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 お経の書類箱
Letter Trays for Sutras

最新の更新2026年3月29日  最初の公開2020-12-25
ここは自分の備忘用に、気になった経文のメモを記録しておく場所です。
将来的には、それぞれの経文の言葉を、独立したページとして公開する可能性もあります。
2023年5月25日 加藤徹




開経偈 かいきょうげ
お経を読誦する前に読む七言四句の偈。作者不明。則天武后が作ったという説もあるが真偽は不明。
中国のネット事典『百度百科』の“开经偈”の項 https://baike.baidu.com/item/开经偈/2446048 によると、 明の時代の『嘆世無為巻』を出所とする。
ところが、日本の『新纂 浄土宗大辞典』の「開経偈」の項 http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/開経偈 を見ると
その典拠は不明であるが、源信の『読経用心』や省悟の『律苑事規』(一三二四)、 『大通禅師語録』(一四二五)や、浄土宗の文献では『日用念誦』『浄業課誦付録』などにみることができる。
云々とあり、中国よりも前に日本の書物には開経偈が掲載されていたことになる。

 開経偈 かいきょうげ
無上甚深微妙法
百千万劫難遭遇
我今見聞得受持
願解如来真実義
む じょう じん じん み みょう ほう
ひゃく せん まん ごう なん そう ぐう
が こん けん もん とく じゅ じ
がん げ にょ らい しん じつ ぎ
mu jou jin jin mi myou hou
hyaku sen man gou nan sou guu
ga kon ken mon toku ju ji
gan ge nyo rai shi jitsu gi

【漢文訓読】無上甚深微妙の法は、百千万劫も遭遇すること難し。我、今、見聞し受持することを得。願はくは如来の真実義を解せん。
ムジョウジンジンミミョウのホウは、ヒャクセンマンゴウもソウグウすることカタし。ワレ、イマ、ケンモンしジュジすることをウ。 ネガわくはニョライのシンジツギをゲせん。
【暫定訳】この上もなく深き法 未来永劫遭い難し 我幸いに今出会う 学ばん如来の真実義

【英訳】 English Translation quoted from
https://glasgowzengroup.com/wp-content/uploads/2020/04/Kaikyouge-Glasgow-Zen-Group.pdf
QUOTE
Translation: unsurpassed, profound, wondrous Dharma (gassho and bow) is rarely encountered, even in a hundred, thousand, million kalpas now that we see and hear it, pick it up, accept and uphold it, may we unfold the truth of the Tath?gata's teachings
UNQUOTE

Another translation quoted from the explanation of
Jyozen Anjyu's YouTube video
https://www.youtube.com/watch?v=7FXNtQK9ZI0
QUOTE
The unsurpassed, profound, and wondrous dharma is rarely met with, even in a hundred, thousand, million kalpas.
Now we can see and hear it, accept and maintain it. May we unfold the meaning of the Tathagata's truth.
UNQUOTE

【和音つき】

https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lciylhV0olrmE7JI0RdUJ1

Im 無上甚深微妙法  #I7 百千万劫難遭遇
Im 我今見聞得受持  ♭VII 願解如来♭VI 真実義
Im この上もなく深き法  #I7 未来永劫あいがたし
Im われ幸いに今出あう ♭VII まなばん如来の ♭VI 真実義

楽譜(2024年9月7日版)

【自分の備忘用です】
楽譜「開経偈」2024年9月7日版https://t.co/iXxWGOGxGC pic.twitter.com/uZCsIuorhm

— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) September 7, 2024

以前の楽譜

【開経偈】楽譜 (一部変更)
この上もなく深き法 未来永劫 遭いがたし
我 幸いに 今 出会う 学ばん 如来の真実義
無上深甚微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義 pic.twitter.com/5TM5kBhlpW

— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) August 11, 2024



懺悔偈/懺悔文 さんげげ/さんげもん
「懺悔」は、キリスト教では「ざんげ」と読むが、仏教では「さんげ」と読む。懺悔偈は、曹洞宗では「懺悔文」と呼ぶ。日本語は難しい。
人間の罪を仏の前に懺悔するためにとなえる偈。出典は『四十華厳』(大正大蔵経10「293 大方広仏華厳経巻第四十」p.847上)の長い偈から抽出したもの。

楽譜(メロディーとコードは加藤徹です。2024年9月14日版)

【自分の備忘用です】 懺悔文 / 懺悔偈 楽譜(2024年9月14日版)https://t.co/4M6xTOMfVw

我が積みたる悪業の
理由はすべて貪瞋癡
身・口・心を慎みて
いま一切を懺悔せん

我昔所造諸悪業
皆由無始貪瞋癡
従身語意之所生
一切我今皆懺悔 pic.twitter.com/e0o29i7Uth

— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) September 14, 2024

https://katotoru1963.livedoor.blog/archives/25730610.htmlにも楽譜。

我昔所造諸悪業
皆由無始貪瞋癡
従身語意之所生
一切我今皆懺悔
が しゃく しょ ぞう しょ あく ごう
かい ゆう む し とん じん ち
じゅう しん ご い し しょ しょう
いっ さい が こん かい さん げ
ga shaku sho zou sho aku gou
kai yuu mu shi ton jin chi
juu shin go i shi sho shou
it sai ga kon kai san ge

【漢文訓読】我、昔より造る所の諸〻の悪業は
皆、無始の貪瞋癡に由る
身語意より生ずる所なり
一切、我、今、皆、懺悔す
ワレ、ムカシよりツクるトコロのモロモロのアクゴウは
ミナ、ムシのトンジンチにヨる
シンゴイよりショウずるトコロなり
イッサイ、ワレ、イマ、ミナ、サンゲす




日本加藤徹謹訳

★南伝『経集』 Sutta Nipāta 日本加藤徹謹訳
漢訳の『
『義足経』「老少倶死経」』に相当。昔の漢訳がピンと来ないので(ごめんなさい)加藤が自分用に漢訳しなおしました。 おまけ
参考資料 パーリ語原文
https://komyojikyozo.web.fc2.com/kn/kn05/kn05c44.htmに、パーリ語の原文と、単語ごとの文法と意味の解説が載っている。ただし偈の番号については、通行本の「804」を、このサイトでは「810」になっているなど、ズレがある。

以下、https://obo.genaud.net/dhamma-vinaya/pali/kd/snp/kd.snp.pali.bd.htm#IV.6より引用。閲覧日2023年8月13日
6. Jarā Suttaṃ

804. Appaṃ vata jīvitaṃ idaṃ||
Oraṃ vasassatā pi miyati,||
Yo ce pi aticca jīvati,||
Atha kho so jarasā pi miyati.|| ||

805. Socanti janā mamāyite,||
Na hi santā niccā pariggahā,||
Vinābhāvasantam ev'idaṃ||
Iti disvā nāgāram āvase.|| ||

806. Maraṇena pi taṃ pahīyati,||
Yaṃ puriso 'mama-y-idan' ti maññati,||
Evaṃ pi viditvā paṇḍito||
Na mamattāya nametha māmako.|| ||

807. Supinena yathā pi saṅgataṃ||
PaṭiBuddho puriso na passati,||
[159] Evam pi piyāyitaṃ janaṃ||
Petaṃ kāla-kataṃ na passati.|| ||

808. Diṭṭhā pi sutā pi te janā,||
Yesaṃ nāmam idaṃ pavuccati,||
Nāmam evāvasissati||
Akkheyyaṃ petassa janatuno.|| ||

809. Sokaparideva-maccharaṃ||
Na jahanti giddhā mamāyite,||
Tasmā munayo pariggahaṃ||
Hitvā acariṃsu khemadassino.|| ||

810. Patilinavarassa bhikkhuno||
Bhajamānassa vivittamānasaṃ,||
Sāmaggiyam āhu tassa taṃ||
Yo attāṇaṃ bhavane na dassaye.|| ||

811. Sabbattha muni anissito||
Na piyaṃ kubbati no pi appiyaṃ,||
Tasmiṃ paradeva-maccharaṃ||
Paṇṇe vāri yathā na lippati.|| ||

812. Udabindu yathā pi pokkhare||
Padume vāri yathā na lippati,||
Evaṃ muni nōpalippati||
Yad idaṃ diṭṭhasutaṃ mutesu vā|| ||

[160] 813. Dhono na hi tena maññati||
Yad idaṃ diṭṭhasutaṃ mutesu vā,||
Nā aññena visuddhim icchati:||
Na hi so rajjati no virajjati ti.|| ||

参考資料 V. Fausbøll(1821−1908)による英訳。https://obo.genaud.net/dhamma-vinaya/sbe/kd/snp/kd.snp.faus.sbe.htm#IV.6より引用。閲覧日2023年8月13日
Garāsutta
From selfishness come grief and avarice; The Bhikkhu who has turned away frorn the world and wanders about houseless, is independent, and does not wish for purification through another.
1. [804] Short indeed is this life, within a hundred years one dies, and if any one lives longer, then he dies of old age.

2. [805] People grieve from selfishness, perpetual cares kill them, this (world) is full of disappointment; seeing this, let one not live in a house.

3. [806] That even of which a man thinks 'this is mine' is left behind by death: knowing this, let not the wise (man) turn himself to worldliness (while being my) follower.

4. [807] As a man awakened does not see what he has met with in his sleep, so also he does not see the beloved person that has passed away and is dead.

5. [808] Both seen and heard are the persons whose particular name is mentioned, but only the name [155] remains undecayed of the person that has passed away.

6. [809] The greedy in their selfishness do not leave sorrow, lamentation, and avarice; therefore the Munis leaving greediness wandered about seeing security (i.e. Nibbāna).

7. [810] For a Bhikkhu, who wanders about unattached and cultivates the mind of a recluse, they say it is proper that he does not show himself (again) in existence.

8. [811] Under all circumstances the independent Muni does not please nor displease (any one); sorrow and avarice do not stick to him (as little) as water to a leaf.

9. [812] As a drop of water does not stick to a lotus, as water does not stick to a lotus, so a Muni does not cling to anything, namely, to what is seen or heard or thought.

10. [813] He who has shaken off (sin) does not therefore think (much of anything) because it has been seen or heard or thought; he does not wish for [156] purification through another, for he is not pleased nor displeased (with anything).



★南伝「跋地羅帝偈」 (日日是好日偈) Bhaddekaratta gāthā 日本加藤徹謹訳
過去を追わざれ、未来を願わざれ」参照
莫追過去 勿願未来
過去已滅 未来未至
現在諸法 所在観之
不撓不屈 慧者修之
今日当勤 明日或死
不暇恐死 昼夜無怠
故牟尼曰 跋地羅帝



過去を追わざれ、未来を願わざれ
「過去を追わざれ、未来を願わざれ、およそ過ぎ去ったものは、すでに捨てられたのである」
= 中村 元 (監修), 森 祖道 (編集), 浪花 宣明 (編集), 松田 慎也 (翻訳), 長尾 佳代子 (翻訳), 勝本 華蓮 (翻訳), 出本 充代 (翻訳)『原始仏典〈第7巻〉中部経典 IV 』春秋社、2005/10/20   ISBN-13 : 978-4393112274
以下、上掲書 pp.371-372 より引用。引用開始。
過去を振り返るな、
未来を追い求めるな。
過去となったものはすでに捨て去られたもの、
一方、未来にあるものはいまだ到達しないもの。
そこで、いまあるものを
それぞれについて観察し、
左右されず、動揺せずに、
それを認知して、増大させよ。
今日の義務をこそ熱心にせよ、
明日の死を知り得る人はないのだから。
死神の大軍勢と
戦わないという人はいないのだから。
このように熱心に禅定を行なう人、
昼夜怠けぬ人、
その人こそが『吉祥なる一夜における、
心静まった聖者』として語られる。
引用終了。
以下、http://www.horakuji.com/BuddhaSasana/Ekayana/bhaddekarattasutta/1.htm#CHARLIE より引用。閲覧日2023年6月16日。引用開始。
世尊はこのように告げられた。

「過去を追い求めることなく6、未来を俟つことなかれ7。
過去、それは捨てられしもの。未来、それはいまだ到らざるもの」

「現在するものごと、それをその時、その場にてじっと見つめる。
支配されることなく8 、動じることなく、それを知って確固たらしめる」

「今日こそ努力の為されるべき時である。誰が明日死せんことを知るであろうか。
実に、いかなる(不死の)約束9も、死の大軍と交わすことは出来ない」

「このように、昼夜おこたることなく、熱意もって住すること、
それはまさしく吉祥なる染著である、と寂静なる牟尼は示さる。」

「『比丘たちよ、私は汝らに賢者の一夜なる説示とその分別を説き示そう』と、――そのように言い、そのようなことから、ここにこれを説いた。」

これが、世尊の説かれたことである。心にかなった彼ら比丘たちは、世尊の言葉を喜んだ。

祥染経(跋地羅帝経)第一

日本語訳:沙門覺應 (慧照)
(Translated by Bhikkhu Ñāṇajoti)
引用終了。

「過去を追わざれ。未来を願わざれ」(ブッダ)
 いい言葉ですね。合掌??
 漢訳仏典では「慎莫念過去 亦勿願未来」(大正蔵 1 p.697上)、英訳では“Don’t run back to the past, / don’t hope for the future.”(Bhaddekarattasuttat−Bhikkhu Sujato)だと思いますが、間違ってたらすみません(^0^;)
https://t.co/31VWYpTjhU

— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) June 10, 2023
以下、植木雅俊先生 @Mlz6YW6DOXK3w85 の2つのツイート
https://twitter.com/Mlz6YW6DOXK3w85/status/1667795929053945859 (午後4:28 ・ 2023年6月11日)
https://twitter.com/Mlz6YW6DOXK3w85/status/1667795932388397056 (午後4:28 ・ 2023年6月11日)
より引用。引用開始
近々、英国で出版する『日蓮の手紙』の英語版では、次のように訳しました。
Never chase the past, never anticipate the future. The past has been thrown away, the future will never come forever. Thus, you should keenly observe the things in the present moment in every place. (続く)
Knowing this, without doubt, without upset, [in the present moment], you should expand your state of mind and single-mindedly do what you should do today.
引用終了。

大正大蔵経 第一巻 No.26 中阿含経第四十三 (165)温泉林天経 p.697上段
東晉罽賓三藏瞿曇僧伽提婆譯

愼莫念過去 亦勿願未來
過去事已滅 未來復未至
現在所有法 彼亦當爲思
念無有堅強 慧者覺如是
若作聖人行 孰知愁於死
我要不會彼 大苦災患終
如是行精勤 晝夜無懈怠
是故常當説 跋地羅帝偈

しん/まく/ねん/か/こ やく/もち/がん/み/らい
か/こ/じ/い/めつ み/らい/ぶく/み/し
げん/ざい/しょ/う/ほう ひ/やく/とう/い/し
ねん/む/う/けん/ごう え/しゃ/かく/にょ/ぜ
にゃく/さ/しょう/にん/ぎょう じゅく/ち/じゅ/お/し
が/よう/ふ/え/ひ たい/く/さい/かん/しゅう
にょ/ぜ/ぎょう/しょう/ごん ちゅう/や/む/け/だい
ぜ/こ/じょう/とう/せつ ばっ/ち/ら/たい/げ

昔にひたるな。未来を願うな。過去はもうないし、未来はまだない。
いま、ここ、がすべて。しっかりむきあおう。変わらぬものなんてないのだ、と、さとれ。
死ぬのをこわがってるひまなんてないぞ。命があるうちに、苦しみを乗りこえよう。
修行にはげもう、昼も夜も。「よき一日のうた」を、口ずさみながら。

以下、「不執著過去、現在或未來,時時處處心不染著──談《中阿含經》之阿難說〈跋地羅帝偈〉」(https://www.buddhistdoor.org/mingkok/不執著過去現在或未來時時處處心不染著談中阿含經之阿難說跋地羅帝偈/)より引用。閲覧日2023年6月10日。引用開始。
偈文白話大意是說,不要懷念過去,也勿祈願未來,因為過去的已經過去,未來的還沒到來。對於現在的一切,也要這樣的思考,這一切都是無常不牢靠的,有智慧的人應當有這樣的覺悟。若依著賢聖的修行而修,哪裏還會憂愁死亡的來臨呢?但如果不這樣修,大苦災禍終究會降臨。像這樣精進,日夜無懈怠,這就是大家應當常說的跋地羅帝偈。

参考 https://zh.wikisource.org/zh-hant/胜妙独处经

★以下、立花俊道(たちばな しゅんどう、1877年−1955)による漢文訓読の書き下し。 『国訳一切経 印度撰述部 阿含部 六』 (大東出版社、1931年初版発行、1969年改訂発行) p.822(p.68)より引用。原文の繁体字は常用漢字に直し、ルビは別に転記する。引用開始。
愼みて過去を念ずること莫れ。亦未来を願ふこと勿れ。過去の事已に滅し、未来また未だ至らず。現在所有の法、彼亦当に思を為すべし。【五】堅強有ること無きを念じ、慧者覚ること是の如し。若し聖人の行を作さば、孰か死を愁ふるを知らん。我要ず彼に会はず、大苦災患終る。是の如く精勤を行じ晝夜懈怠無し。この故に常に當に跋地羅帝偈を説くべし。

【五】 以下意味稍々不明。 巴利文 「不変不動を知りてこれを追へ。 今日こそは勤苦をなすべく、 誰か明日の死を知らんや。 吾等彼の死の大軍と戦ひて[克つ]なきが故に。 斯の如く熱烈に昼夜に怠りなくして住するもの、 それをば良き牟尼はバツデーカラツタとは呼ふ。」
引用終了。
右の引用文の、原文のルビを「」内に示す。
「つヽし」みて「くわ/こ」を「ねん」ずること「なか」れ。 亦「み/らい」を「ねが」ふこと「なか」れ。 「くわ/こ」の事「すで」に「めつ」し、 未来また「いま」だ「いた」らず。 「げん/ざい/しよ/う」の「ほふ」、 彼亦「まさ」に「おもひ」を為すべし。 「けん/がう」有ること無きを念じ、 「ゑ/しや/さと」ること「かく」の如し。 若し「しやう/にん」の行を作さば、 「たれ」か「し」を「うれ」ふるを知らん。 我「かなら」ず彼に「あ」はず、 「だい/く/さい/げん/をは」る。 是の如く「しやう/ごん」を「ぎやう」じ「ちう/や/け/たい」無し。 この故に「つね」に「まさ」に「ばつ/ぢ/ら/てい/げ」を「と」くべし。

★漢文訓読の読み下しと翻訳 by 加藤徹・・・訓読や翻訳は私によるものなので間違ってる可能性があります(^0^;)

慎莫念過去 慎しみて過去を念ずる莫れ(昔を思うな)
亦勿願未来 亦た未来を願ふ勿れ(未来を願うな)
過去事已滅 過去の事は已に滅せり(過去はもうない)
未来復未至 未来は復た未だ至らず(未来はまだない)
現在所有法 現在の有る所の法(現在の「法」についても)
彼亦当為思 彼も亦た当に思ひを為すべし(しっかりと考えよ)
念無有堅強 堅強は有ること無しと念ぜよ(永久不変のものはないと念じなさい)
慧者覚如是 慧者は覚ること是くの如し(知恵ある人はそうさとっています)
若作聖人行 若し聖人の行を作せば(もし聖人の修行をなせば)
孰知愁於死 孰か死に愁へしめらるるを知らんや(死の不安にとらわれるひまはない)
我要不会彼 我、要し彼を会せざれば(私がもし、それができねば)
大苦災患終 大苦と災患とをもて終らん(四苦八苦と八災患のうちに人生が終わってしまう)
如是行精勤 是くの如くんば精勤を行ひ(であるから修行に励もう)
昼夜無懈怠 昼も夜も懈怠する無かれ(昼も夜もおこたることなく)
是故常当説 是の故に常に当に説くべし(だからこそ何度でも説くのです)
跋地羅帝偈 跋地羅帝偈を(このBhadrakarātrīの偈を)

 サンスクリット語 Bhadrakarātrī は、パーリ語のBhaddekaratta(バッデーカラッタ)に相当。

Bhaddekaratta という語、および、この偈のコンセプトについては、平行経であるパーリ仏典の解説が参考になる。
以下、https://online.samgha-shinsha.jp/contents/64fe0fd81110 より引用。閲覧日2023年6月11日。引用開始。
WEBサンガジャパン 2022/06/13 07:00
特集 アルボムッレ・スマナサーラ「様々な「日日是好日」」[1]
(中略)
 実はこの「日日是好日」という言葉を最初に提唱されたのは、他でもない、お釈迦様なのです。パーリ語では“Bhaddekaratta(バッデーカラッタ)”と言います。「毎日がとても幸せな日でいるように」とシンプルにとなえた、容易に理解できそうな気がする言葉です。「毎日、とても幸せな気分でいるとはどういう意味だろう?」と、誰でも自由に考えられますし、自分の能力に見合った理解ができます。それがゆえに、誤解される可能性もあるのです。
(中略)
 Bhaddekaratta(バッデーカラッタ)というパーリ語を日本でも馴染み深い禅語を使って意訳すると「日日是好日」になるのです。
 Bhadda(バッダ)とは「よい」という意味です。「とてもよい」というニュアンスで、「よい」の中でも意味がちょっと重いです。文句がひとかけらもないほど「なんて素晴らしいことか!」という意味です。
 Ekaratta(エーカラッタ)は一日(one day)です。
 そういうわけで、Bhaddekarattaを日本語に直訳すると「善き一日」となります。
(中略)
 日本語に翻訳すると、そのままでは意味がわからなくなりますし、なかなか美しい詩の形にはなりません。ですので、正しく意味を理解した上で、繰り返しパーリ語でとなえて、しっかり憶えておくことをお勧めします。

■「日日是好日」偈 Bhaddekaratta gāthā

Atītaṃ nānvāgameyya, nappaṭikaṅkhe anāgataṃ,
アティータン ナーンワーガメイヤ ナッパティカンケー アナーガタン
過去を追いゆくことなく また未来を願いゆくことなし

Yadatītaṃ pahīnaṃ taṃ, appattañ ca anāgataṃ.
ヤダティータン パヒーナン タン アッパッタン チャ アナーガタン
過去はすでに過ぎ去りしもの 未来は未だ来ぬものゆえに

Paccuppannañca yo dhammaṃ, tattha tattha vipassati,
パッチュッパンナン チャ ヨー ダンマン タッタ タッタ ヴィパッサティ
現に存在している現象を その場その場で観察し

Asaṃhīraṃ asaṅkuppaṃ, taṃ vidvā manubrūhaye.
アサンヒーラン アサンクッパン タン ヴィドゥワー マヌブルーハイェー
揺らぐことなく動じることなく 智者はそを修するがよい

Ajjeva kiccaṃ ātappaṃ, ko jaññā maraṇaṃ suve
アッジェーワ キッチャン アータッパン コー ジャンニャー マラナン スヴェー
今日こそ努め励むべきなり 誰が明日の死を知ろう

Na hi no saṅgaraṃ tena, mahāsenena maccunā.
ナ ヒ ノー サンガラン テーナ マハーセーネーナ マッチュナー
されば死の大軍に 我ら煩(わずら)うことなし

Evaṃ vihāriṃ ātāpiṃ, ahorattam atanditaṃ
エーワン ヴィハーリン アーターピン アホーラッタマタンディタン
昼夜怠ることなく かように住み、励む

Taṃ ve bhaddekarattoti, santo ācikkhate munīti.
タン ヴェー バッデーカラットーティ サントー アーチッカテー ムニーティ
こはまさに「日日是好日」と 寂静者なる牟尼(むに)は説く

中部経典(Majjhimanikāya)131 Bhaddekarattasuttaより抜粋

(つづく) 構成:佐藤哲朗(日本テーラワーダ仏教協会) 川松佳緒里
(以下略)
引用終了
参考 平行経 Majjhima Nikāya (MN, マッジマ・ニカーヤ)
Bhaddekarattasuttat (バッデーカラッタ・スッタ、跋地羅帝経(ばっじらていきょう)、一夜賢者経、賢善一喜経、跋地羅帝経(ばっじらていきょう))

以下 https://suttacentral.net/mn131/en/sujato?layout=plain&reference=none¬es=asterisk&highlight=false&script=latin より引用。閲覧日2023年6月10日。引用開始。

Bhaddekarattasuttat−Bhikkhu Sujato
Middle Discourses 131
One Fine Night
(中略)

Don’t run back to the past,
don’t hope for the future.
What’s past is left behind;
the future has not arrived;

and phenomena in the present
are clearly seen in every case.
Knowing this, foster it−
unfaltering, unshakable.

Today’s the day to keenly work−
who knows, tomorrow may bring death!
For there is no bargain to be struck
with Death and his mighty hordes.

The peaceful sage explained it’s those
who keenly meditate like this,
tireless all night and day,
who truly have that one fine night.

引用終了。

以下、 https://online.samgha-shinsha.jp/contents/b2d918e30068 より引用。閲覧日2023年6月10日。引用開始。
※( )中は、『ブッダの〈今を生きる〉瞑想』の翻訳。

一夜賢者の偈

過ぎ去れるを追いかけることなかれ(過去を追いかけず)
未だ来たらざるを念(おも)うことなかれ(未来に心を奪われるな)
過去、そはすでに捨てられたり(過去はすでになく)
未来、そはいまだ到らざるなり(未来はまだ来ていない)
されば、ただ現在するところのものを(まさに今ここにおいて)
そのところにおいてよく観察すべし(いのちを深くありのままに見つめれば)
揺らぐことなく、動ずることなく(その修行者の心は、不動そして自在にとどまる)
それを見きわめ、それを実践すべし(今日を励みつつ)
ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ(生きること)
たれか明日死のあることを知らんや(明日を待つのでは遅すぎる)
まことにかの死魔の大軍と(死は突然にやって来る)
遭わずということ、あることなし(それを避ける手立てはない)
かくのごとくよく見きわめたるものは(賢者は言う)
心をこめ、昼夜おこたることなく実践せん(昼も夜もマインドフルネスにとどまる者こそ)
かくのごときを一夜賢者という(「ひとりで生きるより良き道を知る者」であると)
また、心しずまるものとはいうなり

<増谷訳は『この人を見よブッダ・ゴータマの生涯』名著選(佼成出版社)より>
引用終了
以下 https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000283656 より引用。閲覧日2023年6月10日。引用開始。
質問(Question)
 原始仏典の一夜賢者経の内容を知りたいです。
回答(Answer)
 御質問の「原始仏典の一夜賢者経の内容」については、次の資料に記載がありました。
 (1)『原始仏典 第7巻 中部経典 4』中村 元/監修 森 祖道/編集 浪花 宣明/編集 春秋社 2005
   P349-356 第131経 跋地羅帝経
 (2)『パーリ仏典 第1期6 中部(マッジマニカーヤ)後分五十経篇2』片山 一良/訳 大蔵出版 2002
   P136-412 第131 賢善一喜経
 (3)『ブッダの<今を生きる>瞑想』ティク・ナット・ハン/著 島田 啓介/訳 野草社 新泉社 2016
   P19-25 本文、P26-101 経典解説
引用終了。



『スッタニパーダ』第944偈 / 『義足経』「維楼勒王経」偈
久故念捨莫思 亦無望当来親 見在亡不著憂 離四海疾事走
きゅう/こ/ねん/しゃ/まく/し やく/む/もう/とう/らい/しん けん/ざい/もう/ふ/じゃく/う り/し/かい/しつ/じ/そう
久古の念は捨て、思うなかれ。また、まさにきたるべき親しきものを、望むなかれ。ほろぶにあるを見て、憂いにおらざれ。四海を離れ、疾く走るを事とせよ。

中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』 (岩波文庫、1984/5/16) p.204より引用。
九四四 古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。牽引する者(妄執)にとらわれてはならない。

同書 p.402より引用。
すべては移り行くということの認識にもとづいて、現実に即した柔軟性に富んだ実践原理が成立するのである。人生の指針として、こんなすばらしいことばがまたとあるだろうか!

https://obo.genaud.net/dhamma-vinaya/pali/kd/snp/kd.snp.pali.bd.htm#IV.15 より引用。閲覧日2023年6月3日。
944. Purāṇaṃ nābhinandeyya, nave khantiṃ na kubbaye,||
Hīyamāne na soceyya, ākāsaṃ na sito siyā.|| ||
https://obo.genaud.net/dhamma-vinaya/sbe/kd/snp/kd.snp.faus.sbe.htm#IV.15 より引用。 “Translated from the Pali by V. Fausbøll ”=ヴィゴ・ファウスベル(Viggo Fausböll 1821-1908)によるパーリ語からの英訳。閲覧日2023年6月3日。
[944] Let him not delight in what is old, let him not bear with what is new, let him not grieve for what is lost, let him not give himself up to desire.


【平行経】漢訳仏典『義足経』「維楼勒王経第十六」
「大正蔵、四巻、p.189中・下」より引用。
從無哀致恐怖 人世世從黠聽
今欲説義可傷 我所從捨畏怖
展轉苦皆世人 如乾水斷流魚
在苦生欲害意 代彼恐癡冥樂
一切世悉然燒 悉十方亂無安
自貢高不捨愛 不見故持癡意
莫作縛求冥苦 我悉觀意不樂
彼致苦痛見刺 以止見難可忍
從刺痛堅不遺 懷刺走悉遍世
尊適見拔痛刺 苦不念不復走
世亦有悉莫受 邪亂本捨莫依
欲可厭一切度 學避苦越自成
住至誠莫妄擧 持直行空兩舌
滅恚火壞散貪 捨惱解黠見度
捨瞢瞢莫睡臥 遠無度莫與倶
綺可惡莫取住 著空念當盡滅
莫爲欺可牽挽 見色對莫爲服
彼綺身知莫著 戲著陰求解難
久故念捨莫思 亦無望當來親
見在亡不著憂 離四海疾事走

我説貪大猛弊 見流入乃制疑
從因縁意念繋 欲染壞難得離
捨欲力其輩寡 悉數世其終少
捨不沒亦不走 流已斷無縛結
乘諦力黠已駕 立到彼慧無憂
是胎危疾事護 勤力守可至安
已計遠是痛去 觀空法無所著
從直見廣平道 悉不著世所見
自不計是少身 彼無有當何計
以不可亦不在 非我有當何憂
本癡根拔爲淨 後栽至亦無養
已在中悉莫取 不須伴以棄仇
一切已棄名色 不著念有所收
已無有亦無處 一切世無與怨
悉已斷無想色 一切善悉與等
已從學説其教 所來問不恐對
不從一致是慧 所求是無可學
已厭捨無因縁 安隱至見滅盡
上不憍下不懼 住在平無所見
止淨處無怨嫉 雖乘見故不憍


佛説義足經卷上 呉月支優婆塞支謙譯

鏡面王経第五の偈
大正蔵巻4 p.178中・下
自冥言是彼不及 著癡日漏何時明
自無道謂學悉爾 但亂無行何時解
常自覺得尊行 自聞見行無比
已墮繋世五宅 自可奇行勝彼
抱癡住婬致善 已邪學蒙得度
所見聞諦受思 雖持戒莫謂可
見世行莫悉修 雖黠念亦彼行
興行等亦敬待 莫生想不及過
是已斷後亦盡 亦棄想獨行得
莫自知以致黠 雖見聞但行觀
悉無願於兩面 胎亦胎捨遠離
亦兩處無所住 悉觀法得正止
意受行所見聞 所邪念小不想
慧觀法竟見意 從是得捨世空
自無有何法行 本行法求義諦
但守戒求爲諦 度無極衆不還

【参考文献】
  1. 加治洋一「支謙訳『義足経』解読研究(一)」
    真宗文化 : 真宗文化研究所年報,23,31-59 (2014-03-01) 論文ID(NAID)110009809045
  2. 加治洋一「支謙訳『義足経』解読研究(二)」
    真宗文化 : 真宗文化研究所年報,24,39-55 (2015-03-01) 論文ID(NAID)110009911868
  3. 加治洋一「支謙訳『義足経』解読研究(三)」
    真宗文化 : 真宗文化研究所年報,25,33-64 (2016-03-01) 論文ID(NAID)110010039022
以下、加治(2015) pp.46-48 より引用。原文の注やルビは省略。引用開始。
(一)自ら冥にして是を言ふ、彼れ及ばず、と
 癡に著きて日に漏らせば、何れの時にか明ならん
 自ら道無くして謂ふ、學は悉く爾り、と
 但だ亂れて行無くば、何れの時にか解せん
(二)常に自ら尊行を得たりと覺し  自ら行は無比なりと聞見せば
 已に墮して世の五宅に繋せり  自らを奇しむ可し、行は彼に勝るるやと
(三)癡を抱き婬に住して善を致すも  已に邪に學べば度を得るに蒙し
 見聞する所を諦かに受け思ひ  戒を持つと雖も可と謂ふ莫かれ
(四)世に行ずるを見るも悉くは修する莫かれ  黠もて亦た彼の行ずるを念ずと雖も
 行を興すは等しくとも亦た敬待すべし  想を生ずる莫かれ「及ばず」「過ぎたり」と
(五)是れ已に斷てば後も亦た盡き  亦た想を棄て獨り行きて得
 自ら知れども以て黠を致すとする莫く  見聞すと雖も但だ觀を行ずるのみ
(六)悉く兩面を願ふこと無く  胎より亦た胎なるも捨てて遠離し
 亦た兩處に住まる所無し  悉く法を觀じて正しきを得て止む
(七)意・受行・見聞する所  邪に念ずる所を小なるすら想はず
 慧もて法を觀じて見・意を竟む  是の得たるに從ひて世の空しきを捨つ
(八)自らに何なる法・行も有る無く  行法を本として義諦を求むるも[有る無し]
 但だ戒を守るのみにして諦と爲すを求むるも[然り]  無極に度して衆は還らざればなり


【南伝仏教の平行経】
漢訳仏典「義足経」の上記の偈は、南伝仏教の『スッタニパーダ』第四章五節、第796−803偈に相当する。

【パーリ語原文】
以下 https://obo.genaud.net/dhamma-vinaya/pali/kd/snp/kd.snp.pali.bd.htm#IV.5 より引用。閲覧日2023年6月1日。引用開始。
5. Paramaṭṭhaka Suttaṃ

796. 'Paraman' ti diṭṭhisu paribbasāno||
Yad utatariṃ kurute jantu loke,||
"Hinā" ti aññe tato sabba-m-āha:||
Tasmā vivādāni avitivatto.|| ||

797. Yad attani passati ānisaṃsaṃ||
Diṭṭhe sute sīla-vate mute vā,||
Tad eva so tattha samuggahāya||
Nihinato passati sabbam aññaṃ.|| ||

798. Taṃ vā pi ganthaṃ kusalā vadanti,||
Yaṃ nissito passati hinam aññaṃ,||
Tasmā hi diṭṭhaṃ va sutaṃ mutaṃ vā||
Sīlabbataṃ bhikkhu na nissayeyya.|| ||

799. Diṭṭhim pi lokasmiṃ na kappayeyya||
Ñāṇena vā sīla-vatena vā pi,||
'Samo' ti attāṇaṃ anupaneyya||
'Hino' na maññetha 'visasi' vā pi.|| ||

800. Attaṃ pahāya anupādiyāno||
Ñāṇe pi so nissayaṃ no karoti,||
Sa ve viyattesu na vaggasāri||
Diṭṭhim pi so na pacceti kiñci.|| ||

801. Yasasūbhayante paṇidhidha n'atthi||
Bhavābhavāya idha vā huraṃ vā,||
Nivesanā tassa na santi keci||
Dhammesu niccheyya samuggahītaṃ.|| ||

802. Tassidha diṭṭhe va sute mute vā||
Pakappitā n'atthi aṇū pi saññā,||
Taṃ brāhmaṇaṃ diṭṭhim
anādiyānaṃ||
Kenidha lokasmiṃ vikappayeyya.|| ||

803. Na kapapyanti na pure-k-kharonti||
Dhammā pi tesaṃ na paṭicchitāse,||
[158] na brāhmaṇo sīla-vatena neyyo,||
Pāraṃgato na pacceti tādī ti.|| ||

Paramaṭṭhaka Suttaṃ Niṭṭhitaṃ|| ||

【平行経の該当部分の英訳】 以下 https://obo.genaud.net/dhamma-vinaya/sbe/kd/snp/kd.snp.faus.sbe.htm#IV.5 より引用(Translated from the Pali by V. Fausbøll)。閲覧日2023年6月1日。引用開始。
5. Paramaṭṭhakasutta

One should not give oneself to philosophical disputations; a Brāhmaṇa who does not adopt any system of philosophy, is unchangeable, has reached Nibbāna.

1. [796] What one person, abiding by the (philosophical) views, saying, 'This is the most excellent,' considers the highest in the world, everything different from that he says is wretched, therefore he has not overcome dispute.

2. [797] Because he sees in himself a good result, with regard to what has been seen (or) heard, virtue and (holy) works, or what has been thought, therefore, having embraced that, he looks upon everything else as bad.

3. [798] The expert call just that a tie dependent upon which one looks upon anything else as bad. Therefore let a Bhikkhu not depend upon what is seen, heard, or thought, or upon virtue and (holy) works.

4. [799] Let him not form any (philosophical) view in this world, either by knowledge or by virtue and (holy) works, let him not represent himself equal (to others), nor think himself either low or distinguished.

5. [800] Having left what has been grasped, not seizing upon anything he does not depend even on knowledge. He does not associate with those that are taken up by different things, he does not return to any (philosophical) view.

6. [801] For whom there is here no desire for both ends, for reiterated existence either here or in another world, for him there are no resting-places (of the mind) embraced after investigation amongst the doctrines (dhammesu).

7. [802] ln him there is not the least prejudiced idea with regard to what has been seen, heard, or thought; how could any one in this world alter such a Brāhmaṇa who does not adopt any view?

8. [803] They do not form (any view), they do not prefer (anything), the Dhammas are not chosen by them, a Brāhmaṇa is not dependent upon virtue and (holy) works; having gone to the other shore, such a one does not return.


以下、中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』 (岩波文庫、1984/5/16)より引用。引用開始。
中村1984、p.180
八〇二 かれらはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?
八〇三 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の教義のいずれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。
中村1984、p.384
いわゆる六十二見のうちのいずれをも受け入れないというのである。 仏教は、普通は「法を説く」と言われているのに、ここでは「法」(dhamma)を否定している。 その意味は<教義>なるものを否定しているのである。 教義を否定したところに仏教がある[ちなみに、ここで paṭicchitāse というのは『リグ・ヴェーダ』の語法が残っているのであり、この詩句が非常に古いことを示している。 pi(=Skrt. api)は、「すべてひっくるめて、いずれも」の意味である]。
以下、https://north-market.com/suttanipata/sn802-809/ より引用。閲覧日2023年5月26日。引用開始。
SN-4-5-808
Tassidha diṭṭhe va sute mute vā,
彼は・ここで 見た あるいは 聞いた 考えた あるいは
Pakappitā n'atthi aṇū pi saññā;
作為した 非存在 少しも 想念は
Taṃ brāhmaṇaṃ diṭṭhim anādiyānaṃ,
その バラモンを 見解に・ない・心に刻む
Kenidha lokasmiṃ vikappayeyya.
何によって・ここ 世において 分別できるか
彼は見たこと、聞いたこと、
考えたことについて
少しも想像をふくらませない。
どんな考えも心にとめない
そんなバラモンをこの世で
分け隔てられるだろうか。
SN-4-5-809
Na kapapyanti na purekkharonti,
ない 判断する ない 尊敬する
dhammā pi tesaṃ na paṭicchitāse;
ダンマも 彼らに ない 受け入れる
Na brāhmaṇo sīlavatena neyyo,
ない バラモンは 戒・儀式に 導かれる
pāraṃgato na pacceti tādī ti.
彼岸に渡った者 ない  戻る このような
彼らは判断したり
崇めたりしない
真理にさえ固執しない。
バラモンは戒と儀式によって
もたらされることはなく
涅槃に至った者は
還ることはない。
パーリ語(Pali)と英訳(English)
https://obo.genaud.net/dhamma-vinaya/pali/kd/snp/kd.snp.pali.bd.htm#IV.5 より引用。閲覧日2023年5月26日。引用開始。
Sutta Nipāta
Namo tassa Bhagavato arahato sammā sambuddhassa
Public Domain
802. Tassidha diṭṭhe va sute mute vā||
Pakappitā n'atthi aṇū pi saññā,||
Taṃ brāhmaṇaṃ diṭṭhim anādiyānaṃ||
Kenidha lokasmiṃ vikappayeyya.|| ||

803. Na kapapyanti na pure-k-kharonti||
Dhammā pi tesaṃ na paṭicchitāse,||
[158] na brāhmaṇo sīla-vatena neyyo,||
Pāraṃgato na pacceti tādī ti.|| ||

7. [802] ln him there is not the least prejudiced idea with regard to what has been seen, heard, or thought; how could any one in this world alter such a Brāhmaṇa who does not adopt any view?

[154] 8. [803] They do not form (any view), they do not prefer (anything), the Dhammas are not chosen by them, a Brāhmaṇa is not dependent upon virtue and (holy) works; having gone to the other shore, such a one does not return.



大正蔵 巻4 p.178下-p.179上 【佛説義足經 (No. 0198 支謙譯 ) in Vol. 04】
仏説『義足経』巻上、呉・月支優婆塞・支謙・訳「老少倶死経」第六
 聞如是。仏在娑掃国城外安延樹下。時有一行車人、出城未到安延樹、車轂道敗、便下道一面、悒愁而坐。仏是時持応器従阿難入城求食、道見車轂敗壊、其主下道坐、悒愁不楽。即説是優檀経
如行車於道 捨平就邪道 至邪致憂患 如是壊轂輪
遠法正亦爾 意著邪行痛 愚服死生苦 亦有壊轂憂
 仏便入城。城中時有一梵志死、寿年百二十死。復有一長者子、年七歳亦死。両家倶送喪、皆持五綵幡、諸女弱皆被髪、親属啼哭悲涙。仏見因問阿難「是何等人聚会、悲哀声甚痛?」。阿難即如事対。仏因是本、有生是義、令我弟子悉解撿是巻、為後世作明、令我経法久住。時仏説是義足経
是身命甚短 減百年亦死 雖有過百年 老従何離死
坐可意生憂 有愛従得常 愛憎悉当別 見是莫楽家
死海無所不漂 宿所貪愛有我
慧願観諦計是 是無我我無是
是世楽如見夢 有識寤亦何見
有貪世悉亦爾 識転滅亦何見
聞是彼悉已去 善亦悪今不見
悉捨世到何所 識神去但名在
既悲憂転相嫉 復不捨貪著愛
尊故断愛棄可 遠恐怖見安処
比丘諦莫妄念 欲可遠身且壊
欲行止意観意 已垂諦無止処
無止者亦尊行 愛不愛亦嫉行
在悲憂亦嫉行 無濡沾如蓮華
已不著亦不望 見聞邪吾不愛
亦不従求解脱 不汚婬亦何貪
不相貪如蓮華 生在水水不汙
尊及世亦爾行 所聞見如未生
仏説是義足経竟、比丘悉歓喜。

以下、「是身命甚短」偈の訓読。加治(2015) pp.50-51 より引用。原文の注やルビは省略。引用開始。
(一)是の身 命は甚だ短かく  百年を減じて亦た死す
 百年を過ぐる有りと雖も  老ひて何に從りて死を離れんや
(二)坐ながらに意に憂を生ず可し  愛有るも[何に]從りて常なるを得んや
 愛憎は悉く當に別かるべし  是を見て家を樂ふこと莫かれ
(三)死海に漂はざる所無し  宿貪る所は我有るを愛せばなり
 慧もて觀ずるを願ひ諦かに是を計さば  是れに我無く我に是れ無し
(四)是の世の樂は夢を見るが如し  識の寤むる有らば亦た何をか見ん
 世を貪る有るも悉く亦た爾り  識轉た滅せば亦た何をか見ん
(五)是れ彼なりと聞くも悉く已に去り  善も亦た惡も今は見ず
 悉く世を捨てなば何所に到らん  識神去れば但だ名のみ在り
(六)既に悲憂して轉た相ひ嫉み  復た貪著の愛を捨てず
 尊は故に愛を斷じ可なるを棄て  恐怖を遠ざけ安處を見る
(七)比丘は諦かにして妄念莫く  遠ざかる可く欲して身は且に壞せんとす
 行止せんと欲し意に意を觀ぜば  已に諦を垂へて止處無し
(八)止まる無きは亦た尊の行なり  愛と不愛と亦た嫉行とに[止まる無し]
 悲憂と亦た嫉行とに在りて  濡沾する無きこと蓮華の如し
(九)已に著せず亦た望まず  見聞は邪なれば吾れ愛せず
 亦た從りて解脱を求めず  婬に汚されずば亦た何をか貪らん
(十)相ひ貪らざること蓮華の如し  [蓮華は]生じて水に在るも水に恩されず
 尊は世に及びて亦た爾く行ずれども  聞見する所未だ生ぜざるが如し

【繁体字】
佛説義足經卷上 呉月支優婆塞支謙譯
老少倶死経第六
大正蔵巻4 p.178下-p.179上

佛便入城。城中時有一梵志死。壽年百二十死。復有一長者子。年七歳亦死。兩家倶送喪。皆持五綵幡。諸女弱皆被髮。親屬啼哭悲涙。佛見因問阿難。是何等人聚會。悲哀聲甚痛。阿難即如事對。佛因是本。有生是義。令我弟子悉解撿是卷。爲後世作明。令我經法久住。時佛説是義足經
是身命甚短 減百年亦死
雖有過百年 老從何離死
坐可意生憂 有愛從得常
愛憎悉當別 見是莫樂家
死海無所不漂 宿所貪愛有我
慧願觀諦計是 是無我我無是
是世樂如見夢 有識寤亦何見
有貪世悉亦爾 識轉滅亦何見
聞是彼悉已去 善亦惡今不見
悉捨世到何所 識神去但名在
既悲憂轉相嫉 復不捨貪著愛
尊故斷愛棄可 遠恐怖見安處
比丘諦莫妄念 欲可遠身且壞
欲行止意觀意 已垂諦無止處
無止者亦尊行 愛不愛亦嫉行
在悲憂亦嫉行 無濡沾如蓮華
已不著亦不望 見聞邪吾不愛
亦不從求解脱 不汚婬亦何貪
不相貪如蓮華 生在水水不汙
尊及世亦爾行 所聞見如未生
佛説是義足經竟。比丘悉歡喜


【南伝仏教の平行経】
漢訳仏典「義足経」の「是身命甚短」偈は、南伝仏教の『スッタニパーダ』第四章六節、第804−813偈に相当する。

【パーリ語原文】
以下 https://obo.genaud.net/dhamma-vinaya/pali/kd/snp/kd.snp.pali.bd.htm#IV.6 より引用。閲覧日2023年6月1日。引用開始。
6. Jarā Suttaṃ

804. Appaṃ vata jīvitaṃ idaṃ||
Oraṃ vasassatā pi miyati,||
Yo ce pi aticca jīvati,||
Atha kho so jarasā pi miyati.|| ||

805. Socanti janā mamāyite,||
Na hi santā niccā pariggahā,||
Vinābhāvasantam ev'idaṃ||
Iti disvā nāgāram āvase.|| ||

806. Maraṇena pi taṃ pahīyati,||
Yaṃ puriso 'mama-y-idan' ti maññati,||
Evaṃ pi viditvā paṇḍito||
Na mamattāya nametha māmako.|| ||

807. Supinena yathā pi saṅgataṃ||
PaṭiBuddho puriso na passati,||
Evam pi piyāyitaṃ janaṃ||
Petaṃ kāla-kataṃ na passati.|| ||

808. Diṭṭhā pi sutā pi te janā,||
Yesaṃ nāmam idaṃ pavuccati,||
Nāmam evāvasissati||
Akkheyyaṃ petassa janatuno.|| ||

809. Sokaparideva-maccharaṃ||
Na jahanti giddhā mamāyite,||
Tasmā munayo pariggahaṃ||
Hitvā acariṃsu khemadassino.|| ||

810. Patilinavarassa bhikkhuno||
Bhajamānassa vivittamānasaṃ,||
Sāmaggiyam āhu tassa taṃ||
Yo attāṇaṃ bhavane na dassaye.|| ||

811. Sabbattha muni anissito||
Na piyaṃ kubbati no pi appiyaṃ,||
Tasmiṃ paradeva-maccharaṃ||
Paṇṇe vāri yathā na lippati.|| ||

812. Udabindu yathā pi pokkhare||
Padume vāri yathā na lippati,||
Evaṃ muni nōpalippati||
Yad idaṃ diṭṭhasutaṃ mutesu vā|| ||

813. Dhono na hi tena maññati||
Yad idaṃ diṭṭhasutaṃ mutesu vā,||
Nā aññena visuddhim icchati:||
Na hi so rajjati no virajjati ti.|| ||
以下 https://obo.genaud.net/dhamma-vinaya/sbe/kd/snp/kd.snp.faus.sbe.htm#IV.6 の英語訳(Translated from the Pali by V. Fausbøll)より引用。閲覧日2023年6月1日。引用開始。
6. Garāsutta

From selfishness come grief and avarice; The Bhikkhu who has turned away frorn the world and wanders about houseless, is independent, and does not wish for purification through another.

1. [804] Short indeed is this life, within a hundred years one dies, and if any one lives longer, then he dies of old age.

2. [805] People grieve from selfishness, perpetual cares kill them, this (world) is full of disappointment; seeing this, let one not live in a house.

3. [806] That even of which a man thinks 'this is mine' is left behind by death: knowing this, let not the wise (man) turn himself to worldliness (while being my) follower.

4. [807] As a man awakened does not see what he has met with in his sleep, so also he does not see the beloved person that has passed away and is dead.

5. [808] Both seen and heard are the persons whose particular name is mentioned, but only the name remains undecayed of the person that has passed away.

6. [809] The greedy in their selfishness do not leave sorrow, lamentation, and avarice; therefore the Munis leaving greediness wandered about seeing security (i.e. Nibbāna).

7. [810] For a Bhikkhu, who wanders about unattached and cultivates the mind of a recluse, they say it is proper that he does not show himself (again) in existence.

8. [811] Under all circumstances the independent Muni does not please nor displease (any one);
sorrow and avarice do not stick to him (as little) as water to a leaf.

9. [812] As a drop of water does not stick to a lotus, as water does not stick to a lotus, so a Muni does not cling to anything, namely, to what is seen or heard or thought.

10. [813] He who has shaken off (sin) does not therefore think (much of anything) because it has been seen or heard or thought; he does not wish for purification through another, for he is not pleased nor displeased (with anything).

※中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』 (岩波文庫、1984/5/16)p.384参照

十願六向偈「願我速知一切法」
『大正大蔵経』第20冊 No.1060千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経 p.106下-p.107上
唐西天竺沙門伽梵達摩訳
南無大悲観世音 願我速知一切法
南無大悲観世音 願我早得智慧眼
南無大悲観世音 願我速度一切衆
南無大悲観世音 願我早得善方便
南無大悲観世音 願我速乗般若船
南無大悲観世音 願我早得越苦海
南無大悲観世音 願我速得戒定道
南無大悲観世音 願我早登涅槃山
南無大悲観世音 願我速会無為舎
南無大悲観世音 願我早同法性身
我若向刀山 刀山自摧折
我若向火湯 火湯自消滅
我若向地獄 地獄自枯竭
我若向餓鬼 餓鬼自飽満
我若向修羅 悪心自調伏
我若向畜生 自得大智慧
なむ だいひ かんぜおん がんが そくち いっさいほう
なむ だいひ かんぜおん がんが そうとく ちえげん
なむ だいひ かんぜおん がんが そくど いっさいしゅ
なむ だいひ かんぜおん がんが そうとく ぜんほうべん
なむ だいひ かんぜおん がんが そくじょう はんにゃせん
なむ だいひ かんぜおん がんが そうとく おっくかい
なむ だいひ かんぜおん がんが そくとく かいじょうどう
なむ だいひ かんぜおん がんが そうとう ねはんせん
なむ だいひ かんぜおん がんが そくえ むいしゃ
なむ だいひ かんぜおん がんが そうどう ほっしょうしん
がにゃくこうかとう かとう じ しょうめつ
がにゃくこうじごく じごく じ こげち
がにゃくこうがき がき じ ほうまん
がにゃくこうしゅら あくしん じ ちょうぶく
がにゃくこうちくしょう じ とく だいちえ

参考 良寛十大願文碑「願我速知一切法」南無大悲観世音 
https://ryoukan.anjintei.jp/r-1510820-1011.html

願はくは我、速やかに一切の法を知らん
願はくは我、早く智慧の眼を得ん
願はくは我、速やかに一切の衆を度せん
願はくは我、早く善方便を得ん
願はくは我、速やかに般若の船に乗らん
願はくは我、早く苦海を越ゆるを得ん
願はくは我、速やかに戒定の道を得ん
願はくは我、早く涅槃の山に登らん
願はくは我、速やかに無為の舎に会はん
願はくは我、早く法性の身に同ぜん
我若し刀山に向はば、刀山自から摧折せよ
我若し火湯に向はば、火湯自から消滅せよ
我若し地獄に向はば、地獄自から枯竭せよ
我若し餓鬼に向はば、餓鬼自から飽満せよ
我若し修羅に向はば、悪心自から調伏せよ
我若し畜生に向はば、自ら大智慧を得よ



筏(いかだ)のたとえ

【漢文】

『中阿含経巻』第五十三 東晋罽賓三蔵瞿曇僧伽提婆訳
我為汝等長夜説筏喩法。欲令棄捨不欲令受故。云何我為汝等長夜説筏喩法。欲令棄捨不欲令受。猶如山水甚深極広。 長流駛疾多有所漂。其中無舡亦無橋梁。或有人来而於彼岸有事欲度。彼求度時而作是念。今此山水甚深極広。長流駛疾多有所漂。 其中無舡亦無橋梁而可度者。我於彼岸有事欲度。当以何方便令我安隠至彼岸耶。復作是念。我今寧可於此岸辺収聚草木縛作椑筏乗之而度。 彼便岸辺収聚草木縛作椑筏。乗之而度安隠至彼。便作是念。今我此筏多有所益。乗此筏已。令我安隠従彼岸来度至此岸。我今寧可以著右肩或頭戴去。 彼便以筏著右肩上或頭戴去。於意云何。彼作如是竟。能為筏有所益耶。時諸比丘答曰。不也。 世尊告曰。彼人云何為筏所作能有益耶。 彼人作是念。今我此筏多有所益。乗此筏已。令我安隠従彼岸来度至此岸。我今寧可更以此筏還著水中或著岸辺而捨去耶。 彼人便以此筏還著水中。或著岸辺捨之而去。於意云何。彼作如是。為筏所作能有益耶。時諸比丘答曰。益也。 世尊告曰。如是我為汝等長夜説筏喩法。欲令棄捨不欲令受。若汝等知我長夜説筏喩法者。当以捨是法。況非法耶。

【書き下し文】with AI
我れ汝等の為に長夜、筏の喩えの法を説くは、 棄てしめんと欲して、受けしめんと欲せざるが故なり。 云何ぞ我れ汝等の為に長夜、筏の喩えの法を説きて、 棄てしめんと欲して、受けしめんと欲せざるや。 猶お山水の甚だ深く極めて広く、 長流駛疾にして多く漂うところ有るが如し。 その中に船なく、また橋梁も無し。 或いは人有りて来たり、彼岸に於いて事有りて、 度らんと欲す。 彼、度らんことを求むる時、 是の念を作す。 「今、この山水は甚だ深く極めて広く、 長流駛疾にして多く漂うところ有り。 その中に船なく、また橋梁も無くして、 度るべき者無し。 我れ彼岸に於いて事有りて、度らんと欲す。 まさに何の方便をもって、我れをして安穏に彼岸に至らしめんや。」 復た是の念を作す。 「我れ今、寧ろこの岸辺に於いて草木を収め集め、 縛して椑筏を作り、これに乗じて度るべし。」 彼、すなわち岸辺に草木を収め集め、 縛して椑筏を作り、 これに乗じて度り、安穏に彼に至る。 すなわち是の念を作す。 「今、我がこの筏は、多く益するところ有り。 この筏に乗じて已に、我れをして安穏に彼岸より来たりて、 此岸に度らしむ。 我れ今、寧ろこれを右の肩に著け、 或いは頭に戴きて去らん。」 彼、すなわち筏を以て右の肩の上に著け、 或いは頭に戴きて去る。 意に於いて云何。 彼、かくの如く作し竟りて、 よく筏の為に益するところ有りや。 時に諸の比丘答えて曰く、 「不なり、世尊。」 仏、告げて曰く。 「彼の人、云何が筏の為に作すこと、 よく益すること有らんや。」 彼の人、是の念を作す。 「今、我がこの筏は多く益するところ有り。 この筏に乗じて已に、我れをして安穏に彼岸より来たりて 此岸に度らしむ。 我れ今、寧ろ更にこの筏をもって水中に還し著け、 或いは岸辺に著けて、これを捨て去らんか。」 彼の人、すなわちこの筏を水中に還し著け、 或いは岸辺に著けて、これを捨てて去る。 意に於いて云何。 彼、かくの如く作さば、 筏の為に作すこと、よく益すること有りや。 時に諸の比丘答えて曰く、 「益なり、世尊。」 世尊、告げて曰く。 「かくの如く、我れ汝等の為に長夜、 筏の喩えの法を説くは、 棄てしめんと欲して、受けしめんと欲せざるなり。 もし汝等、我が長夜、筏の喩えの法を説くを知らば、 まさに是の法をさえ捨つべし。 いわんや非法をや。」

【日本語訳】with AI
「私はあなたたちのために、長い間、『筏のたとえ』という教えを説いてきた。 それは、執着させるためではなく、手放させるためである。 では、なぜ私はこの筏のたとえを説くのか。 それは、捨てさせるためであって、抱えさせるためではない。 たとえば、非常に深くて広い川があるとしよう。 流れは速く、危険で、人や物を押し流してしまう。そこには船も橋もない。 ある人がやって来て、向こう岸に用事があり、どうしても渡らなければならない。 彼はこう考える。 『この川は深くて広く、流れも速い。渡るための船も橋もない。しかし私は向こう岸に行かねばならない。どうすれば安全に渡れるだろうか。』 さらに考えて、 『そうだ。ここで草や木を集めて縛り、筏を作って渡ろう。』彼はその通りにして、筏を作り、それに乗って、 無事に向こう岸へ渡ることができた。そして彼は思う。 『この筏は実に役に立った。これのおかげで私は安全に渡ることができた。だから、この筏を肩に担いであるいは頭に載せて持っていこう。』さて、どう思うか。この人は、そのようにしたなら、筏を本当に有効に使ったことになるだろうか。」
 比丘たちは答えた。
「いいえ、なりません。」
 仏は言われた。
「では、この人はどうすれば筏を正しく役立てたことになるのか。」
 その人はこう考えるだろう。
『この筏は確かに役に立った。しかし私はすでに渡り終えた。だから、この筏は水に戻すか、岸に置いて、ここで手放そう。』 そして実際に、筏を水辺に置いて、それを捨てて立ち去る。 さて、どう思うか。このようにしたなら、筏を正しく役立てたことになるだろうか。」
 比丘たちは答えた。
「はい、なります。」
 仏は言われた。
「その通りである。私は長い間、この筏のたとえを説いてきた。それは、教えに執着させるためではなく、手放させるためである。 もしあなたたちがこの筏のたとえの意味を理解したなら、教えそのものさえも捨てよ。ましてや、誤った教えに執着してはならない。」

【参考】 『仏教聖典』https://bdk-seiten.com/ 日本語版、おしえ、第二章  人の心とありのままの姿、第三節 真実のすがた、二より引用。引用開始
 人ははからいから、すべてのものに執着(しゅうじゃく)する。富(とみ)に執着し、財に執着し、名に執着し、命に執着する。
 有無、善悪、正邪、すべてのものにとらわれて迷いを重ね苦しみと悩みとを招く。
 ここに、ひとりの人がいて、長い旅を続け、とあるところで大きな河を見て、こう思った。この河のこちらの岸は危いが、向こう岸は安らかに見える。そこで筏(いかだ)を作り、その筏によって、向こうの岸に安らかに着くことができた。そこで「この筏は、わたしを安らかにこちらの岸へ渡してくれた。大変役に立った筏である。だから、この筏を捨てることなく、肩に担(かつ)いで、行く先へ持って行こう。」と思ったのである。
 このとき、この人は筏に対して、しなければならないことをしたといわれるであろうか。そうではない。
 この比喩(たとえ)は、「正しいことさえ執着すべきではなく、捨て離れなければならない。まして、正しくないことは、なおさら捨てなければならない。」ということを示している。
引用終了。




母と子の3つの恐怖

雑阿含経巻第二十八 宋天竺三蔵求那跋陀羅訳

【漢文】

如是我聞。一時仏住舎衛国祇樹給孤独園。爾時世尊告諸比丘。
母子無母子畏。有母子畏。愚痴無聞凡夫所説。而不能知。無母子畏。有母子畏。諸比丘。有三種無母子畏。愚痴無聞凡夫所説。何等為三。
諸比丘。有時兵凶乱起。残害国土。随流波迸。子失其母。母失其子。是名第一無母子畏。愚痴無聞凡夫所説。
復次比丘。有時大火卒起。焚焼城邑聚落。人民馳走。母子相失。是名第二無母子畏。愚痴無聞凡夫所説。
復次比丘。有時山中大雨。洪水流出。漂没聚落。人民馳走。母子相失。是名第三無母子畏。愚痴無聞凡夫所説。然此等畏。是有母子畏。 愚痴無聞凡夫説。名無母子畏。 彼有時兵凶乱起。残害国土。随流波迸。母子相失。或時於彼母子相見。是名第一有母子畏。
愚痴無聞凡夫説。名無母子畏。復次大火卒起。焚焼城邑聚落。人民馳走。母子相失。或復相見。是名第二有母子畏。
愚痴無聞凡夫説。名無母子畏。復次山中大雨。洪水流出。漂没聚落。此人馳走。母子相失。或尋相見。是名第三有母子畏。
愚痴無聞凡夫説。名無母子畏。比丘。有三種無母子畏。是我自覚成三菩提之所記説。何等為三若。
比丘。子若老時。無母能語「子汝莫老。我当代汝」。其母老時。亦無子語「母令莫老。我代之老」。是名第一無母子畏。我自覚成三菩提之所記説。
復次比丘。有時子病。母不能語「子令莫病。我当代汝」。母病之時。子亦不能語「母莫病。我当代母」。是名第二無母子畏。我自覚成三菩提之所記説。
復次子若死時。無母能語「子令莫死。我今代汝」。母若死時。無子能語「母令莫死。我当代母」。是名第三無母子畏。我自覚成三菩提之所記説。
諸比丘白仏。有道有跡。修習多修習。断前三種有母子畏。断後三種無母子畏不。
仏告比丘。有道有跡。断彼三畏。何等為道。何等為跡。修習多修習。断前三種有母子畏。断後三種無母子畏。
謂八聖道分。正見・正志・正語・正業・正命・正方便・正念・正定。
仏説此経已。諸比丘聞仏所説。歓喜奉行。

【書き下し文】with AI
是くの如く我聞けり。 一時、仏、舎衛国祇樹給孤独園に住したまえり。 爾の時、世尊、諸の比丘に告げたまわく、 母子に無母子の畏あり、母子の畏あり。愚痴無聞の凡夫の説く所にして、しかも知ること能わず、無母子の畏あり、母子の畏あり。 諸の比丘よ、三種の無母子の畏あり。愚痴無聞の凡夫の説く所なり。 何等をか三となす。 諸の比丘よ、時に兵凶乱起こりて、国土を残害し、流れに随いて波迸り、子は其の母を失い、母は其の子を失うこと有り。是を第一の無母子の畏と名づく。愚痴無聞の凡夫の説く所なり。 復た次に比丘よ、時に大火卒かに起こり、城邑聚落を焚焼し、人民馳走して、母子相い失うこと有り。是を第二の無母子の畏と名づく。愚痴無聞の凡夫の説く所なり。 復た次に比丘よ、時に山中に大雨あり、洪水流出して、聚落を漂没し、人民馳走して、母子相い失うこと有り。是を第三の無母子の畏と名づく。愚痴無聞の凡夫の説く所なり。 然るに此等の畏は、是れ母子の畏なり。愚痴無聞の凡夫は説いて無母子の畏と名づく。 彼に時として兵凶乱起こり、国土を残害し、流れに随いて波迸り、母子相い失うこと有り。或いは時として彼に於いて母子相い見ること有り。是を第一の母子の畏と名づく。愚痴無聞の凡夫は説いて無母子の畏と名づく。 復た次に大火卒かに起こり、城邑聚落を焚焼し、人民馳走して、母子相い失うこと有り。或いは復た相い見ること有り。是を第二の母子の畏と名づく。愚痴無聞の凡夫は説いて無母子の畏と名づく。 復た次に山中に大雨あり、洪水流出して、聚落を漂没し、此の人馳走して、母子相い失うこと有り。或いは尋ねて相い見ること有り。是を第三の母子の畏と名づく。愚痴無聞の凡夫は説いて無母子の畏と名づく。 比丘よ、三種の無母子の畏あり。是れ我れ自ら覚りて三菩提を成ぜしの記説する所なり。 何等をか三となす。 若し比丘よ、子、老いる時、母として能く語りて、 「子よ、汝老ゆること莫かれ。我れ当に汝に代わらん」 と言うこと無し。 其の母老いる時も、亦た子として語りて、 「母よ、老ゆること莫かれ。我れ之に代わりて老いん」 と言うこと無し。 是を第一の無母子の畏と名づく。我れ自ら覚りて三菩提を成ぜしの記説する所なり。 復た次に比丘よ、時に子病むこと有れば、母として語りて、 「子よ、病むこと莫かれ。我れ当に汝に代わらん」 と言うこと能わず。 母病む時も、子として語りて、 「母よ、病むこと莫かれ。我れ当に母に代わらん」 と言うこと能わず。 是を第二の無母子の畏と名づく。我れ自ら覚りて三菩提を成ぜしの記説する所なり。 復た次に子死する時、母として能く語りて、 「子よ、死すること莫かれ。我れ今汝に代わらん」 と言うこと無し。 母死する時も、子として能く語りて、 「母よ、死すること莫かれ。我れ当に母に代わらん」 と言うこと無し。 是を第三の無母子の畏と名づく。我れ自ら覚りて三菩提を成ぜしの記説する所なり。 諸の比丘、仏に白して言さく、 道ありや、跡ありや、修習し多く修習して、前の三種の母子の畏を断じ、後の三種の無母子の畏を断ずるや否や、と。 仏、比丘に告げたまわく、 道あり、跡あり、彼の三畏を断ず。 何をか道と為し、何をか跡と為す。 修習し多く修習して、前の三種の母子の畏を断じ、後の三種の無母子の畏を断ずるは、謂く八聖道分なり。 正見・正志・正語・正業・正命・正方便・正念・正定なり。 仏、此の経を説き已りて、諸の比丘、仏の説きたまう所を聞きて、歓喜し奉行せり。

【日本語訳】with AI
 このように私は聞いた。 ある時、仏は舎衛国の祇樹給孤独園に滞在しておられた。 その時、世尊は比丘たちに言われた。
「母子には、『母子が別れない恐怖』があり、また『母子が別れる恐怖』がある。愚かで教えを聞いたことのない凡夫はこのように説くが、何が真の『母子が別れない恐怖』であり、何が『母子が別れる恐怖』であるかを理解していない。 比丘たちよ、三つの『母子が別れない恐怖』がある、と愚かで教えを聞いたことのない凡夫は説く。 どの三つか。 比丘たちよ、ある時、兵乱が起こり、国土を破壊し、流れに押し流されて波が荒れ狂い、子が母を失い、母が子を失うことがある。これを第一の『母子が別れない恐怖』と名づける、と愚かな凡夫は説く。 また比丘たちよ、ある時、突然大火が起こり、城や村落を焼き払い、人々が逃げ惑い、母と子が互いに離れ離れになることがある。これを第二の『母子が別れない恐怖』と名づける、と愚かな凡夫は説く。 また比丘たちよ、ある時、山中に大雨が降り、洪水が流れ出て村落を押し流し、人々が逃げ惑い、母と子が互いに離れ離れになることがある。これを第三の『母子が別れない恐怖』と名づける、と愚かな凡夫は説く。 しかし、これらの恐怖は実は『母子が別れる恐怖』であるにもかかわらず、愚かな凡夫は『母子が別れない恐怖』と呼ぶのである。 というのは、たとえば兵乱が起こり、母子が離れ離れになっても、やがて再び出会うことがある。これを第一の『母子が別れる恐怖』という。 また、大火が起こり、母子が離れ離れになっても、再び出会うことがある。これを第二の『母子が別れる恐怖』という。 また、大雨と洪水によって母子が離れ離れになっても、やがて再び出会うことがある。これを第三の『母子が別れる恐怖』という。 比丘たちよ、三つの『母子が別れない恐怖』がある。これは私が自ら悟り、完全な覚りを得たときに確かめて説いたものである。 どの三つか。 比丘たちよ、子が老いる時、母は 『子よ、老いてはならない。私が代わって老いよう』 と言うことはできない。 また、母が老いる時、子は 『母よ、老いてはならない。私が代わって老いよう』 と言うことはできない。 これを第一の『母子が別れない恐怖』という。 また、子が病気になる時、母は 『子よ、病んではならない。私が代わって病もう』 と言うことはできない。 母が病気になる時、子も 『母よ、病んではならない。私が代わって病もう』 と言うことはできない。 これを第二の『母子が別れない恐怖』という。 また、子が死ぬ時、母は 『子よ、死んではならない。私が代わって死のう』 と言うことはできない。 母が死ぬ時、子も 『母よ、死んではならない。私が代わって死のう』 と言うことはできない。 これを第三の『母子が別れない恐怖』という。」
 比丘たちは仏に申し上げた。
「この三つの母子が別れる恐怖と、この三つの母子が別れない恐怖とを断ち切るための道と実践があるのでしょうか。」
 仏は比丘たちに言われた。
「道があり、実践があり、それによってこれら三つの恐怖を断つことができる。 その道とは何か、その実践とは何か。 それは八つの聖なる道である。すなわち、 正しい見解、 正しい志、 正しい言葉、 正しい行い、 正しい生活、 正しい努力、 正しい気づき、 正しい禅定、 である。」
 仏がこの経を説き終えると、比丘たちは仏の教えを聞いて喜び、これを実践した。

【抜粋、呉音】
比(び)丘(く)。 有(う)三(さん)種(しゅ)無(む)母(も)子(し)畏(い)。 是(ぜ)我(が)自(じ)覚(かく) 成(じょう)三(さん)菩(ぼ)提(だい) 之(し)所(しょ)記(き)説(せつ)。 何(が)等(とう)為(い)三(さん)若(にゃく)。

比(び)丘(く)。 子(し)若(にゃく)老(ろう)時(じ)。 無(む)母(も)能(のう)語(ご) 「子(し)汝(にょ)莫(まく)老(ろう)。 我(が)当(とう)代(だい)汝(にょ)」。 其(ご)母(も)老(ろう)時(じ)。 亦(やく)無(む)子(し)語(ご) 「母(も)令(りょう)莫(まく)老(ろう)。 我(が)代(だい)之(し)老(ろう)」。 是(ぜ)名(みょう)第(だい)一(いち) 無(む)母(も)子(し)畏(い)。 我(が)自(じ)覚(かく) 成(じょう)三(さん)菩(ぼ)提(だい) 之(し)所(しょ)記(き)説(せつ)。

復(ぶ)次(し)比(び)丘(く)。 有(う)時(じ)子(し)病(びょう)。 母(も)不(ふ)能(のう)語(ご) 「子(し)令(りょう)莫(まく)病(びょう)。 我(が)当(とう)代(だい)汝(にょ)」。 母(も)病(びょう)之(し)時(じ)。 子(し)亦(やく)不(ふ)能(のう)語(ご) 「母(も)莫(まく)病(びょう)。 我(が)当(とう)代(だい)母(も)」。 是(ぜ)名(みょう)第(だい)二(に) 無(む)母(も)子(し)畏(い)。 我(が)自(じ)覚(かく) 成(じょう)三(さん)菩(ぼ)提(だい) 之(し)所(しょ)記(き)説(せつ)。

復(ぶ)次(し)。 子(し)若(にゃく)死(し)時(じ)。 無(む)母(も)能(のう)語(ご) 「子(し)令(りょう)莫(まく)死(し)。 我(が)今(こん)代(だい)汝(にょ)」。 母(も)若(にゃく)死(し)時(じ)。 無(む)子(し)能(のう)語(ご) 「母(も)令(りょう)莫(まく)死(し)。 我(が)当(とう)代(だい)母(も)」。 是(ぜ)名(みょう)第(だい)三(さん) 無(む)母(も)子(し)畏(い)。 我(が)自(じ)覚(かく) 成(じょう)三(さん)菩(ぼ)提(だい) 之(し)所(しょ)記(き)説(せつ)。

【参考】 『仏教聖典』https://bdk-seiten.com/ 日本語版、おしえ、第四章 煩悩、第三節 現実の人生、三より引用。引用開始
 世に母も子を救い得ず、子も母を救い得ない三つの場合がある。すなわち、大火災と大水害と、大盗難のときである。しかし、この三つの場合においても、ときとしては、母と子が互いに助け合う機会がある。
 ところがここに、母は子を絶対に救い得ず、子も母を絶対に救い得ない三つの場合がある。それは、老いの恐れと、病の恐れと、死の恐れとの襲い来ったときのことである。
 母の老いゆくのを、子はどのようにしてこれに代わることができるであろうか。子の病む姿のいじらしさに泣いても、 母はどうして代わって病むことができよう。子供の死、母の死、いかに母子であっても、どうしても代わりあうことはできない。いかに深く愛しあっている母子でも、こういう場合には絶対に助けあうことはできないのである。
引用終了。
 同上、英語版 THE TEACHING OF BUDDHA, DHARMA, Chapter Four Defilements,III. Human Life , 3 より引用。引用開始
  There are three occasions full of perils when a son is helpless to aid his mother and a mother cannot help her son:-a fire, a flood and a burglary. Yet, even on these perilous and sad occasions, there still exists a chance for aiding each other.
  But there are three occasions when it is impossible for a mother to save her son or a son to save his mother. These three occasions are the time of sickness, the period of growing old, and the moment of death.
  How can a son take his mother’s place when she is growing old? How can a mother take her son’s place when he is sick? How can either help the other when the moment of death approaches? No matter how much they may love each other or how intimate they may have been, neither can help the other on such occasions.
引用終了。



二鬼争尸

【漢文】
『衆経撰雑譬喩』巻上
比丘道略集 姚秦三蔵法師鳩摩羅什訳
昔有一人。受使遠行独宿空舎。中夜有一鬼。担死人来著其前。後有一鬼逐来瞋罵前鬼。是死人是我許。汝何以担来。二鬼各捉一手諍之。前鬼言。此有人可問。是死人是誰担来。 是人思惟。此二鬼力大。若実語亦当死。若妄語亦当死。二倶不免。何為妄語。語言前鬼担来。 後鬼大瞋捉手抜出著地。前鬼取死人一臂補之。即著如是。両脚頭脅皆被抜出。以死人身安之如故。於是二鬼共食所易人身拭口而去。 其人思惟。我父母生我身。眼見二鬼食尽。今我此身尽是他身肉。我今定有身耶為無身耶。若以有者尽是他身。若無者今現身如是。思惟已其心迷悶。譬如狂人。 明旦尋路而去到前国者。見有仏塔衆僧。不可問余事。但問己身為有為無。諸比丘問。汝是何人。答言。亦不自知是人非人。 即為衆僧広説上事。諸比丘言。此人自知無我。易可得度。而語之言。汝身従本已来恒自無我。非適今也。但此四大合故計為我身。 即度為道。断諸煩悩即得羅漢道。是為能計無我虚得道不遠。

【書き下し文】with AI
昔、一人有り。使いを受けて遠行し、独り空舎に宿す。 中夜に一鬼有り、死人を担ぎて来たり、その前に著く。 後に一鬼有りて逐い来たり、前の鬼を瞋り罵りて曰く、 「是の死人は是れ我が許なり。汝、何を以て担ぎ来たる。」 二鬼、各おの一手を捉えてこれを諍う。 前の鬼言う、 「ここに人有り、問うべし。是の死人は誰か担ぎ来たりしや。」 是の人思惟す。 「此の二鬼は力大なり。若し実を語るも亦た当(まさ)に死すべし。 若し妄語するも亦た当(まさ)に死すべし。二つながら倶に免れず。 何ぞ妄語を為さんや。」 語りて言う、 「前の鬼、担ぎ来たれり。」 後の鬼、大いに瞋り、手を捉えて抜き出し、地に著く。 前の鬼、死人の一臂を取りてこれを補う。すなわち著くること是の如し。 両脚・頭・脅、皆抜き出され、死人の身を以てこれに安ずること故の如し。 ここにおいて二鬼、共に易えられたる人身を食い、口を拭いて去る。 其の人思惟す。 「我が父母、我が身を生めり。しかるに眼に二鬼の食い尽くすを見る。 今、我が此の身は尽く是れ他身の肉なり。 我れ今、定めて身有りや、身無きや。 若し有りと為さば尽く是れ他身なり。 若し無しと為さば、今現に身は是の如し。」 思惟し已りて、その心迷悶し、狂人の如し。 明旦、路を尋ねて去り、前の国に到る。 仏塔と衆僧有るを見る。余事を問うべからず、ただ己が身、有りや無しやを問う。 諸比丘問う、 「汝は是れ何人ぞ。」 答えて言う、 「また自ら人なるや人にあらざるやを知らず。」 すなわち衆僧のために広く上の事を説く。 諸比丘言う、 「此の人、自ら無我を知る。度し得ること易し。」 而してこれに語りて言う、 「汝が身は本より以来、恒に自ら無我なり。 適(たまた)ま今のみにはあらず。 ただ此の四大和合するが故に、我が身と計(はか)り為すのみ。」 すなわち度して道と為し、諸の煩悩を断じ、 すなわち羅漢道を得たり。 是れ無我を計(おも)い得て、道を得ること遠からざるを為すなり。

【現代語訳】with AI
昔、ある男が使いを受けて遠くへ旅をし、 一人で空き家に泊まった。 真夜中になると、一匹の鬼が死体を担いで来て、 家の中に置いた。 すると後からもう一匹の鬼が追って来て怒鳴った。 「その死体は私のものだ。 なぜお前が持って来たのだ。」 二匹の鬼は、死体の腕をそれぞれつかんで争った。 そして先に来た鬼が言った。 「ここに人間がいる。 誰が運んできたか、この者に証言させよう。」 男は考えた。 「この二匹の鬼は力が強い。 正直に言っても殺されるだろうし、 嘘を言っても殺されるだろう。 どちらにしても助からない。 ならば嘘をつく理由はない。」 そこで男は言った。 「先に来た鬼が運んできました。」 すると後から来た鬼は激怒し、 男の腕を引き抜いて地面に投げ捨てた。 しかし先の鬼は、死体の腕を取ってきて、 男の体に付けて補った。 その後も同じことが繰り返され、 足、胴、頭まで次々に引き抜かれ、 すべて死体の体で置き換えられた。 やがて二匹の鬼は、 取り外した男の体の部分を食べて満腹し、 口をぬぐって去って行った。 男は考えた。 「私の体は、父母から生まれた体であった。 しかし今、鬼がそれをすべて食べてしまった。 今の私の体は、すべて他人の体の肉でできている。 では、私は本当に体があるのか。 あると言えば、それは他人の体だ。 ないと言えば、今こうして体はある。」 男は混乱し、 まるで狂人のようになった。 夜が明けると道をたどり、 ある国に着いた。 そこには仏塔と僧たちがいた。 男は他のことは何も尋ねず、 ただ自分の体が「あるのか、ないのか」を尋ねた。 僧たちは言った。 「あなたの体は、もともと実体のあるものではない。 今だけそうなのではない。 地・水・火・風という要素が集まって、 仮に『私の体』と呼んでいるだけなのだ。」 こうして男は教えを理解し、 煩悩を断ち切り、 ついには悟り(羅漢)に到達した。無我を本当に理解した者は、悟りから決して遠くない。



空井戸に落ちた男

【漢文】
『仏説譬喩経』
大唐三蔵法師義浄訳
如是我聞。一時薄伽梵。在室羅伐城逝多林給孤独園。 爾時世尊於大衆中。告勝光王曰。 大王。我今為王略説譬喩。諸有生死味著過患。王今諦聴。善思念之。 乃往過去。於無量劫。時有一人。遊於曠野為悪象所逐。怖走無依。 見一空井。傍有樹根。即尋根下。潜身井中。 有黒白二鼠。互齧樹根。於井四辺有四毒蛇。欲螫其人。 下有毒竜。心畏竜蛇恐樹根断。 樹根蜂蜜。五滴堕口。樹揺蜂散。下螫斯人。 野火復来。焼然此樹。 王曰。是人云何。受無量苦。貪彼少味。 爾時世尊告言。 大王。曠野者喩於無明長夜曠遠。言彼人者。喩於異生。 象喩無常。井喩生死。険岸樹根喩命。 黒白二鼠以喩昼夜。齧樹根者。喩念念滅。 其四毒蛇。喩於四大。蜜喩五欲。蜂喩邪思。 火喩老病。毒竜喩死。 是故大王。当知生老病死。甚可怖畏。 常応思念。勿被五欲之所呑迫。 爾時世尊重説頌曰
 曠野無明路 人走喩凡夫 大象比無常 井喩生死岸
 樹根喩於命 二鼠昼夜同 齧根念念衰 四蛇同四大
 蜜滴喩五欲 蜂螫比邪思 火同於老病 毒竜方死苦
 智者観斯事 象可厭生津 五欲心無著 方名解脱人
 鎮処無明海 常為死王駆 寧知恋声色 不楽離凡夫

【書き下し文】with AI
『仏説譬喩経』義浄訳
是くの如く我聞けり。 一時、薄伽梵、室羅伐城の逝多林給孤独園に在り。 爾の時、世尊、大衆の中に於いて、勝光王に告げて曰く、 「大王、我れ今、王の為に略して譬喩を説かん。 諸の生死に味著する過患あり。 王、今、諦かに聴き、善くこれを思念せよ。 乃ち往昔、無量劫に於いて、時に一人有り。 曠野に遊びて悪象の為に逐われ、怖れて走りて依る所無し。 一の空井を見るに、傍らに樹根有り。 即ち根を尋ねて下り、身を井中に潜む。 黒白の二鼠有り、互いに樹根を齧る。 井の四辺に四毒蛇有りて、その人を螫(さ)さんと欲す。 下に毒竜有り。心に竜蛇を畏れ、樹根の断たれんことを恐る。 樹根に蜂蜜有りて、五滴、口に堕つ。 樹揺れて蜂散じ、下りて斯の人を螫す。 野火、復た来たりて、此の樹を焼然す。 王曰く、 『是の人、云何ぞ無量の苦を受けながら、彼の少味を貪るや。』 爾の時、世尊告げて言わく、 大王、曠野は無明の長夜曠遠なるに喩う。 彼の人は異生に喩う。 象は無常に喩う。 井は生死に喩う。 険岸の樹根は命に喩う。 黒白の二鼠は昼夜に喩う。 樹根を齧るは念々滅に喩う。 其の四毒蛇は四大に喩う。 蜜は五欲に喩う。 蜂は邪思に喩う。 火は老病に喩う。 毒竜は死に喩う。 是の故に大王、 生・老・病・死は甚だ怖畏すべきを知るべし。 常に応に思念して、五欲の為に呑み迫らるること勿れ。 爾の時、世尊、重ねて頌を説きて曰く。
曠野は無明の路、人の走るは凡夫に喩う。 大象は無常に比し、井は生死の岸に喩う。
樹根は命に喩え、二鼠は昼夜に同じ。 根を齧るは念々衰うるに喩え、四蛇は四大に同じ。
蜜の滴は五欲に喩え、蜂の螫すは邪思に比す。 火は老病に同じく、毒竜はまさに死苦なり。
智者は斯の事を観じて、生を厭う心を起こす。 五欲に心著せざるを、方(まさ)に解脱の人と名づく。
常に無明の海に処して、つねに死王の為に駆らる。 寧ろ声色に恋い、凡を離るるを楽しまず。


【現代語訳】with AI
 このように私は聞いた。 あるとき仏は、舎衛城の祇園精舎におられた。 そのとき仏は大勢の人々の中で勝光王に言われた。
「王よ、いま私は、短い譬え話をして、生死に執着することの危険を説こうと思います。どうかよく聞いて、深く考えてください。昔、ある人が広い荒野を歩いていると、凶暴な象に追われ、逃げ場を失ってしまいました。 そこで古い井戸を見つけ、そばにあった木の根につかまって、井戸の中に身を隠しました。 すると、白と黒の二匹の鼠が現れ、その根をかじり始めました。 井戸の周囲には四匹の毒蛇がいて、彼を噛もうとしています。 さらに下には毒竜が待ち構えています。 彼は、根が切れて落ちてしまうのではないかと恐れ、震えていました。 そのとき、木の根にあった蜂蜜が五滴、口の中に落ちてきました。 木が揺れると蜂が飛び散り、さらに下では火が起こって、その木を燃やし始めました。」
 王は言った。
「この人は、これほど多くの苦しみに囲まれていながら、どうしてわずかな甘さに執着しているのでしょうか。」
 仏はお答えになった。
「荒野とは、無知(無明)という長い闇の世界を表しています。 その人とは、私たち凡夫のことです。 象とは無常、 井戸とは生死の世界、 木の根とは命を意味しています。 白と黒の鼠は昼と夜を表し、 根をかじることは、命が一瞬一瞬減っていくことを意味しています。 四匹の毒蛇は、私たちの身体を構成する四つの要素を表しています。 蜜は欲望、 蜂は誤った考え、 火は老いと病、 毒竜は死を表しています。
 ですから王よ、生・老・病・死は非常に恐ろしいものです。 常にこのことを心に留め、欲望に飲み込まれてはなりません。」



『華厳経』唯心偈
 『華厳経』の「唯心偈(ゆいしんげ)」は、「覚林菩薩偈」「破地獄偈」とも言う。「如心・・・」以下を「如心偈」とも言う。
 「この世界のあらゆるモノやコトは、心が生み出したものである。 心と、仏と、私たち衆生(しゅじょう)の三者は連続している。 仏たちも含めて、一切は心が作り出したのである」という「三界唯心(さんがいゆいしん)」の教えを説く、漢字100文字(5文字×20行)の偈文。
 漢訳『華厳経』には、
  東晋時代、西暦418年訳の「六十華厳」(旧訳華厳)
  唐の時代、西暦695年-704年頃訳の「八十華厳」(新訳華厳)
その他がある。
 「旧訳華厳」と「新訳華厳」の唯心偈には字句に異同がある。現在の日本では旧訳、中国では新訳が普及している。





【漢文】
(1)日本で普及している版(六十華厳=旧訳華厳)
以下は『大正新脩大蔵経』の「大方廣佛華嚴經卷第十 (佛駄跋陀羅) 」より引用。仏駄跋陀羅/仏跋陀羅(ぶっだばったら、Buddhabhadra、ブッダバドラ、359年 - 429年)による漢訳。引用開始
心如工畫師 畫種種五陰 一切世界中 無法而不造
如心佛亦爾 如佛衆生然 心佛及衆生 是三無差別
諸佛悉了知 一切從心轉 若能如是解 彼人見眞佛
心亦非是身 身亦非是心 作一切佛事 自在未曾有
若人欲求知 三世一切佛 應當如是觀 心造諸如來

常用漢字版
心如工画師 画種種五陰 一切世界中 無法而不造
如心仏亦爾 如仏衆生然 心仏及衆生 是三無差別
諸仏悉了知 一切従心転 若能如是解 彼人見真仏
心亦非是身 身亦非是心 作一切仏事 自在未曾有
若人欲求知 三世一切仏 応当如是観 心造諸如来
引用終了
★音読の一例
しん/にょ/く/え/し え/しゅ/しゅ/ご/おん いっ/さい/せ/かい/ちゅう む/ほう/に/ふ/ぞう
にょ/しん/ぶつ/やく/に にょ/ぶつ/しゅ/じょう/ねん しん/ぶつ/ぎゅう/しゅ/じょう ぜ/さん/む/しゃ/べつ
しょ/ぶつ/しつ/りょう/ち いっ/さい/じゅう/しん/てん にゃく/のう/にょ/ぜ/げ ひ/にん/けん/しん/ぶつ
しん/やく/ひ/ぜ/しん しん/やく/ひ/ぜ/しん さ/いっ/さい/ぶ/つじ じ/ざい/み/ぞう/う
にゃく/にん/よく/ぐ/ち さん/ぜ/いっ/さい/ぶつ おう/とう/にょ/ぜ/かん しん/ぞう/しょ/にょ/らい

★書き下し文の一例
 心(こころ)は工(たく)みなる画師(えし)の如(ごと)し。 種種(しゅじゅ)の五陰(ごおん)を画(えが)きて、 一切の世界(いっさいせかい)の中(うち)に、 法(ほう)として造(つく)らざるは無し。
 心の如く、仏(ほとけ)も亦(また)爾(しか)り。 仏の如く、衆生(しゅじょう)も然(しか)り。 心と仏と及(およ)び衆生とは、 是(こ)の三(みつ)は差別(しゃべつ)無し。
 諸仏(しょぶつ)は悉(ことごと)く了知(りょうち)せり、 一切(いっさい)は心に従(したが)いて転(てん)ずと。 若(も)し能(よ)く是(かく)の如(ごと)く解(げ)せば、 彼(か)の人は真仏(しんぶつ)を見(み)ん。
 心も亦(ま)た是(こ)れ身(み)に非(あら)ず、 身も亦(ま)た是(こ)れ心に非(あら)ず。 一切(いっさい)の仏事(ぶつじ)を作(な)すは、 自在(じざい)にして未(いま)だ曾(かつ)て有(あ)らざるなり。
 若(も)し人(ひと)ありて知(し)らんことを求(もと)めば、 三世(さんぜ)の一切(いっさい)の仏(ほとけ)を、 応(まさ)に当(まさ)に是(か)くの如(ごと)く観(かん)ずべし、 心(こころ)は諸(もろもろ)の如来(にょらい)を造(つく)るなり、と。

★現代語訳の一例
 心は、まるで巧みな画家のようなもの。 さまざまな五蘊(人間存在を構成する要素)を描き出す画家です。 この世界のあらゆるものの中で、 心が作り出していないものは、一つもないのです。
 仏もまた、心と同じようなものです。 衆生もまた、仏と同じようなものです。 心と仏と衆生。この三つに本質的な違いは、実は無いのです。
 すべての仏は、万物が心によって動き変化することを完全に知っておられます。 もし人がこの道理を理解できたら、その人は、真の仏に会えます。
 心は身体そのものではない。 身体もまた心そのものではない。 しかし、心と身体はともに働いて、 あらゆる仏の働きを成し遂げるのです。 この自在の境地は、かつてない不思議な境地です。
 もし人が、過去・現在・未来のすべての仏を知ろうとするならば、 次のように見極めねばなりません。 心こそが、さまざまな仏を作り出しているのだ、と。

★英訳の一例(AIも使用)
The mind is like a skillful painter that creates the many forms of the five aggregates. In all the worlds, there is nothing that is not made by the mind.
The mind is the Buddha, and the Buddha is sentient beings. There is no real difference among mind, Buddha, and sentient beings.
All Buddhas clearly understand that everything is shaped and transformed by the mind. Anyone who understands this truly sees the Buddha.
Mind and body are not the same, but they are also not separate. In carrying out the activities of the Buddha, they work freely and in wonderful ways.
If people wish to truly know all Buddhas of the three times - the past, the present, and the future - they should reflect and understand in this way: all Buddhas arise from the mind.

(この英文の和訳
心は、巧みな画家のように、五蘊のさまざまな姿を作り出します。 あらゆる世界において、心によって作られていないものは何一つありません。
心はすなわち仏であり、仏はすなわち衆生です。 心と仏と衆生のあいだには、本当の意味での違いはありません。
すべての仏は、あらゆるものが心によって形づくられ、変化することをはっきりと理解しています。 このことを理解する人は、真に仏を見ることになります。
心と身体は同じものではありませんが、また別々のものでもありません。 仏の働きを行うとき、それらは自由自在に、そして不思議なはたらきを示します。
もし人々が、過去・現在・未来という三つの時にわたるすべての仏を本当に知りたいと願うなら、 このように省みて理解すべきです。 すなわち、すべての仏は心から生じるということです。)

(2)現代中国で普通の版(八十華厳=新訳華厳)
以下、https://baike.baidu.com/item/觉林菩萨偈/948779より引用。閲覧日2026年3月23日。引用開始。
心如工画师.能画诸世间.五蕴悉从生.无法而不造.
如心佛亦尔.如佛众生然.应知佛与心.体性皆无尽.
若人知心行.普造诸世间.是人则见佛.了佛真实性.
心不住于身.身亦不住心.而能作佛事.自在未曾有.
若人欲了知.三世一切佛.应观法界性.一切唯心造.

引用終了。
以下、『大正新脩大蔵経』の「大方廣佛華嚴經卷第十九 (實叉難陀) 」より引用。実叉難陀(じっしゃなんだ、Śikṣānanda、シクシャーナンダ、652年 - 710年)による漢訳。引用開始
心如工畫師 能畫諸世間 五蘊悉從生 無法而不造
如心佛亦爾 如佛衆生然 應知佛與心 體性皆無盡
若人知心行 普造諸世間 是人則見佛 了佛眞實性
心不住於身 身亦不住心 而能作佛事 自在未曾有
若人欲了知 三世一切佛 應觀法界性 一切唯心造
引用終了
同・常用漢字版
心如工画師 能画諸世間 五蘊悉従生 無法而不造
如心仏亦爾 如仏衆生然 応知仏与心 体性皆無尽
若人知心行 普造諸世間 是人則見仏 了仏真実性
心不住於身 身亦不住心 而能作仏事 自在未曾有
若人欲了知 三世一切仏 応観法界性 一切唯心造

★音読の一例
しん/にょ/く/え/し のう/え/しょ/せ/けん ご/おん/しつ/じゅう/しょう む/ほう/に/ふ/ぞう
にょ/しん/ぶつ/やく/に にょ/ぶつ/しゅ/じょう/ねん おう/ち/ぶつ/よ/しん たい/しょう/かい/む/じん
にゃく/にん/ち/しん/ぎょう ふ/ぞう/しょ/せ/けん ぜ/にん/そく/けん/ぶつ りょう/ぶつ/しん/じっ/しょう
しん/ふ/じゅう/お/しん しん/やく/ふ/じゅう/しん に/のう/さ/ぶつ/じ じ/ざい/み/ぞう/う
にゃく/にん/よく/りょう/ち さん/ぜ/いっ/さい/ぶつ おう/かん/ほっ/かい/しょう いっ/さい/ゆい/しん/ぞう

★漢文訓読の一例
心は工画師の如し。能く諸〻の世間を画く。五蘊は悉く従りて生じ、法として造らざるは無し。
心の如く、仏も亦た爾り。仏の如く、衆生も然り。応に知るべし、仏と心と体性は皆尽くること無し、と。
若し人、心の行は普く諸〻の世間を造ることを知らば、是の人は則ち仏を見、仏の真実の性を了ぜん。
心は身に住せず、身も亦た心に住せず。而も能く仏事を作して、自在なること未だ曾て有らざるなり。
若し人、三世一切の仏を了知せんと欲せば、応に観ずべし、法界の性は一切は唯だ心の造るところなり、と。

★日本語訳の一例
 心は、熟練した画家のようなもの。 あらゆる世界を描き出すことができます。 この世を形づくる五つの要素(五蘊)は、すべてそこから生まれます。 心によって作られていないものは何一つないのです。
 心がそのようなものであるのと同じく、仏もまた同様であり、 仏がそうであるのと同じく、衆生もまた同じです。 仏と心との本質は、どちらも尽きることのないものである、 ということ。それをよく理解すべきです。
 もし人が、心の働きがあらゆる世界を作り出していることを知るならば、 その人は仏を見ることになり、 仏の真実の本性を理解することになるでしょう。
 心は身体の中に固定して存在しているわけではない。 身体もまた心の中に閉じ込められているわけではない。 しかしそれでも、心は仏の働きを行うことができ、 自由自在で、未曾有の働きを示すのです。
 もし人が、過去・現在・未来のすべての仏の真理を本当に理解したいと望むならば、 宇宙全体の本質(法界の性)を観察しなければなりません。 すべてのものは、ただ心によって作り出されているのだ、 という本質を理解すべきなのです。

★参考 六十巻本(旧訳)と八十巻本(新訳)の比較
(旧訳)心如工画師 画種種五陰 一切世界中 無法而不造
(新訳)心如工画師 能画諸世間 五蘊悉従生 無法而不造

(旧訳)如心仏亦爾 如仏衆生然 心仏及衆生 是三無差別
(新訳)如心仏亦爾 如仏衆生然 応知仏与心 体性皆無尽

(旧訳)諸仏悉了知 一切従心転 若能如是解 彼人見真仏
(新訳)若人知心行 普造諸世間 是人則見仏 了仏真実性

(旧訳)心亦非是身 身亦非是心 作一切仏事 自在未曾有
(新訳)心不住於身 身亦不住心 而能作仏事 自在未曾有

(旧訳)若人欲求知 三世一切仏 応当如是観 心造諸如来
(新訳)若人欲了知 三世一切仏 応観法界性 一切唯心造



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