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近眼の鸚鵡(おうむ)

広島大学総合科学部 人間文化コース  加藤 徹

 平和公園の元安橋(もとやすばし)のたもとに「レストハウス」という古ぼけた小さな建物がある。原爆ドームとは元安川をはさんで斜め向かい側の位置にある。被爆建築であるが、観光案内所や「おみやげ」の店が入っていて、今も現役の休憩所兼事務所として機能している。このレストハウスは、対岸の原爆ドームが世界遺産に登録されたのとは対照的に、老朽化のため、いずれ取り壊される予定だという。
 ぼくは東千田(ひがしせんだ)キャンパスでの夜間の授業のあとなど、ときたま閉館後の無人のレストハウスの前を自転車で通りかかることがある。そんなとき、自転車をとめ、五十四年前の惨状を思う。
 昭和二十年のあの日の朝。当時「広島県燃料配給統制組合本部」だったこの建物も閃光(せんこう)を浴びた。爆心地からわずか百メートル余という至近距離だったが、この建物の中にいた男女のうち八人が即死をまぬかれ、血を流しながら外に這い出した。あたりは、朝だというのに半月(はんげつ)の夜ほどの暗さで、百七十メートル離れた対岸の産業奨励館(原爆ドーム)も、崩れかけてはいたがまだ火の手は上がっておらず、深い静寂につつまれていた。しばらくして、あたりに火がつきはじめた。爆発時に「組合本部」の地下室にいたため軽傷で済んだ一人の男性が、救援を求めるため、火の粉(こ)が舞い始めた暗闇の廃墟の中を、広島市西部の己斐(こい)方面に向かった。結局、この男性が唯一の生存者になった(野村英三さん。1982年に84歳で死去)。−−
 その「現場」は、たしかにここだ。現に、金属製の説明プレートも立っている。頭ではわかる。しかし、イメージできない。どうしても、去年みた外国映画ほどの現実感すらわかないのだ。・・・それは別に、夜の平和公園のコンクリートの上をすべる帽子の若者たちのスケートボードの音のせいではない。また、川むこうで夜空を無遠慮に照らしあげている野球場のライトのせいでもない。おそらく、われわれ人間ひとりひとりが本質的にもつのような「孤独」のせいなのだ。われわれは平素、自分がこの透明な孤独のに包まれていることを忘れている。例外は、昼間、緑の木陰で修学旅行の中高生たちに静かに被爆体験を語るボランティアのお年寄りたちかもしれない。
 知るだけでは足りない。実感できねばいけないのだろう。否(いな)、実感でも不十分だ。思い出さねばならぬのだろう。たとえそれが、自分の生まれる前の、遠い他人の記憶であったとしても。
 もし、文学とか音楽などというものに何か価値があるのだとしたら、それは、人間が本質的にもつのような孤独を、一瞬だけ癒(いや)してくれる点にあるのだろう。ぼくは明日も大学の教壇に立つ。そして「中国文学」という看板を見て集まった学生さんを前に「文学とは『一瞬の癒し』のために、人間の秘密を熟知していた先人たちが作った装置である」などとご託を並べるのだ。本当のところは、ぼくもまた、夜のレストハウスを前に途方にくれる近眼の鸚鵡(おうむ)にすぎないのだが。・・・

(1999,6,4)

(注)本稿は広島大学総合科学部の雑誌『飛翔』のために書いたもの。


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爆心地から100メートル地点での生存者[野村英三さんの手記](1950)