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男がほれる男の条件 中国編

2004年2月12日執筆

 本頁は、月刊『歴史街道』2004年5月号(PHP研究所)に掲載された特集「男がほれる男の条件 ◎中国編」の加藤徹執筆ぶんをアップしたものです。
 アップにあたり、原載誌のルビは大幅に、写真は全部割愛しました。






諸葛孔明 しょかつこうめい 三国時代 一八一ー二三四

劉備を魅了した
「士大夫」の才気

「三顧の礼」で諸葛孔明を迎えた劉備は、「士大夫」としての才気に圧倒された。
二十歳も年下の孔明の虜になったのである。
そのうえ敵将をも感動させた、孔明の類稀な才覚とは。


Kato Toru◎広島大学助教授
加藤 徹

自分に無い力を見いだして

 「赤壁の戦い」の十カ月前。荊州の片田舎では、ある知識青年のことが噂になっていた。
「姓は諸葛、名は亮(明るい)、字は孔明(はなはだ明るい)。自分は名前のとおり聡明で、いにしえの名宰相・管仲の行政能力と名将・楽毅の軍事的天才をあわせもつと、うそぶいてるそうだ」
「身長は八尺(一八四センチ)もある偉丈夫で、草葺の粗末な小屋に住み、いつも『梁父吟』の詩を口ずさみながら、晴耕雨読の生活を送っている。きっと将来、大人物になるだろう」
「あえて隠者をきどって片田舎にひきこんでいるのは、自分を高く売りこみたいからだ。野心家にちがいない。現に、以前、諸葛孔明の学友が『ぼくの故郷は中原(首都がある先進地域)だ。帰りたいなあ』と言ったとき、彼は『都会には、俺たちみたいな士大夫があり余ってる。お楽しみは故郷だけとは限るまいよ』と止めたそうだ」
 士大夫とは、官僚や役人として社会の実務を担うエリート知識人階級をさす呼称である。
 そのころ、劉備は、荊州の劉表の客将として「髀肉の嘆」をかこっていた。諸葛孔明の学友であった徐庶は、劉備に
「諸葛孔明という男は、臥龍(雄飛にそなえて雌伏しているドラゴン)です。会ってみませんか」
 と推薦した。劉備が
「では、ここへ連れてきてくれ」
 と頼むと、徐庶は言った。
「孔明を連れてくることはできません。彼は、将軍みずから出向かねば、会わぬでしょう」
 四十七歳の劉備は、いまだ領土を持たぬ不遇の客将とはいえ、曹操も一目置く天下の英雄である。その劉備に、二十歳も年下の無名の一青年のもとに出向け、という。
 劉備は、自ら孔明の寓居に足を運んだ。しかも三回。そして三度目に、ようやく孔明に会うことができた。
 劉備の「三顧の礼」に感激した孔明は、劉備が今後とるべき戦略を、理路整然と説いた。劉備は、目から鱗が落ちた思いだった。
 二十七歳の孔明は、「士大夫」としての才気と大志をもっていた。士大夫は、理論的な「形式知」を得意とし、儒教道徳をたっとぶ。
 四十七歳の劉備は、傭兵軍団のリーダーだった。当時「兵子」(へいす)という蔑称で呼ばれ社会の下層民とされていた傭兵は、実戦的な「暗黙知」を得意とし、「侠」の精神をたっとぶ。
 二十七歳の「士」(おとこ)と四十七歳の「侠」(おとこ)は、お互いの中に自分に無い力を見いだし、魅かれあった。
 孔明は出仕し、劉備軍団のスタッフとなった。劉備と孔明の情は、リーダーとスタッフの主従関係を超え、日に密となっていった。劉備軍団のラインリーダーで、劉備と「侠」の精神で結びついていた関羽と張飛は、面白くない顔をした。劉備が、
「わたしにとっての孔明は、魚にとっての水のようなものだ」(「水魚の交わり」)
 と弁解したので、関羽と張羽はやっと納得した。

劉備が天下をとれた理由

 中国の政治と文化を三千年にわたって支えつづけたのは、士大夫と呼ばれる中間支配階級である。この士大夫階級の支持を得られるか否かが、天下取りの分かれ目になった。
 「三国志」でも、董卓や呂布は、軍事的には強かったのに、士大夫階級が支持しなかったために天下を取れなかった。
 宦官を祖父にもつ曹操は、士大夫階級の仲間に入れてもらうため一生涙ぐましい努力をはらった(若き日の曹操は、許劭(きょしょう)に自分の「月旦評」を強要し、士大夫階級の社交界へ強引にデビューした。また、彼自身が詩作に入れこんだのも、彼自身は生涯ついに帝位につかなかったのも、士大夫階級の支持を得るためのパフォーマンスだった)。しかし結局、曹操は、孔融や筍ケの最期が象徴するように、士大夫階級を心服させられなかった。曹操の死後、彼の子孫が、エリート士大夫である司馬氏(孔明のライバルだった司馬仲達の一族)によってあっさりと滅ぼされたのも、そのせいである。
 劉備も、「赤壁の戦い」のあとは、君主として士大夫階級との関係に苦心した。しかし、諸葛孔明との「水魚の交わり」は終生変わらなかった。
 劉備は、後世の「蜀漢正統論」により当時唯一の正統な皇帝と認定され、死後、数百年にして天下を取ることができた。劉備が庶民派でありながら士大夫と良好な関係を維持したことが、今日でも彼の人気が高い一因となっている。

敵将をも魅了した男

 劉備も諸葛孔明も、ある意味で頑固な男だった。劉備は死ぬまで「侠」の傭兵精神をつらぬいたし、孔明は士大夫として「士」の美学を全うした。
 「三国志」の後半。関羽が呉に敗れて戦死したあと、蜀漢の皇帝・劉備は復讐の鬼と化し、臣下の反対を押し切って呉に侵攻した。これは「呉と結んで魏にあたる」という蜀の国策に反する、劉備の「私怨」の戦争だった。しかし結果は大敗。白帝城で死の床についた劉備は、成都から丞相の諸葛孔明を呼びよせ、遺言を伝えた。
「君の才は曹丕(曹操の息子で、当時の魏の皇帝)に十倍す。必ずや能く国を安んじ、ついに大事を定めん。もし嗣子、輔くべくんば、これを輔けよ。もしそれ不才ならば、君みずから取るべし(もし、わたしの息子・劉禅が不才であるなら、君がみずから息子にかわって皇帝となり、国をささえてくれ)」
 古来、この遺言は、歴代の史家から囂々たる非難を受けてきた。曰く「劉備の遺言はとんでもない乱命で、内乱の火種になりかねぬ軽はずみな言動だ」。曰く「劉備の遺言は権謀術数だ。孔明が劉禅の地位を奪えぬよう、先手を打ってわざと美談をしたてあげたのだ」。曰く「劉備は実は孔明にたいして不信感をいだいていた。この遺言がその証拠だ」。・・・・・・
 筆者が思うに、劉備の遺言は、乱命でも権謀術数でもない。真情そのものである。劉備も人の親。当時十六歳の劉禅の行く末が、気がかりでならなかったろう。だからこそ劉備は、傭兵社会の鉄の不文律「生き残りのために実力ある者をリーダーに」を遺言としたのだ。
 しかし、諸葛孔明もまた劉備に劣らぬ頑固者だった。彼は劉備の遺言をきかず、士大夫の臣節を全うした。名君とはよべぬ劉禅に忠誠をつくし、五丈原で陣没した。
 孔明は、良くも悪しくも、士大夫の典範であった。彼は馬謖を重用して失敗し「泣いて馬謖を斬る」はめになった。暗黙知に弱く「応変の将略」に乏しいという士大夫の弱さである。いっぽう、孔明は千古の名文「出師の表」を書いて大義を天下に示し、後世の蜀漢正統論への道を準備した。これは、士大夫としてのリテラシー能力の面目躍如たるところである。
 孔明がつらぬいた士大夫の美学は、敵国をも感動させた。
 孔明の死後、蜀軍陣地跡を視察し、彼を「天下の奇才」と絶賛したライバルの司馬仲達は「隠れ孔明ファン」だった。仲達の孫で晋の皇帝となった司馬炎も、隠れ孔明ファンで、蜀の陳寿が編んだ『諸葛氏集』(諸葛孔明の遺文集)を愛読した。司馬炎は、旧敵国人だった陳寿の文才を評価し、彼を正史『三国志』の編纂者に抜擢して、世間を驚かせた。
 諸葛孔明は、あの劉備だけでなく、敵国や後世の人たちをも魅了する器の男だった。





COLUMN
まだまだいる
忘れられないこの五人

Kato Toru
加藤 徹

重耳(ちょうじ) 前六九七頃ー六二八
律儀さが拓(ひら)いた道

 晋の文公は、秦の始皇帝以前の中国史上で最大の覇者。「文公」は死後のおくりなで、生前の名は重耳である。彼は、V字型の波乱に富んだ人生を送った。
 重耳は長男ではなかったので、本来ならヒラの公子として、可もなく不可もない一生を終えるはずだった。だが、老齢の父・献公が、うら若い驪姫(りき)(一説にチベット系の美女)の色香に迷ったことで、重耳の人生は暗転する。晋の「お家騒動」で命が危なくなった重耳は、四十三歳で外国に亡命。以後、十九年の長きにわたり諸国を流浪した。平均寿命が短かった当時、すでに初老にさしかかった亡命公子が祖国に返り咲ける見込みは薄かった。しかし、咎犯・趙衰・介子推らの家臣たちは重耳の器量に惚れこみ、苦難の亡命生活をともにした。
 重耳は六十二歳で祖国に復帰し、君主となった。そして死ぬまでの在位九年間に、巧みな戦争と外交を行い、晋を天下の最強国にした。ちなみに「三舎を避ける」という成語は、覇者となった彼が戦場で楚軍と対峙したとき、亡命中に楚王から受けた恩にむくいるため自軍を三舎(三十六キロ)撤退させた故事にもとづく。恩讐にきちんと報いる律儀さが、重耳の魅力であった。

韓非子(かんぴし) 前二八〇頃ー二三三
始皇帝を驚嘆させた思想家

 「諸子百家」と総称される古代中国の思想家たちのなかでも、文章の巧みさで韓非の右に出る者はいまい。「人間の本性は悪である。厳しい法律による君主独裁こそ理想の国家体制である」と主張する彼の著書『韓非子』(子は「先生」という尊称)は、「矛盾」「株を守る」「逆鱗に触れる」など故事成語の宝庫でもある。
 韓非は、戦国時代の小国・韓の王族の一人であった。が、彼は吃音者であったため、韓王に用いられることもなく不遇だった。韓は、韓非の思想を生かすには小国すぎたのだ。  韓非の真価を認めたのは、皮肉にも、敵国の君主・秦王政(のちの始皇帝)であった。韓非の著作を読んだ秦王政は「ああ、余はこの人と会って交流できたら、死んでもいい!」と賛嘆した。だが、韓と秦は敵国。もし秦王政が韓非を公式に招聘すれば、韓王は警戒して韓非を出国させぬであろう。秦王政は一計を案じ、軍隊を動員して韓を攻めた。果たして、韓王は初めて韓非を用い、外交官として秦に送ってきた。
 韓非の学友で当時すでに秦王政の大臣となっていた李斯は、韓非の才能に嫉妬と恐れをいだき、秦王政に「韓非は韓の公子です。秦のために働くはずがありません」と中傷した。韓非は、秦の獄につながれた。李斯は「同門のよしみ」で獄中の韓非に毒薬を送り、自決をすすめた。のちに秦王政が後悔し、韓非を赦そうとしたとき、韓非はすでに死んでいた。
 秦王政は『韓非子』を教科書として政治を行い、富国強兵に成功した。そして十年後、韓非の祖国を含む六国を滅ぼし、天下統一の覇業を達成。秦王政は「始皇帝」となった。
 死後はじめてその真価を認められる著述家は、悲運である。だが韓非の場合、存命中に敵国の君主に惚れこまれたせいで、無念の最期をとげた。歴史の皮肉と言うべきか。

岳飛(がくひ) 一一〇三ー四一
文武両道の救国英雄

 岳飛は、中国史上、関羽と並んで最も敬愛されている武人である。
 もともと宋の農民だった岳飛は、十九歳で義勇軍に参加して以来、国内の反乱軍や、南下してきた金(満州人の国)の侵略軍と戦い、頭角を現した。金軍に連敗していた宋軍のなかで、岳飛が率いる「岳家軍」だけは勇戦し、宋の皇帝から「精忠岳飛」と手書した軍旗を下賜された。金軍も「山を撼かすは易く、岳家軍を撼かすは難し」と言って、敵ながら敬服した。
 岳飛は熱烈な愛国詩人で、書道家としても一流だった。憂国の情を詠んだ彼の詩は人民に愛誦された。岳飛が死の三年前、武侯祠(諸葛孔明をまつる神社)に参詣し、孔明の「出師の表」を涙ながらに一気呵成に筆写した書は、墨痕淋漓として今も見る人の魂を打つ。
 前線の岳飛軍は勇戦したが、後方の文官は腐敗していた。あるとき「いつになったら平和がくるのでしょう」と人から問われた岳飛は、「文臣、銭を愛せず、武臣、死を惜しまずんば、天下太平ならん」と答えた。
 宋の文臣・秦檜は、岳飛の声望の高さを恐れ、彼に無実の罪を着せて処刑し、金と国辱的な講和を結んだ。岳飛が殺されたとき、服をぬがせると、背中に「尽忠報国」の四字が入墨してあった。
 数十年後、岳飛は宋の朝廷によって名誉回復され、救国の英雄として尊崇された。杭州の西湖のほとりにある岳王廟(岳飛をまつった神社)には、今も線香の煙が絶えない。

和珅(わしん) 一七五〇頃ー九九
乾隆帝との怪しげな関係

 清朝最盛期の皇帝・乾隆帝と和珅の怪しい関係は、日本人の想像を絶する。もし、元禄時代の徳川綱吉と柳沢吉保の関係を一千倍スケールアップすれば、やや近いかもしれない。
 和珅は満州族の旗人(日本の旗本にあたる)の家に生まれた。幼少のとき両親が亡くなり、困窮のうちに苦学し、長じて皇帝の侍衛(警護官)となった。色白の美男子で弁舌もさわやかだった和珅は、乾隆帝に惚れこまれ、異例のスピードで出世を重ねて大臣となり、権勢をほしいままにした。官民はきそって和珅に賄賂やつけとどけを贈った。なぜ乾隆帝があれほど和珅をかわいがったのか、真相は歴史の謎である。
 乾隆帝は七十歳のとき、六歳の皇女を和珅の息子と婚約させ、自分の死後も和珅の地位が安泰であるよう配慮した。しかし、乾隆帝が八十九歳で亡くなると、息子の嘉慶帝はすぐに和珅を逮捕し、収賄や専横など二十の罪状をあげつらって彼を処刑した。二十数年にわたる蓄財によって膨れあがっていた和珅の家産は、すべて没収されたが、その総額は十億両を越えていた。これは清朝の国家歳入の十数年ぶんにあたる天文学的数字だった。民衆は「和珅跌倒、嘉慶喫飽」(和珅がこけて嘉慶帝は満腹)と脚韻をふんだ言葉をつくり、腐敗した世相を風刺した。

孫文 (そんぶん) 一八六六ー一九二五
宮崎滔天を筆談で虜にした男

 近代中国の「国父」として、中国共産党・国民党の双方から尊崇されている孫文は、清末の広東省の農村に生まれた。少年時代にハワイと香港で苦学して英語を学び、その後、西洋医学を専攻した。清末の知識人としては異例の教育を受けた孫文は、青春期から中国の後進性を憂い、革命運動に身を投じた。しかし、中国本土での蜂起は失敗の連続だった。孫文は、何度も海外への亡命を余儀なくされた。
 一八九七年、日本の壮士・宮崎滔天は、横浜で初めて孫文に会ったが、初対面の印象は最悪だった。身長五尺八寸(一七四センチ)の滔天の目からみると、五尺二寸そこそこの孫文は、頭髪をなでつけ洋服をきこんだアメリカかぶれの小男にしか見えなかったのだ。しかし滔天は、孫文と漢文で筆談するうちに、すっかり孫文に惚れこんだ。孫文の「共和制こそ中国古来の政治の神髄であり、中国革命はアジアの黄色人種の解放でもある」という信念は、宮崎滔天・梅屋庄吉・犬養毅・南方熊楠など多くの日本人の心を動かした。
 孫文は海外の友人たちの援助を受け、革命運動を続けた。一九一二年、アジア最初の共和国である中華民国が成立。孫文は臨時大総統(大統領)の地位についた。が、革命成就への道はまだ険しかった。
 孫文は死ぬ三ヶ月前、神戸で「大アジア主義」の演説を行った。「日本は、西洋覇道の猟犬となるのか、東洋王道の干城となるのか。日本人はいまこそ慎重に選択するべきである」という孫文の演説は、日本人に対する遺言であり、今も噛みしめるべきであろう。




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