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能楽「谷行」脚本の一例

最新の更新 2021年11月22日   最初の公開 2021年11月22日

[原文「谷行」とWaley版の脚本比較対照]も参照のこと。

子方 松若
前シテ 母
ワキ 帥阿闇梨(先達)
重ワキツレ 小先達
ワキツレ 同行山伏
後シテ 伎楽鬼神
  1. ワキ詞「是は今熊野梛の木の坊に。帥の阿闇梨と申す山伏にて候。さても某弟子を一人持ちて候ふが。かの者の父空しくなり。母ばかりに添ひて候。又某は近き間に峯入りを仕り候ふ程に。暇乞の為に唯今出京仕り候。いかに案内申し候。
  2. 子方「誰にて御入り候ふぞ。や。師匠の御出にて候ふよ。
  3. ワキ「いかに松若。何とて久しく寺へは上り給ひ候はぬぞ。
  4. 子方「さん候母御の風の心地にて候ふ程に参らず候。
  5. ワキ「言語道断。ゆめ/\さやうの事をも存ぜず候。まづ/\某が参りたる由御申し候へ。
  6. 子方「いかに申し候。師匠の御出にて候。
  7. シテ「此方へと申し候へ。
  8. 子方「御入り候へ。
  9. ワキ「久しく参らず候。又松若申され候ふは。風の心地の由承り候。いかさまに御座候ふぞ。
  10. シテ「風の心地は苦しからず候。御心安く思しめされ候へ。
  11. ワキ「偖はめでたう候。又近き間に峯入りを仕り候ふ程に。御暇乞の為に参りて候。
  12. シテ「げに/\峯入とやらんは。大事の行とこそ承りて候へ。偖松若も御供にて候ふか。
  13. ワキ「幼き者の供すべき道にてはなく候。
  14. シテ「扨はめでたうやがて御帰り候へ。
  15. ワキ「さらばやがて参らうずるにて候。
  16. 子方「いかに申すべき事の候。
  17. ワキ「何事にて候ふぞ。
  18. 子方「松若も峯入の御供申さうずるにて候。
  19. ワキ「いやいや唯今も母御に申し候ふ如く。此道は難行捨身の行体にて。思ひもよらぬ事にてあるぞ。其上母の風の心地を見捨つべきにあらず。かた/\思ひもよらぬ事。唯止り給へ。
  20. 子方「いや母の風の心地にて候へば。御祈のために参らうずるにて候。
  21. ワキ「さあらばこのよしを母御に申さうずるにて候。又参りて候。松若峯入の供せうずるよし申され候ふ間。母御の風の御心地といひ。難行捨身の道と申し。かたがた叶ふまじき由申して候へば。御祈のために供すべき由申され候。いかゞ候ふべき。
  22. シテ「仰承り候。まづは松若申す如く。峯入の御供申さん事こそ。最も望む所なれども。御身の父におくれし日より。唯独子のひたすらに。身に添ふ時だに見ぬひまは。露程だにも忘られず。思ふ心を思へかし。唯思ひとまり候へ。
  23. 子方「仰はさる御事にて候へども。身は難行の道に出でて。母の現世を祈らんと。思ひ立ちたるばかりなりと。
  24. 下歌地「かきくどきたる其景色。師匠も母ももろともに。あはれ孝行の。深きや涙なるらん。
  25. シテロンギ「此上なれば力なし。さらば師匠の御供して。とく/\帰り給へや。
  26. 子方「帰るさの。心をとめて出づる日も。やがて急ぐや足引の。大和路遠き思かな。
  27. シテ「思を尽す手向には。
  28. 子方「つゞりの袖も切るべきに。
  29. 地「別はさま/\の。行末知ればよそにのみ。見てや止みなん葛城や。高間の山の峯の雲。晴れぬは親の思子の名残惜しさをいかにせん。/\。
  30. 中入「。
  31. ワキ「かくて少童思のほか。峯入の姿山伏の。兜巾篠懸苔の衣。
  32. ワキツレ上歌「今日思ひ立つ道の辺の。/\。たよりぞ深き志。唯孝行の心力に。馬はあれども徒歩に行く。こは誰が為ぞ宇治の里。都出て。けふ瓶の原泉川。河風寒み千鳥鳴く声こそ今日の。夕なれ/\。ふりさけ見れば春日なる。/\。三笠の山をさし過ぎて。布留の神杉過ぎがてに。三輪の山もとよそに見て。誰我が庵と定めけん。峯の巌の苔衣。かたしき初むる葛城の露こそ宿なりけれ。/\。
  33. ワキ詞「急ぎ候ふ程に。これは早一の室に着きて候。暫くこれに在らうずるにて候。
  34. 重ツレ(小先達)「承り候。 子方「いかに申すべき事の候。
  35. ワキ「何事にて候ふぞ。
  36. 子方「道より風の心地にて候。
  37. ワキ「暫く。この道に出でてさやうの事をば申さぬ事にて候。それは習はぬ旅の疲にてあるべし。よく/\休み候へ。
  38. 重ツレ「松若殿道より風のこゝちの由承り候。先達に尋ね申さうずるにて候。
  39. ツレ「尤もにて候。
  40. 重ツレ「松若殿風の心地と承り候ふは。何と御座候ふぞ御心もとなく候。
  41. ワキ「さん候これはならはぬ旅の疲れにてありげに候。苦しからず候。
  42. 重ツレ「さては御心安く候。
  43. ツレ「いかにかた/\へ申し候。松若殿旅の疲の由仰せられ候ふが。以ての外に見え給ひて候。何とて大法の如く谷行に行ひ給ひ候はぬぞ。
  44. 重ツレ「げにげにこれは尤もにて候。さらば先達へ其由申さうずるにて候。如何に申し候。先に松若殿の御事を尋ね申して候へば。旅の疲と承り候ふが。今ははや以ての外に見えさせ給ひて候。憚り多き申し事にて候へども。昔よりの大法にて候へば。谷行に行ひ申さうずる由皆々申され候。
  45. ワキ「何と松若を谷行に行はれうずると候ふや。
  46. 重ツレ「さん候。
  47. ワキ「大法の事にて候ふ程に。是非をば申さず候さりながら。かの者の心中余りに不便に候へば。大法のよしを懇に申し聞かせうずるにて候。
  48. 重ツレ「尤もにて候。
  49. ワキ「いかに松若慥に聞け。此の道に出でてかやうに違例をする者をば。谷行とて忽ち命を失ふ事。これ昔よりの大法なり。御身に代るものならば。何か命の惜しからん。進退極まりて候。
  50. 子方「仰承り候。此道に出でて命を捨てん事こそ。最も望む所なれども。母の御歎の色。それこそ深き悲なれ。又仮初も他生の縁。皆人々に御名残こそ惜しう候へ。
  51. 地「何と言ひ遣る方もなく。皆声を上げ涙にむせぶ心ぞ哀れなる。
  52. 重ツレ地ツレサシ「かくて面々一同に。あはれ悲しき世の習。殊更これは大法の。冥見私なきまゝに。谷行にこそ行ひけれ。
  53. ワキ「先達も師弟の契の中なれば。何と言ひ遣る方もなく。唯くれ/\と目もあやなく。
  54. 地「泣く涙せかれぬ道なれば。身も諸共にともかくも。ならばやと思ふさへ。適はぬ事ぞ悲しき。悲の。至りて悲しきは。生別離の心なり。なか/\死別ならば。かほどの歎よもあらじ。
  55. クセ「一切有為の世の習。如夢幻泡影如露亦如電。応作如是観の心をも。思ひ知らずやさしもこの。行者の道には出でながら。火宅の門を去りやらで。猶安からぬ三界の。親子恩愛の。歎に等しかりけり。
  56. 重ツレ「かくて時刻も移るとて。
  57. 地「皆面々に思ひきり。邪見の剣身を砕く心をなしてかの人を。険しき谷に陥れ。上に被ふや石瓦。雨土くれを動かせる。心を痛め声を上げ。皆面々に泣き居たり。/\。
  58. 重ツレ詞「はや日のたけて候。急ぎ御立ちあらうずるにて候。
  59. ワキ「愚僧は罷り立つまじく候。
  60. 重ツレ「先達の御立なく候ひては。我々は何と仕り候ふべき。唯急いで御立ち候へ。
  61. ワキ「まづ案じても御覧候へ。われら都へ上り。かの者の母には何と申すべきぞ。所詮病気も歎も同じ事にて候へば。われらをも谷行に行ひ賜はり候へ。
  62. 重ツレ「御歎尤もにて候。いかにかた/\へ申し候。先達の仰せ候ふは。病気も歎も同じ事なれば。先達も谷行に行ひ申せと仰せ候。さて何と仕り候ふべき。
  63. ツレ「げに/\御歎尤もにて候。われわれ存じ候ふは。この年月の行徳もかやうの時にてこそ候へ。開山役の優婆塞。ならびに大聖不動明王の索にかけ。松若殿の御命を二度蘇生させ申さうずるにて候。
  64. 重ツレ「これは尤もにて候。いかに申し候。皆々申され候ふは。この年月の行徳もかやうの時にてこそ候へ。開山役の優婆塞。殊には大聖不動明王の索にかけ。松若殿の御命を蘇生させ申さうずるよし皆々申され候。
  65. ワキ「さやうの事こそ聞かまほしう候へ。われらもこれにて祈念申さうずるにて候。
  66. 重ツレツレ地「さても師匠の其歎。理過ぐるありさまを。見聞くも同じ心かな。
  67. ワキ「さりとも年月頼を掛くる。大聖不動明王の威力。
  68. 重ツレツレ地「又は山神護法善神。
  69. ワキ「殊には開山役の優婆塞。
  70. 重ツレツレ地「哀愍納受垂れ給ひ。
  71. 地「使者の鬼神伎楽伎女を。遣はし助けおはしませ。
  72. 早笛「。
    ※を参照
  73. 地「伎楽鬼神は飛び来り。伎楽鬼神は飛び来つて。行者のお前に跪ついて。頭を傾け仰を受けて。谷行に飛びかけつて。上に被へる土木盤石。押し倒し取り払つて。上なる土をばやはら/\と静かにかへしてかの小童を。恙もなく抱きあげ。行者のお前に参らすれば。行者は喜悦の色をなし。慈悲の御手に髪を撫で。善哉善哉孝行切なる。心を感ずるぞとて。帰らせ給へば伎楽も共に。御前を払つてさかしき道を。分けつ潜りつ上るや高間の雲霧つたふや葛城の。人の目にこそかゝらざれども。真は渡せる岩橋を。大峯かけて遥々と。虚空を渡つて失せにけり。
役行者の詞章があるバージョン。
役行者「苦修錬行の山路険しくして、衆生三毒の冥闇を照らし、積功累徳の床の上には、真如の月ほがらかにして、至らぬ隈もあるまじや。
 寂寞無人声、読誦此経典、我爾時為現、清浄光明身。
 いかに面々たしかに聞け。かの小童は他にことなる親孝行の人体なれば、すなはち命を助くるなり。心安かれ、人々よ。
ワキ「あら有難の御事や。扨々(さてさて)かやうに承るは、いかなる行者におはすらん。
役行者「行者と見るこそやがてそれよ。年ふりまさり老いたけて、鬢髭は雪、しもといふ(標結ふ)。


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