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沖縄の中国伝来音楽(明清楽資料庫)

2008-9-2 最新の更新2008-9-15

目次  ここでは「別伝の明清楽」と関連して、琉球王国に伝来した中国音楽について概説します。

○琴学
○御座楽 室内で演奏される管弦の雅楽
○路次楽 チャルメラや喇叭、太鼓を中心とする道楽(鼓吹楽)
○民謡化した中国伝来音楽

「琉球人行列彩色」1832年の「江戸上り」の様子を描いた浮世絵。
時の琉球国王は尚育王、将軍は徳川家斉、江戸上りの人数は98人。





【沖縄への中国音楽の伝来】
 琉球王府の最初の正史『中山世鑑』(1650)の記述によると、洪武二十五年(1392)、明の皇帝が福建閩人三十六姓を琉球に賜り、その時からこの人々によって明国の礼楽が琉球でも始められた、という(『中山世鑑』。井上書房 , 1962 、琉球史料叢書 / 伊波普猷, 東恩納寛惇, 横山重編纂。明大図書館・和泉書庫219/2//W )。
 鄭秉哲[等]編『球陽』(桑江克英訳註、三一書房、1971 、明大図・和泉書庫219/110//W )にも「更に閩人三十六姓を賜ひ、始めて音楽を節し礼法を制し、番俗を改変して文教同風の盛を致す。太祖、称して礼儀の邦と為す」とある。
 閩人三十六姓の集団は、唐栄(とうえい)と呼ばれ、那覇港近くの久米村(久米島とは別)に定住した。久米人は対中国の交易・外交の仕事にも従事し、王命を受けて中国と往来し、中国の文化を琉球にもたらし、王府の男子に中国音楽を教授したりした。
 その後も、琉球から中国(明・清)へ派遣させた進貢使節団や、琉球から中国に留学のため派遣された官生、また中国から琉球を訪れた冊封使などによって、中国音楽が琉球にもたらされた。中国から派遣された冊封使は、毎回、一編成25〜26名ていどの音楽隊を伴い、那覇港で下船して首里王城までの道のりを路次楽を演奏しながら行列した。沖縄県立博物館蔵「冊封使行列図」(県有形文化財)は、 18世紀半ばの作品で、縦25センチメートル余、長さ22・4メートル余の巻物で、作者は不詳だが、冊封使一行ら600人余の人物、馬などが生き生きと描写されている。


【定着しなかった琴学】
 『中山紀略』(張学礼 [著] ; 原田禹雄訳註。宜野湾 : 榕樹書林 , 1998.7 。明治大学図書館・中央書庫 219.9/210//H)によると、1663年、琉球の尚質王(在位1648-1668)の冊封使・張学礼が来琉したとき、従客の陳翼が琉球の王族に琴曲を伝授した。「姑蘇の陳翼、字は友石、多才多藝なり。王、持帖して世子等三人に琴を授くるを請ふ。(中略)世子に思賢操の平沙、落雁、関雎の三曲を授け、王婿に秋鴻、漁樵、高山の三曲を授け、法司の子に流水、洞天、塗山の三曲を授く」とある(那覇市市民文化部歴史資料室編『冊封使録関係資料』51頁,1977年。明治大学中央書庫219.9/30//H)。
 しかし琴学は沖縄に定着しなかったようである。1719年の冊封使で来琉した徐葆光の『中山伝信録』(原田禹雄訳注,1999。明治大学中央書庫291.99/113//H)巻六には、琉球の楽器は中国とだいたい同じであることや、琉球の曲目と演奏法について述べたあと、琉球における琴曲の伝承状況について「いま已に伝を失す。国中琴なく、但し琴譜あり。国王、那覇官毛光弼を従客福州の陳利州の処に遣はして、琴を学ばしむ。三、四ケ月に数曲を習ふ」とあり、琴の伝統を復興しようと努力していたことがわかる(『冊封使録関係資料』92頁「中山伝信録」巻六も同じ)。ただし、この後も琴学はやはり定着しなかった。
 ちなみに日本本土では、明末の亡命僧・東皐心越によってもたらされた琴学の道統は、昭和初期まで、連綿と約250年にわたって続いた。琉球の士人階層の人数は、琴学を継続的に伝承するには、規模の大きさや層の厚さが足りなかったのかもしれない。


【琉球使節団の江戸上り】
1832年、江戸の薩摩屋敷で上演された中国演劇。
詳しくはこちら
 御座楽は琉球王府において、正月や冊封儀式、王家男子の元服祝いの席などの場で演奏されていた。1609年以降、琉球が薩摩藩の支配を受けるようになってからは、「江戸上り」の折に薩摩屋敷や江戸将軍の御前でも演奏されるようになった。江戸上りとは、琉球王府が江戸に使節団を送ることで、将軍の代替わりを祝うための「慶賀使」と、琉球国王の世継ぎを承認してもらったことに謝意を示すための「謝恩使」とがあった。1634年から1850年まで、計18回の江戸上りがあった。使節団の人数は、琉球側から100人(慶賀使と謝恩使が重なるときは200人)、薩摩側から500人にも及ぶ役人が加わり、路次楽隊を先頭にした大行列で江戸に上った。
 「江戸上り」使節に加わった御座楽の演奏者は「楽童子」(がくどうじ)と呼ばれ、琉球王府の高官たちの子弟で、元服前の男児たちであった。彼らエリートの子弟は、楽師(がくし)から楽曲の演奏・歌唱や中国演劇の演技を仕込まれ、それらを江戸の薩摩屋敷においても披露した。
 琉球の首里城にあった資料は第二次世界大戦の戦火によって灰燼に帰してしまったが、江戸城における琉球使節団の上演記録については、徳川幕府が編纂した外交史料集成『通航一覧』など幕府側の記録に、楽器名、演奏者名、楽曲名、歌詞などが詳細に残されている(残念ながら楽譜は記録されていない)。江戸上りで演奏された御座楽曲は、約70曲に及ぶ。


【楽と唱曲】
 江戸上りにおいて御座楽が演奏されたのは、承応2年(1653)の第四回から嘉永3年(1850)の最後の江戸上りまでの15回であった。約200年のあいだに演奏された70曲余の楽曲を分類すると、器楽曲である「楽」が約10曲、歌をともなう「唱曲」が60曲余であった。唱曲は、時代によっては「明曲」と「清曲」に区分されて演奏されることもあり、「歌楽」と呼ばれて演奏されることもあった。器楽曲である「楽」が荘重で厳かな曲想をもつのに対して、歌をともなう「唱曲」は恋愛や庶民的な題材の歌詞が多く、中国に渡った琉球人が流行歌などを持ち帰って演奏したのではないかと推定される。
 江戸上りの使節団は、一度に18点から20点の楽器を持参した。が、実際の演奏では、江戸上りに参加できる演奏者の人数に制限があったため、それらの楽器を同時に全部使ってオーケストラ風に演奏するのではなく、「琵琶と長線と歌」あるいは「揚(洋)琴と三絃と琵琶と洞簫」というふうに少数の楽器を使って小アンサンブルで演奏したようである。「楽」の曲は、横笛2本とチャルメラと打楽器──三金(韻鑼)、三板、両板、鼓、新心、銅鑼──が加わる、という楽器編成であった。


【幻となった宮廷音楽】
 琉球王国は1872年に琉球藩となり、1879年には沖縄県となった。琉球王国が消滅すると、御座楽も演奏の場を失い、その一部は久米村で継承されていたものの、時とともに忘れ去られた。
 歌曲の資料 上述のとおり歌詞は幕府側の記録に残っているが、旋律は全く散佚した。1913年、山内盛彬(1890-1986)が久米人によって伝承されていた「太平歌」の旋律を聞き取って五線譜で記録したのが、唯一の楽譜資料である。
 楽曲のタイトルや歌詞から、中国大陸に残っている古曲と照合する研究調査も行われている。
 楽器の資料 江戸上りの使節団が、琉球への帰路に献上したと思われる御座楽楽器一式(18〜20種)が、名古屋(旧尾張)の徳川博物館(1798年の記録あり)と、水戸徳川家(年代未詳)に保管されている。これらの現物の楽器は、実際に演奏可能な実用楽器であるのか、それとも、献上用の美術品として作られた非実用楽器であるのか、など、いろいろな謎が残っており、今後の調査が待たれる。
 平成4年(1992)、首里城が復元されたのを機会に、翌平成5年(1993)から沖縄県で「幻の宮廷音楽」となっていた御座楽を復元する事業が始まった。「御座楽復元演奏研究会」が中心となり、論文集や、現存する資料をもとに楽曲を復元したCDなども刊行されている。


【民謡化して生き残った音楽】
──路次楽、伊集の打花鼓、安里屋ユンタ、など

佐々木隆爾氏の論文(2002)p.15の「譜例3」および本文。

[この工尺譜をMIDIで聴く]
上掲論文において、佐々木氏が五線譜化した「當能工尺譜」(譜例4)をもとに、
加藤が一部を改変したうえでMIDI化したもの。



 沖縄に伝来した中国音楽のうち、都市部の支配階層がになったものは、琉球王国の消滅とともに、ほとんど跡形なく消滅した。
 琉球が沖縄県として日本に併合されたあと、日本政府は沖縄を支配する正統性を主張するため、琉球王国時代の中国色を払拭しようとした。 そのような微妙な日中関係もあって、沖縄における中国伝来音楽は、姿を消した。
 いっぽう、農村部に入った中国伝来音楽は、沖縄の現地の音楽と融合しつつ、したたかに生き残った。
 路次楽は、現在でも沖縄県今帰仁村(なきじんそん)の湧川(わくかわ)などで伝承されている。
 中国劇「打花鼓」は、沖縄県中城村(なかぐすくそん)の「
伊集の打花鼓(いじゅのターファークー)」として伝承されている。
 その他、沖縄民謡には、中国伝来音楽の「DNA」を受け継ぐものもある。
 佐々木隆爾氏の説によれば、八重山民謡「安里屋ユンタ」は、八重山の役人層が清楽を参考にして「安里屋節」を改作したものであるという。
 以下、佐々木氏の論文「民謡はどのように歴史の記憶を凝縮するか--八重山民謡「安里屋ユンタ」を事例として」(2002)p.14〜16より引用する。
「筆者は数年にわたって中国的曲調が八重山民謡に導入される経路について追求してきたが、ようやく昨二〇〇一(平成一三)年にいたって極めて示唆的な資料に行き当たった。 それは工尺譜で書かれた楽譜であり、一頁(楽譜のみ六行)からなるものである(譜例3参照。)。 いずれも新本(あらもと)家文書中に収録されているもので、全く同一内容のものが五か所に筆写されている」
(中略)
「いずれにしても、これらの写本から読み取れることは、官話の練習と工尺譜を用いた清楽の練習とは一体のものであり、 官話の不可分の要素として重視されていたことである。」
(中略)
「この事実は、新本仁屋當能自身が魅力的な曲調を創出する手法として清楽を活用し、そのために人一倍の工夫をこらしていたことを示している。 ここに清楽的曲調が農村へ流入する明白なルートが見出されるのである。」
(以上、引用終わり)



【参考資料】


関連項目 
茉莉花(明清楽資料庫)
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