【書き下し文】 君の名、余は之を聞くこと久し。而も未だ与に相見ゆること有らざるなり。 明治二十三年、帝国議会、肇めて開かれ、商法施行を停むるの議、出づ。君、壇に立ち、商法の速かに施行せざるべからざるを盛んに論ず。余、始めて君に見ゆるを得るも、而も未だ与に語ること有らざるなり。君の状貌は端荘にして、甚しくは口弁無しと雖も、而も言は一一肺腑より出づ。蓋し、学を中に殖へ、而して之を已むを得べからざる者に出だすならん。是を以て、当時の議士、騰口讙譁を好む者多しと雖も、皆、論を卒るまで焉を傾聴せざるは莫し。議、已に畢りて、衆皆退きて食す。余、適ゝ君と卓を連ね、始めて語を交はす。未だ其の蘊む所を叩くに至らずと雖も、益ゝ其の人と為りを欽しみ、一日与に深く語ること有らんと欲し、心に窃かに之を楽しむ。 之を久しうして、卒然として君の訃を新報紙上に獲。実に明治二十六年二月なり。 頃者、君の友人及び門生、相共に謀りて、君の為に碑を建てんとし、余に文を徴む。咸謂ふ「子、其れ辞すること勿れ」と。余の君を仰慕する日為る久しきを以て、遂に敢て辞せず。 状を按ずるに、君、諱は浩蔵、前羽の人なり。世ゝ織田藩に事へ、天童に家す。嘉永三年二月八日を以て生まる。考、諱は玄玄、武田姓なり。君は其の第二子にして、出でて宮城氏を嗣ぐ。君は天資英邁にして少くして学を好み、武伎を兼習す。夙に藩学養生館に入りて業に勤む。藩主信学公、其の才を愛し、擢きて館の句読師と為す。時に年、甫めて十五なり。 戊辰の歳、王師東下し、織田公を以て先導と為す。君、従ひて吉田大八の麾下に在り。大八、君の胆勇を愛し、常に側に居らしむ。事平らぎ、藩命もて酒田に遊び、松江藩の戌兵に就きて英国の兵制を受く。既に帰り、藩師と為りて軍制を改革す。是の時に当り、干戈僅かに息む。士、皆疎豪にして、気を尚びて自ら喜び、文学を排斥す。藩学亦た幾んど廃る。君独り奮ひて学を倡ふるや、一藩翕然として之に応ず。所謂養生館復興し、少年相率ひて業に居るに至れるは、君の力なり。 明治二年、藩命もて出でて、兵法を東京に学ぶ。明年、官、制を創り、列藩をして俊秀の士を選びて官学に入らしむ。号して貢進生と称す。君亦た焉に与る。既にして貢進生罷む。藩、又命じて大学に入らしむ。業、益ゝ進む。居ること之に少らくして、官、明法寮なる者を設け、仏蘭西律を授く。君、大学より転じて之に赴く。明治九年、卒業し、法律学士の号を授く。官、又命じ、仏蘭西に遊び律を学ばしむ。留まること凡そ四年、巴黎大学に入る。学成り、仏国法律学士の号を授く。明治十三年、帰りて検事に任じ、判事、書記官、参事官に累進す。 明治二十二年、朝廷、方に著して憲令を定め、二月十一日を以て大典を挙ぐ。君、鵷列に班りて徽章を賜ふ。是より先、官、法典を編纂す。君、調査委員と為りて、藁を属す。民、商、訴訟の諸律の成るは、君、皆与りて焉に力有り。明年、刑律改正委員と為り、案を草す。是の歳、勲六等に叙せらる。 君、既に意を仕途に絶ち、代議士と為り、弁護を業とす。明治法律学校を設けて、之が主と為り、且つ親から徒に授く。前後十年、業を問ふ者は七千有余人。卒業者は千有余人に至る。蓋し、吾が邦の民間法律学校の権輿ならん。 明治二十六年二月、疾に臥すこと旬余、遂に起たず。是の日、一級を特進し、正六位に叙せらる。享年四十有四。谷中の里、天王寺に葬らる。著す所の刑法、民法、民事訴訟法正義は、皆、世に行はる。 余、韻文を能くせず。且つ、君の伝ふべき者は始めより詞藻に待つ無きを以て、乃ち之を文にして銘にせずと云ふ。 明治二十八年二月 高知 中江篤介撰 |
【現代語訳】 貴君の令名は、私はずっと前から聞いていたが、お目にかかる機会には長いことめぐまれなかった。 明治二十三年(一八九〇)、第一回の帝国議会が開催され、商法の施行を停止すべきだという議論が出た。貴君は登壇して「商法は速やかに施行されねばならない」と熱心に主張した。私は初めて君に会うことができたが、二人だけで話す機会はまだなかった。貴君の容貌は端正にして荘厳、決して口達者ではないが、一つ一つの言葉には心の底から出てきたような重みがあった。おそらく貴君は、深い学問を心の中にたくわえ、本当に言わねばならぬときだけ発言するタイプの男だったのであろう。こういうわけで、当時の議員たちは、みな自分の意見ばかり性急に主張する者が多かったのに、貴君が発言したときは、最後まで静かに聞いていたのである。議論が終わって退席し、食事の時間になった。私は偶然、君の隣の席になり、初めて会話することができた。貴君の深い教養に触れるような突っ込んだ話はできなかったものの、その日以来、私は貴君の人物を尊敬し、いつの日か心ゆくまで深く語りあいたいと思い、その日をひそかに楽しみにしていた。 ところが、それからしばらくして、突然、貴君の訃報を新聞紙上で目にした。明治二十六年(一八九三)二月のことである。 最近、君の友人と門下生たちが、君のために記念碑を建立する計画を立て、私に漢文の碑文を書くよう求めてきた。みな「どうか辞退しないでください」と言うし、私もずっと貴君を慕ってきたことでもあり、自分の文才の無さをかえりみず、あえてひきうけた次第である。 貴君の経歴を見ると、貴君のいみなは浩蔵、出羽の国の人である。貴君の実家は代々、織田信長の子孫である織田藩につかえ、天童の地に住んだ。貴君は嘉永三年二月八日【正しくは嘉永五年四月十五日】に生まれた。御父君のいみなは玄玄、武田姓であった。第二子として生まれた貴君は、養子に出され、宮城家の跡継ぎとなった。 貴君は生まれつき頭が良く、幼少の時から勉強を好み、武芸も習った。天童藩の藩校である養生館【正しくは養正館】に入って学業につとめた。藩主の織田長学(おだ・のぶみち)公は貴君の才能を愛し、わずか十五歳だった貴君を藩校の句読師に抜擢したほどであった。 戊辰戦争が始まった年(一八六八年)、官軍が東日本に来て、織田公が先導役を命じられた。吉田大八が織田公の名代とし官軍を先導したが、貴君はその吉田のもとにあった。吉田は貴君の勇気を愛し、いつもそばに置いた。その後、貴君は天童藩からの命令を受け、松江藩の衛兵についてイギリス式兵学を学び、天童藩に戻ったあとは指南役として藩の軍事制度を改革した。戊辰戦争の合間、戦闘が少しやんだ小康状態の時期があった。武士たちは戦争で興奮状態となり、粗暴で豪快な気風をたっとび、文化や学問を軽んじた。藩校も事実上、廃校寸前の状態になった。そんな時代でも、貴君はただ一人、学問の重要さを提唱した。天童藩全体はたちまち貴君の熱意に動かされた。いわゆる養生館【養正館】が復興し、若者たちが学業に残ったのは、君のおかげである。 明治二年、貴君は藩命を受けて、東京に出て兵法を学んだ。翌年、新政府は「貢進生」という制度を作り、各藩から優秀な人材を選んで官立学校に入学させた。貴君もこれに参加した。その後、貢進生の制度が廃止されると、貴君は藩命により、今度は大学に入学し、ますます学業を深めた。しばらくして、政府は明法寮という学校を作り、フランスの法律の授業をした。貴君は大学からこちらに転入し、明治九年に卒業、法律学士の学位を得た。その後、貴君は政府の命令で、フランスに留学して法律を学んだ。留学すること四年にして、パリ大学に入り、フランスの法律学士の学位を得た。明治十三年、帰国して検事に任じられ、その後、判事、書記官、参事官を歴任し、昇進を重ねた。 明治二十二年、政府により憲法が制定され、二月二十一日に憲法発布の大典が挙行された。貴君は官僚の一員として褒賞を授与された。これより先、政府は法典を編纂した。貴君は調査委員となり、原稿を作成した。民法、商法、訴訟法などの法律が完成を見たのは、どれも貴君が参与して力を注いだおかげである。翌年、貴君は刑事法改正委員となり、その草案を書いた。この年、貴君は勲六等に叙せられた。 その後、貴君は官吏の出世コースをやめて、帝国議会の議員に転身し、弁護士の仕事もした。また明治法律学校(明治大学の前身)を設立してその長となり、みずからも学生に教えた。前後十年のあいだに授業を受けた者は七千人以上、卒業した者は千人以上にのぼる。わが国初の私立の法律学校と言えよう。 明治二十六年二月、貴君は病に倒れ、十日あまり寝ついたまま、ついに快復しなかった。亡くなった日、貴君は官位を一級特進され、正六位になった。享年四十四【正しくは四十一】。墓は東京・谷中の天王寺にある。貴君が書いた『刑法講義』『民法正義』『民事訴訟法正義』などの著作は、どれもみな、今も広く読まれている。 私は美文調の韻文を書くのが苦手であるし、そもそも貴君の立派な生涯は、空疎な美文で飾りたてる必要はない。そこで私は詩的な墓碑銘ではなく、散文体で碑文を書いた次第である。 明治二十八年二月 高知 中江篤介撰 |