぐときに銭数万を贈ったが、その後、娘が里帰りすると王戎は不機嫌だった。娘が銭を返すと、急に機嫌がよくなった。
 当時は「言論の自由」がなく、知識人だった王戎は、自分がお金に夢中で政治に興味関心がないふりをしていた、という説もある。

〇「陶朱猗頓の富」(とうしゅいとんのとみ)
 『史記』などの故事に基づく。
 越王勾践の功臣であった范蠡(はんれい)は、戦勝後、自分が粛清されることを予想し、越の国を出て第二の人生を歩んだ。彼は、斉の国で、新しい名前「鴟夷子皮(しいしひ)」を名乗り、商売を始めた。戦略の天才を商売に転用した范蠡は、巨万の富を築いた。
 斉の国は、鴟夷子皮こと范蠡の天才に惚れ込んで、彼に宰相となるよう申し入れた。范蠡はこれを断り、巨万の富を皆に分かち与えると、今度は小国の陶に赴き、朱と改名して商取引を行い、ここでも大成功し、人々から陶朱公(とうしゅこう)と呼ばれた。
 猗頓(いとん)はもともと貧乏人だったが、陶朱公こと范蠡から商売のコツを教わり、大金持ちになった。
 政治的な野心をもたぬ第二の人生をアピールして権力者の警戒心を解く、という生き方は、伊達政宗の後半生にも似ている。


第2回 2022/1/18 中国医学の特徴――西洋医学との発想の違い
○中国医学(中国での略称は「中医」)は陰陽五行思想と結びつき、病気の根本原因を文字通り「気」の流れの乱れであると考えるなど、西洋医学とは全く違う発想から発展してきました。鍼灸つまりハリやお灸などでツボを刺激したり、医食同源の考え方から日常の飲食物を「熱」と「涼」に分けるなど、中国の医学や健康法は、独特の考え方が見られます。日本や西洋と比較することで、世界一の大人口を裏から支えてきた中国医学の歴史が見えてきます。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kZGBoFWaaGHxkJJ_yBhNkS

○中国医学のコンセプト
 宇宙の根本は「気」の流れ  >  宇宙の単位はアトム
 経験 > 実証・理論
 名人芸 > マニュアル化  CF.近代西洋の「集中、展開、蓄積」のサイクル
 全体は一部を、一部は全体を反映 > 部分は部分
 オーダーメイド  >  普遍化

上記の世界観は、陰陽五行思想や風水などと同様で、中国人の政治・経済・文化とも結びついている。

〇東洋医学
 「東洋」は、日本語ではアジアを指すが、中国語では日本を指す。
 狭義の東洋医学:中国医学(中国での略称は「中医」)、漢方医学(日本)、韓医学。
 広義の東洋医学:上記にプラスして、南アジアのアーユルヴェーダ、西アジアのユナニ医学なども含む。
 中国人にとって古来「人生」「この世」は楽しいものであり、少しでも長く元気にこの世に留まることが医学の目的でもあった。
 cf.「福禄寿」 中国人の幸福観。

〇漢方医学と中国医学の違い
★中国医学(中医):日本では、中華人民共和国の中国医学のみを「中医」、それ以前の中国医学を「中国医学」と呼ぶ場合もある。中国医学は「五薬」(五種の薬の材料。草・木・虫・石・穀。一説に草・木・金・石・穀)を使う薬物療法と、鍼灸(しんきゅう/はりきゅう)などの物理療法の双方を含む。
 中国医学は「本草学」(ほんぞうがく)とも深い関連がある。
 古代において、動植物の種類が豊富な南中国で発達した薬物療法と、物資が乏しい北中国で発達した物理療法が融合して中国医学の基礎ができた、と推定する人もいる。
cf.魯迅の短編小説「薬」(青空文庫)
cf.李時珍(1518年 - 1593年)の『本草綱目』全52巻は、日本の医学にも大きな影響を与えたが、日本では採用されなかった部分も多い。特に第52巻「人部」は印象的である。
 国立国会図書館 第27冊(第51−52巻) [102]の68コマ目から
 維基文庫の「本草綱目/人部
 WikiPediaの「ヒトに由来する生薬」の項目なども参照。

★漢方医学:中国医学や中国の本草学の影響を受けた日本の伝統医学を指す。漢方の「方」は「処方箋」の方と同じ意味。漢方医学は生薬(しょうやく/きぐすり)を使った漢方薬を使うものであり、日本では鍼灸医学とは区別される。これは江戸時代に、鍼や按摩が盲人優先の職業とされたことに由来する。
 なお、江戸時代において、漢方医学の対概念はオランダから伝わった蘭方医学であった。
cf.今の日本で、保険診療で使用できる医療用漢方製剤は148種類。https://www.tsumura.co.jp/qa/
 ロクミガン(六味丸) https://www.tsumura.co.jp/kampo/list/detail/087.html

〇国手(こくしゅ)・・・名医。国の病を治す名手の意で、出典は歴史書『国語』晋語。囲碁の名人を指すこともある。
 司馬遷の『史記』列伝・扁鵲倉公第四十五の名医・扁鵲(へんじゃく。前7世紀?−前4世紀?)や、『三国志』の華佗(かだ。?−208年)などは国手と言える。

〇日本語の藪医者(やぶいしゃ)の語源
 諸説があるが、古代中国の「野巫医(やぶい)」=民間の呪術医療師説がある。
 中国では春秋戦国時代に、原始的な野巫医と、より合理主義的な医者の区別が生まれるようになった。後者の代表的人物が扁鵲である。

〇扁鵲
 漢文では、名医の代名詞として使われる伝説的な遍歴医(日本の漫画『ブラック・ジャック』や木曜ドラマ『ドクターX 〜外科医・大門未知子〜』のようなフリーランスの医者)。生没年は不明だが、司馬遷の『史記』列伝・扁鵲倉公第四十五によると、前7世紀から前4世紀まで活躍し、約3百年も生きたことになる。扁鵲は一人の人物ではなく(日本の漫画『スーパードクターK』のように)代々受け継がれた名前であると考える人もいる。
 司馬遷『史記』による扁鵲の驚異の技。司馬遷は歴史家で、医者ではなかったことを考慮する必要がある。
★長桑君:扁鵲は、長桑君という名の隠者から秘伝の医術を伝授され、また秘密の薬をもらった。その薬を服用した扁鵲は(ロジャー・コーマン監督のSFカルト映画『X線の眼を持つ男』のように)土塀の向こう側の人を見たり、患者の五臓の気血を透視できるようになったが、表向きは脈診をよそおった。
★晋の趙簡子(?−前476年):五日間昏睡状態が続いていた。扁鵲の見立ては、血脈は問題なく、「帝」(天の神様)のところに行っているだけ、というものだった。二日半経って趙簡子が目覚めて、話を聞くと、そのとおりだった。扁鵲は褒美に広大な畑をもらった。
★虢(かく)の太子:虢国の太子が死んだ。扁鵲は、太子の遺体を見たわけでもないのに、人づてに話を聞いただけで太子は本当に死んだのではなく仮死状態であると推察し「生き返らせることができます」と言った。扁鵲は、鍼(はり)を使って太子を蘇生させ、薬を処方して回復させた。
★斉の桓侯(かんこう。正しくは桓公。前400年-前357年):扁鵲は桓侯に最初に会ったとき、一目で病気であることを見抜き「まだ皮膚にあります」と指摘して治療を進めたが、桓侯は信じなかった。五日後、扁鵲は桓侯を見て「すでに血脈の中にあります」と指摘したが、桓侯は信じなかった。さらに五日後「すでに胃腸の間にあります」と指摘したが、桓侯は信じなかった。さらに五日後、扁鵲は桓侯に謁見したが、何も言わずに退出し、逃げ出した。その五日後、桓侯は体が痛み出した。桓侯は扁鵲を探したが見つからず、そのまま死んだ。
★地域のニーズ:扁鵲は地域の需要にあわせ、趙の都・邯鄲(かんたん)では婦人科医となり、周の都・洛陽では老人医となり、秦の都・咸陽(かんよう)では小児科医となった。
 秦の太医令・李醯(りき)は扁鵲の技術に嫉妬し、刺客(しかく)を使って扁鵲を刺殺した。

 以下「『史記』の中の「扁鵲倉公列伝」/日本内経医学会研究発表/桐木 優/平成22年1月10日」(PDF)より引用。引用開始。
扁鵲伝まとめ
・望診ばかりしていて、実はほとんど脈診をしていない
・そもそも透視能力があるというのは脈診ではなく望診の凄さを物語っているはず
・扁鵲が脈診の祖であるということは「脈をいうものはみな扁鵲に由来する」という一文以外からは読み取ることができない
・「六不治」はエピソードにはあまり反映されていない
・「信巫不信醫、不治」とあるが、夢の内容をあてたり死人を生き返らせたり一瞥しただけで診断したりと「巫」の要素十分
・脈診の伝承や巫に対する記載は物語り全体からみると極めて不自然な形になってしまっている
引用終了。

 古代中国の「戦国時代」が医療を発展させたように、日本の「戦国時代」も医療を発展させた。

〇【参考】 曲直瀬道三(まなせ・どうさん 1507年-1594年)
 戦国時代の遍歴医で「医聖」「日本医学中興の祖」などと称される。天皇や戦国武将も診たが、庶民もわけへだてなく診療した。
 彼が診た有名人は多い。将軍・足利義輝、細川晴元、三好長慶、松永久秀(性技指南書『黄素妙論』を伝授)、毛利元就、畠山義綱、正親町(おおぎまち)天皇、イエズス会の宣教師・オルガンティノ、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、その他の錚々たる顔ぶれである。
 道三は、織田信長からは蘭奢待(らんじゃたい)をもらっている。
 道三は、毛利元就を診察し「余命約五年」と予測した。その予言を聞いた毛利元就は上洛をあきらめた。予測どおり、元就は五年後に亡くなった。
 徳川家康も、道三が書いた医学書を読みふけり彼に質問したと思われるふしがある。
cf.「信長、秀吉を診察し、家康に医術を授けた名医 伝説の医師・曲直瀬道三とは何者だったのか」https://toyokeizai.net/articles/-/231846 2018/08/07


第3回 2022/1/25 海を渡る妖怪――九尾の狐と白蛇伝
○西武池袋線の練馬駅の構内にある「アニメ発祥の地 練馬区」という案内板には、中国の妖怪物語「白蛇伝」のヒロインが描かれています。栃木県の那須にある殺生石は、中国から渡来した妖怪・九尾の狐の伝説と結びついています。神社の狛犬や手水舎の龍は中国が起源ですが、日本独自のアレンジがされています。中国にルーツをもちながら日本に「帰化」した妖怪や幻獣の歴史を追うと、日中文化交流の隠れた側面が浮き彫りになります。
白蛇 YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lLDEzmdGa4oRS29EyE3GfH


九尾の狐 YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lOYOy46IgAbCXr6srAynez
〇今回のポイント
・世代累積型集団創作(せだい るいせきがた しゅうだん そうさく)
 長い歳月のなかで練り上げられて作られた物語のこと。個人創作とは対比的。
・異類婚姻譚(いるい こんいん たん)
 ヒトと、ヒト以外の「人外(じんがい)」が結婚する話のこと。
・中国の庶民は昔も今も妖怪的なものが好きである。
 儒教は「怪力乱神」を嫌い、共産党は「牛鬼蛇神」(ぎゅうきだしん)を敵視する。
・越境できる妖怪とできない妖怪がいる。
 日本にトラの妖怪はいない。中国の「石獅子」は日本では「狛犬」になってしまった。
 「龍」のように、漢民族のナショナリズムと結びついた「妖怪」は、外国での取り扱いに差し障りがある。
cf.[Forbes JAPAN 中国の若者が激怒した「ヴィクトリアズ・シークレット」の失態 2016/12/29 12:30]「スーパーモデルのエルザ・ホスクは体にドラゴンを巻き付けて登場。アドリアナ・リマはドラゴンが刺繍されたスチレット・ブーツを身に着けた」
・中国から日本への「直流」と、日本からの還流・逆輸出を含む「交流」。
 日本の妖怪文化は、アニメや漫画、ゲームなどサブカルチャーと結びつき、近年の中国でも大人気である。本来、中国の九尾の狐は「妲己(だっき)」系だが、日本の漫画・アニメ作品『NARUTO -ナルト』(中華圏では「火影忍者」)や中国製日系ゲーム『陰陽師』(おんみょうじ)その他を通じ、「玉藻前(たまものまえ)」系の九尾の狐も中国の若者世代のあいだでは人気である。
・昔の東アジアでは男尊女卑の気風が強く、男をたぶらかす女性の妖怪が多かった。「妖」が女へんであることに注意。
cf.中国のサイト [百度百科・日本三大妖怪][百度図片・九尾狐][百度図片・九尾狐 cosplay]

○白蛇
 蛇のアルビノや白変種。日本でも山口県の「岩国の白蛇」などが有名。
 陰陽五行思想では、「木、青、鱗(五虫)」がひとくくり。五虫は動物の五分類「鱗(魚と爬虫類)、羽(鳥)、裸(ヒト)、毛(獣)、介(カメ、甲殻類と貝類)」を指す。
 鱗族の最高位は「龍」だが、白蛇の地位はそれに次ぐ。
 古来、中国や日本では、「名刹(めいさつ)、湖川、龍蛇」の3点セットの説話が各地で広く分布する。
 詳細は「白蛇伝 授業用メモ」を参照。
日本との関連  白蛇伝は異類婚姻譚(いるいこんいんたん)の1つである。中国では18世紀まで人間の男性が主人公で、白蛇は悪役、2人を別れさせる僧侶は善玉だった。が、19世紀ごろから善悪が逆転し、白蛇が正義のヒロイン、僧侶は悪役になった。
 日本の白蛇伝は、江戸時代までは中国の古い白蛇伝の翻案で白蛇が悪役だったが、昭和には中国の新しい白蛇伝、つまり白蛇を正義のヒロインとする白蛇伝が伝わった。

 白蛇伝と同系の「湖川龍蛇名刹縁起譚」は日本各地にある。
 例えば、中野区の成願寺(じょうがんじ)の縁起について、中野区の公式サイトには以下のような説話が伝わる。 出典 https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/102500/d020156.html 2022年1月24日閲覧
(引用開始)  今は昔、応永の頃(1394〜1427)、紀州熊野から鈴木九郎という若者が中野にやってきました。九郎は(中略)金銀財宝を隠そうと人を使って運ばせて、帰りにその人を亡き者にするという悪業を働きはじめたのです。村人たちは、「淀橋」を渡って出掛けるけれど、帰りはいつも長者一人だということから、いつしかこの橋を「姿見ず橋」と呼ぶようになりました。
 しかし、悪が栄えるためしなし、やがて九郎に罰があたります。九郎の美しい一人娘が婚礼の夜、暴風雨とともに蛇に化身して熊野十二社の池に飛び込んでしまったのです。九郎は相州最乗寺から高僧を呼び、祈りを捧げました。すると暴風雨はおさまり、池から蛇が姿を現し、たちまち娘に戻りましたが、にわかに湧いた紫の雲に乗って天に昇っていってしまったのです。以来、娘の姿は二度とこの世に現れることはなくなったのです。
 九郎は嘆き悲しみ、深く反省して僧になりました。そして、自分の屋敷に正歓寺を建て、また、七つの塔を建てて、娘の菩提を弔い、再び、つましく、信心深い生活に戻りました。めでたし、めでたし・・・(引用終了)
 なお成願寺の創立については、これとは違う話も伝わっている。


〇九尾の狐
 古代中国で実在すると信じられた霊獣のイメージが、「世代累積型集団創作」のなかでふくらみ、日本の東アジア各地に広まったもの。
 別名「九尾狐(きゅうびこ)」「金毛九尾の狐」「白面金毛九尾の狐」等。
 日本の九尾の狐は「セレブ」であり、「玉藻の前(たまものまえ)」や「那須の殺生石」と結びつき、男性の精気を吸う。
 韓国の九尾の狐は「庶民的」で、ヒトも含めた動物の肉が大好物である。
 中国の九尾の狐は古典小説『封神演義』の悪女・妲己(だっき。殷の紂王の妃)のイメージと結びつき、セレブの悪女、というイメージが強い。

 ビュフォン伯ジョルジュ=ルイ・ルクレール(1707-1788)による妖怪の三分類によれば「過剰による妖怪」である(第一は過剰による妖怪。第二は欠如による妖怪。第三は諸部分の転倒もしくは誤配置による妖怪)。
 セレブ版「狐女房」(異類婚姻譚の一種)と結びつきやすい。

〇歴史
 九尾の狐、の起源は不明だが、戦国時代の中国である可能性が高い。
 中国最古の地理書『山海経』(せんがいきょう。前4世紀ごろから歳月をかけて成立)の「南山経」青丘之山の項に、
【原漢文】有獣焉。其状如狐而九尾、其音如嬰児、能食人。食者不蠱。
【漢文訓読】獣、焉に有り。其の状、狐の如くして九尾あり。其の音、嬰児の如し。能く人を食ふ。食へば蠱せられず。
【意味】獣がいる。その形状は狐に似て尾が九つあり、啼き声は新生児の泣き声に似ている。ヒトを食べることができる。(この狐を)食べると蠱毒(こどく)の呪いの害を受けなくなる。
とある。
 その後、中国では、
とキャラクターが二分化した。
 語り物や芝居、小説では、美しい悪の妖女、というイメージが多い。

 九尾狐の説話は、古くから日本へも伝わった。漢文古典に親しむ知識人は、『白虎通義』の瑞獣のイメージを理解していたが、庶民層は妲己説話のような悪の妖怪のイメージをふくらませた。
 室町時代には、鳥羽上皇(12世紀)に仕えた美女・玉藻前(たまものまえ)の正体が狐であり退治された、という説話が存在したが、その狐は必ずしも九尾ではなかった。
 江戸時代には、九尾の狐は天竺で花陽夫人、殷で妲己(だっき)、日本で玉藻前となったが、最後は那須で退治されて殺生石となる、という物語が広まった。19世紀初頭の、高井蘭山の読本『絵本三国妖婦伝』や岡田玉山の『絵本玉藻譚』などが有名である。
 日本の玉藻前説話は、漫画やアニメ、ゲームなどのサブカルチャーを通じて中国にも輸出されている。九尾狐は、漫画『ドラゴンボール』の主人公「孫悟空」と同様、中国から日本への一方通行ではなく、逆輸出もされた一例である。

 以下、2019年11月23日に御茶ノ水の明治大学で加藤徹が担当したイベント(入場無料、予約不要、出入自由)の説明文より。
2019年11月23日(土)明治大学「アカデミックフェス」2019 at 駿河台キャンパス
https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/20191123.html
企画名 九尾の狐カフェ Nine-Tailed Fox Café 2019(加藤 徹)12:00〜18:00 アカデミーコモン2F ROOM-D(A5会議室)
コーディネーター:加藤 徹
 コンセプトは「学術喫茶」。お客様にお休みいただきながら、学問の面白さに触れていただく休憩所的スポットです。お気軽にお立ち寄りください。
 雰囲気は、学園祭の教室展示。テーマは、古今東西の「九尾の狐」。教員や学生が常駐し、お客様とパネル展示の図像や動画を見つつ、九尾の狐について気軽に雑談をします。
 「九尾の狐」はアジア共通の伝統的キャラクターです。日本語ではキュウビノキツネ。中国語では“九尾狐”(ジウウェイフー)。韓国語では“구미호” (クミホ)。英語では“nine-tailed fox”。日本では、那須の殺生石の説話が有名ですね。
 九尾の狐は、三千年のあいだ、アジアを駆け巡ってきました。昔の書物や芝居だけではありません。現代の日本や中国、韓国では、漫画やアニメ、テレビドラマなどで九尾の狐の新しいキャラクターが続々と誕生しています。いにしえの玉藻前(たまものまえ)は十二単(じゅうにひとえ)姿の貴婦人でしたが、現代の漫画『非人哉』(ひとにあらざるかな)ではTシャツに短パンのカジュアル女子です。まさに、古今東西、逍遙自在、雅俗混交、不羈奔放!
「大学って、どんなところ?」「大学の人と、気軽に雑談をしてみたい」というかたも、単に腰をおろして休みたいかたも、どなたも大歓迎です。

〇「三つの座標軸
 神、神仙、神獣、瑞獣、妖怪、・・・ゆるキャラ、さまざまな顔をもつ。
  地域軸:中国、日本、朝鮮半島、・・・
  時代軸:過去から現代まで
  社会軸:雅俗共賞

cf.能の「殺生石」・・・作者不明。室町中期の能作者である佐阿弥(さあみ)こと日吉四郎次郎安清の作とも言われる。



第4回 2022/2/8 女性を苦しめた旧習――纏足の発生から廃絶まで
○男尊女卑の気風が強かった昔の中国では、女性を苦しめる旧習がいろいろありました。 なかでも纏足(てんそく)は残酷な奇習でした。3、4歳の幼女の足を包帯状の布で強く縛って足の成長を止め、小さく不自然な形の足にする、という激痛をともなう身体改造です。12世紀の南宋の時代から20世紀初頭まで続いた纏足という風習は、なぜ漢民族の間でこれほど長く続いたのか。日本人を始め周辺民族が拒否した纏足が、中国でだけ普及した原因を探ります。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kP9k5SF4rtNxkXbaPzRS6J

○今回のキーワード
○諸外国との比較 女性だけが肉体的・精神的な不自由をしのばねばならない例  過去の中国でおよそ千年のあいだ女性を苦しめた纏足の風習とその根絶までの道のりは、世界の女性史のなかでも重要な研究対象となっている。

〇纏足とは?
 20世紀初頭まで漢民族の婦女子に見られた「身体変工」(「身体改造」の学問的な言い方)の習俗。女子の幼児期から足に布をきつく巻き(足に「纏(まと)」わせる)、足を小さいままにする。大変な痛みを伴い、人権上、衛生上も問題があった。
 纏足は北宋(960-1127)の時代には存在した。当初は「妓女」のあいだで流行し、その後、上流階級の女性、さらに庶民層へと広がっていったらしい。
 纏足の起源には諸説あるが、五代十国時代の南唐の後主・李U(りいく。937-978)が小さな足の女性を好んだことから始まったとする説が有名である。
 民間の習俗であるため統計記録は残っていないが、纏足は北宋から徐々に広まり、元・明時代に普及した。元末明初の文人・陶宗儀(1329-1410)は『輟耕録』(てっこうろく)の中で「北宋の熙寧(1068-1077)年間や元豊(1078-1085)年間までは纏足を行う人はまだ少なかったが、近年に入ると人々はみな纏足を行うようになり、それをしない人は恥じるようになった」(如熙寧元豐以前人猶為者少、近年則人人相效、以不為者為恥也)と書いている。
 とはいえ、漢民族のなかでも、貧乏人や客家(はっか)の婦女子は生活のため労働をする必要から纏足ができなかった。
 cf.中国のテレビドラマ『大脚馬皇后』。明の太祖の皇后がヒロイン。
 纏足の習俗は、日本に伝わらなかった。中国でも、非漢民族のあいだでは限定的だったが、清の時代(1644-1912)には満洲人のあいだでも流行の兆しが見えたため、歴代の皇帝は禁令を出した。清に反乱を起こした太平天国も、キリスト教の影響やメンバーの客家系の多さもあり、纏足を禁止した。
 そもそも纏足は、儒教の礼制にはない民間の習俗だったこともあり、儒教的知識人はしばしば纏足の反対論を唱えた。にもかかわらず、纏足の風習は根強く残った。
 清末には、上海在住の欧米系婦人によるNatural Foot Society(天足会)や、康有為・梁啓超らが1883年に広東に設立した「不纏足会」など、各地で纏足反対の啓蒙団体が設立された。西太后も近代化の一環として纏足を禁止した。
 中華民国の成立後、纏足はすたれたが、地方などでは纏足を続ける女性もいた。1949年の中華人民共和国の成立以降、纏足は根絶した。

○日本人と纏足
 日本人が中国からあえて輸入しなかったもの。
  科挙の制度、宦官、城壁都市、纏足、等。
 日本で中国の纏足が話題になるのは明治時代からで、中国人(漢民族)の「後進性」の象徴として否定的に語られることが多かった。
 特に、日清戦争(1894-1895)前後に清国人への敵愾心と侮蔑が高まった時期、また日本の台湾統治が始まり漢民族系台湾人と日本人の接触が 増えた時期に、その傾向が強まった。
 CF. 薛梅「異文化「奇習」への接し方 : 近代日本における纏足への眼差しを中心に」(比較日本文化学研究 (9), 121-143, 2016 広島大学大学院文学研究科総合人間学講座) NII論文ID(NAID)120006940183

〇纏足のメリットとデメリット
★デメリット
 人権、衛生、健康上の問題。
 女性の社会進出が制限される(男尊女卑の見地からはメリット)。
 走ったり、農作業をする力が限られる(男尊女卑の見地からは、機織りなどの一部の労働に女性を縛り付ける効果がある)。
★メリット
 男性の性的嗜好に奉仕できる(男女平等の見地からはデメリット)。
 容姿は生まれつきで本人にはどうしようもないが、纏足は本人の忍耐の証しであり、後天的な努力を評価するほうが合理的である(と昔の中国人は信じていた)。

〇纏足から見る教訓
★「伝統」の魔力
 正統派の宗教・思想の教義や経典にない悪習でも、いったん「伝統」として民間に普及すると、民間人の目線では教義に等しい絶対的常識として定着してしまう。
★非合理の合理
 大局的な見地から見て非合理的な事物にも、小さな合理性はある。庶民の目線では、大きな合理性よりも、目先の小さな合理性のほうが大きく見える。
★自己支配の罠
 一般に、人が人を支配するのは良くない。しかし、人は往々にして、人に支配される前に、自分が「(いつわりの)自分」に支配されてしまう。
 清の時代の纏足の廃止運動も、被害者であったはずの女子が声をあげて始まったのではない。清の皇帝や、欧米系の婦人団体、儒教的知識人など「第三者」が纏足廃止運動を始めたことに注意。


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