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加藤徹教授による京劇談義 Q&A

最初の公開2017-5-3 最新の更新2017-5-4

  1. 京劇について
  2. 今回の演目三作品について
  3. 衣装やメイクなど視覚的要素について
  4. 歌やセリフなど聴覚的要素について
  5. 今回の公演の見どころ
  6. 中国国家京劇院
 本稿は、
「中国国家京劇院2017」公演パンフレット
(民音、2017年3月)
pp.5-13「加藤徹教授による京劇談義Q&A」
 の原稿です。一般の読者が読みやすいように、「ですます調」の問答体で書きました。質問(Q)も回答(A)も、筆者(加藤)による書き下ろしです。
 完成した公演パンレットには、文字テキストの他に、読者の理解に役立つ写真が大量に掲載されていますが、こちらの頁では写真およびキャプションは全て割愛し、筆者の原稿の文字テキストのみを掲載します。またパンフレットの完成版では、ふりがなを多めにふって小学生でも読めるようにしてありますが、こちらは「原稿版」のままです。
 無断転載禁止ですが、常識的な範囲での引用・リンク等はご自由にどうぞ(いちいち私にご連絡くださらなくてもOKです)。

★京劇について★
 私は中国語ができませんが、京劇を見てわかるでしょうか?
 日本公演では、日本語の字幕が舞台の周囲のスクリーンに映写されます。心配無用です。
 京劇って、一言でいうとどんな芝居ですか?
 日本でいえば歌舞伎にあたる伝統的な芝居です。
 そもそも何で「京劇」って言うんですか?
 中国の首都である北京の芝居、という意味です。ちなみに、日本語では京劇をキョウゲキと読みますが、昭和の前半まではケイゲキと読んでました。
 京劇の歴史って、古いんですか?
 二百年ちょっとです。十八世紀の末、清朝の首都・北京で誕生しました。ただし京劇はある日突然に生まれたわけではなくて、京劇の前身となった地方劇があります。それまでさかのぼれば、もっと古いですよ。
 昔、映画もテレビもなかったころ、京劇は民衆の娯楽の王様として、絶大な人気をもっていました。二十世紀の前半には、梅蘭芳(メイ・ランファン)とか程硯秋(てい・けんしゅう)など京劇史に名前を残す名優がたくさんあらわれて、今の京劇の風格が確立しました。
 今の中国の若者は、日本のアニメとか韓流ドラマに夢中で、京劇をあまり見なくなりました。そのいっぽう、京劇は中国の伝統文化を代表する舞台芸術として、根強い人気をもっています。2010年、京劇はユネスコの世界文化遺産に登録されました。


★今回の演目三作品について★
痛快活劇「金銭豹」
 正直、私は京劇はよくわかりませんが、孫悟空は大好きです。演目の名前にもなっている「金銭豹」って何ですか?  お金もちのヒョウ、という意味ですか?
 「穴のあいた黄金のコインのような、まだらの黄色い模様をもつヒョウ」という意味です。中国には「華北豹」と言って、野生のヒョウが生息しています。そのヒョウの妖怪と、三蔵法師らの一行が対決する、というのが、今回の芝居です。
 ヒョウの妖怪は強いんですか?
 強いですよ。孫悟空が戦う相手は、仮面ライダーの怪人よりも多彩です。巨霊神や牛魔王のような巨漢タイプもいれば、白骨精や蜘蛛女のような美女タイプもいます。
 今回の敵であるヒョウは、しなやかな筋肉をもつ肉食獣です。サルである孫悟空の強みは動きの俊敏さですが、金銭豹は、孫悟空と互角以上のスピードですばしこく動き回ります。孫悟空にとって、自分と同質の強敵です。
 京劇の三蔵法師の顔のメイクは、女性っぽい化粧ですが、女性なんですか?
 史実でも舞台のうえでも、三蔵法師は男性です。日本のテレビドラマでは、三蔵法師を夏目雅子さんとか深津絵里さんとか女優さんが演じたりします。中国人もビックリです(笑)。
 京劇の三蔵法師の顔のメイクが白地にピンクなのは、舞台上の見栄えを考えての演出です。
 三蔵法師って、馬でシルクロードを旅してるはずですよね。京劇の舞台には、馬が出てきませんが?
 京劇の演技の約束ごとで、役者が手に「馬の鞭」を持つと、その人物は馬に乗っていることを表します。鞭の色は、馬の毛並みの色を示します。三蔵法師が、手に馬の鞭をもつシーンがあれば 、彼は足ではなく馬に乗って移動している、という意味になります。

不朽の名作「太真外伝」
 「太真外伝」についてお聞きします。「太い、まことの、外に伝わる」って、どういう意味ですか?
 「外伝」は、「本伝」ではない「異聞」「異説」を漠然と指す言葉です。アニメが好きな若い人に対しては、「外伝」は「アナザー・ストーリー」「サイド・ストーリー」「スピン・オフ作品」を漠然とまとめて指す言葉ですよ、と説明すると、わかりやすいでしょう。
 絶世の美女であった楊貴妃(ようきひ)と、彼女と永遠の愛を誓った玄宗皇帝(げんそうこうてい)は、唐(とう)の時代に実在した人物です。彼らの事績の「本伝」は、中国の王朝が編纂した公的な歴史書に記載されています。
 いっぽう、楊貴妃と玄宗には、説話上の人物という側面もあります。唐の時代は、仏教とともに、中国固有の宗教である道教も盛んでした。楊貴妃も道教徒として「太真」という道号をもっていたので、「楊太真」とも呼ばれます。
 玄宗は生前、歌舞音曲を愛好し、「梨園」(りえん)と呼ばれる宮廷歌舞団兼俳優養成所を作り、みずから作曲もしました。「梨園」は後世、中国や日本で、伝統芸能の世界を指す名称として使われるようになりました。また玄宗は、道教では演劇や歌舞音曲など芸能の守護神とされ、楽屋で祀られるようになりました。
 昔は、玄宗は芝居の神様なので、舞台上で彼を変に演じてしまうと、そのたたりで劇団が解散に追い込まれる、という迷信があったほどです。
 唐の漢詩人・白居易は、楊貴妃と玄宗皇帝のロマンスを、「長恨歌」という長編の漢詩に詠みました。その中に、

七月七日長生殿  七月七日、長生殿
夜半無人私語時  夜半、人無く私語する時
在天願作比翼鳥  天にありては願わくば比翼の鳥となり
在地願爲連理枝  地にありては願はくば連理の枝とならん

という詩句があります。七夕(たなばた)の夜、楊貴妃と玄宗は二人だけになった時、永遠の愛を誓いあいました。空に生まれ変わるなら、オスとメスが翼をつなげて飛ぶ伝説の比翼の鳥になりたい。地上に生まれ変わるなら、二本の並んだ木の枝が一本の木のようにつながる珍しい連理の枝になりたい。これからはずっと一緒だよ、という愛の誓いです。
 今の日本語の「比翼連理」という四字成語は、楊貴妃と玄宗の「外伝」に由来します。

人情劇「鎖麟嚢」
 京劇と、日本語の成語がつながっているなんて、驚きです。やはり、日本と中国は縁が深いんですね。……「鎖麟嚢」って、どういう意味ですか?
 直訳すると「麟を鎖す嚢」(リンをトザすフクロ)、つまり「麒麟(きりん)を閉じ込めておく袋」という意味です。
 麒麟は、竜や鳳凰と同様、昔の伝説に出てくるめでたい動物です。 動物園にいる、アフリカ原産の首の長いキリンとは別物です。伝説の麒麟は、日本ではビールの瓶や缶に描かれています。昔の中国では「麒麟送子」(きりんそうし)と言って、優秀な子供は麒麟が母親のお腹に運んできてくれる、という言い伝えがありました。そうして生まれた優秀な子供は「麒麟児」(きりんじ)と呼ばれました。そういえば昭和の日本でも、麒麟児という名前の相撲取りがいましたね。
 「鎖麟嚢」は、嫁入りの縁起物です。娘が結婚するとき、親が「早く子宝に恵まれますよう。麒麟児が生まれますよう」という願いをこめて、娘に持たせる一種のお守り袋のことです。
 この「鎖麟嚢」の話って、実際にあったことなんですか?
 はい。実話をもとにしたフィクションです。清(しん)の時代の文人だった胡承普(1733〜1806)が書いた『隻麈談』という本に載っている話からヒントを得て、劇作家の翁偶虹(おう・ぐうこう)が書き下ろした作品です。
 事前にあらすじを説明すると、ネタバレになってしまうので自粛しますが、この芝居は「格差社会」とか「想定外の天災」とか、現代の日本人が見てもいろいろ考えさせられます。
 21世紀の現代でも、人間は、貧乏とか金持ちとか、格差に悩む。地震とか洪水とか津波とか、想定外の災難で一瞬にしてすべてを失うこともある。でも、心の絆さえあれば、人間は生きてゆける。そんなメッセージ性に富んだ京劇の名作です。


★衣装やメイクなど視覚的要素について★
 京劇の女性役の顔って、みんなメイクがそっくりですね。「太真外伝」の楊貴妃の顔と、「鎖麟嚢」の女性たちの顔は、遠目に見ると同じに見えます。どうしてですか?
 アニメと同じ理由です。様式美です。日本のアニメを見ると、登場人物の顔立ちは基本的にそろえてあります。例えば、国民的テレビアニメ「サザエさん」の登場人物はどんぐりまなこに丸顔です。「サザエさん」のアニメの中に、いきなり、スタジオ・ジブリのナウシカみたいな顔ができたら、おかしいでしょう。それと同じです。
 え、アニメですか……?
 実写映画とアニメは全然違います。京劇は舞台演劇ですが、コンセプトとしては、実写映画より、むしろアニメに近い。アニメも京劇も、いろいろな「お約束」があります。そこがまた、面白さにつながります。
 例えば、京劇の登場人物のメイクは、基本的に3種類しかありません。
 ふつうの男女は色白で面長のメイクで、これは中国語では「俊扮」と呼びます。
 豪傑とか妖怪などクセのある人間離れした役柄や、滑稽な演技で客の笑いをとる道化役は、顔に「くまどり」を描きます。
 その他、老人は暗めのファンデーションを塗ります。
 でも「太真外伝」の楊貴妃は、絶世の美女ですよね? 彼女のメイクは、特別じゃないんですか?
 楊貴妃の顔のメイクも普通の「俊扮」です。釣り目、色白、面長、の三拍子がそろったメイクです。実は、「鎖麒嚢」のヒロインや侍女も、玄宗皇帝や三蔵法師も、みんな釣り目、色白、面長です。メイクだけ見ても、キャラは区別できません。楊貴妃が絶世の美女であることは、彼女が舞台上で身に着けるアクセサリーとか、歌やセリフで示します。
 なんで同じ顔に描くのですか? 理解しがたいですね。
 そこが、伝統演劇たるゆえんなのですよ。
 そもそも昔の東洋人は「究極の美男美女は、誰が見ても美しいと思うはずだ。つまり、美は普遍的なはずだ。個性は普遍の反対だから美しくない」と考えていました。日本の「源氏物語絵巻」の美女たちの顔とか、浮世絵の美女たちの顔も、わざと没個性的に描かれています。個性は美しい、というのは、近代西洋の発想です。
 西洋の芸術家は、古代のギリシャやローマ以来、人間の顔や肉体を、その人の精神の象徴として個性的に描きます。東洋の芸術の発想は違います。顔だちの美醜とか、背の高い低いは、遺伝によって先天的に決まるもので、その人の責任ではありません。むしろ、後天的に身に着ける着衣や装身具などは、その人の教養とか気品など、精神的な個性があらわれます。そこで昔の東洋人は、文学や絵画のなかで、服装や装身具の描写を通じてその人の個性を表すようになったのです。
 京劇のキャラを見るときは、顔立ちよりも、服装とかアクセサリーに着目すると、そのキャラの個性がわかります。
 でも、孫悟空とか猪八戒とか金銭豹とか、ずいぶん個性的な顔だちのキャラもいますけど。
 そのとおり。京劇では、顔にくまどりを描いて個性を強調するキャラは、美男子じゃありません。孫悟空は正義のヒーローですが、美男子ではないです。そもそもサルですし。
 でも、美男美女は、なんで釣り目にするんですか? ちょっと怖いです。
 やっぱり怖いですか(笑)。慣れと好みの問題もあります。京劇の登場人物は、道化役を除くと、みんなテンションが高い感じで演じます。京劇の役者さんも、素顔はたれ目でやさしかったり、ふだんは低いおだやかな声でしゃべる人も、実は多いのです。しかしいったん舞台にのぼると、京劇の伝統的な約束ごとで、美男美女の役は、キリリとつりあがった眉毛を描き、甲高くて鋭い声を出したりします。いずれも緊張感とか、テンションを高めるための工夫です。
 なんで京劇はそんなに緊張感を好むのですか?
 北の芝居だからです。中華料理と同じですよ。南の広東料理や上海料理は甘口だけど、西の四川料理は辛口で、北の北京料理はキリッと塩味がきいている。中国の地方劇も同じで、伴奏楽器の音色も、俳優の演技や歌声も、地方ごとに甘口だったり辛口だったりする。京劇がある北京は、夏は猛暑で冬は寒いし、空気は乾燥しているし、万事につけてキリッとしたのが好みなのです。
 京劇の衣装はみんな厚着ですね。なぜですか?
 昔の儒教が「衣冠」を重んじた影響です。京劇の登場人物は、原則として、夏服も冬服もありません。京劇の衣装は、登場人物の身分を示すアイテムなので、いろいろ着こむ必要があるのです。例えば、良家の婦女はスカートですが、侍女はズボン、とか。
 「金銭豹」の孫悟空とか、適役の金銭豹も、役者さんはびっちり衣装を着こんでます。暑くないんでしょうか?
 もちろん暑いですよ。普通の人があんなに厚着して、舞台の上で激しく動き回ったら、熱中症や脱水症状で倒れてしまうかもしれません。でも、京劇の役者は子供のころから訓練を積んでいるので、厚着のままでも、あんな激しい立ち回りを演じられるのです。
 京劇の衣装って、時代考証とかはあるのでしょうか?
 歌舞伎や能と同じです。時代はあんまり考慮しません。
 例えば「太真外伝」や「金銭豹」は、唐の時代の話です。「鎖麟嚢」の原話は、清の時代の実話です。唐と清では千年くらい時代が違いますが、京劇の登場人物は、同様の衣装を着ます。日本でも中国でも、伝統演劇は、現代の映画やテレビドラマのような意味での時代考証とは無縁です。
 京劇の衣装の色は、なんであんなに派手なんでしょうか。孫悟空の衣装は黄色で、派手ですし。
 色彩は文化です。古来、中国では「赤」はめでたい色です。「鎖麟嚢」で、嫁入りするヒロインが真っ赤な服を着ているのは、中国では赤はめでたい色だからです。いっぽう「白」は、中国では不吉な色で、喪服などに使われます。「黄」は特別な色で、京劇では、黄色い衣装は皇帝だけが着用できます。
 なるほど、それで「太真外伝」のポスターの玄宗皇帝は、黄色い衣装なんですね。でも、「金銭豹」の孫悟空はサルなのに、なんで黄色なんですか?
 孫悟空も実は「美猴王」だからですよ。孫悟空は、三蔵法師の弟子になる前は、たいへんな暴れん坊でした。みずから「王」を名乗り、天宮に殴り込みをかけ、天帝とはりあったほどでした。そんな過去のいきさつのなごりで、京劇の孫悟空と、その家来の子ザルたちは、黄色い服を着ています。
 なるほど。京劇の衣装の色とか、顔のメイクとか、予備知識がなくても「きらびやかできれいだな」と楽しめますが、実は、私たち東洋人の先祖の美意識と結びついていたのですね。


★歌やセリフなど聴覚的要素について★
 京劇のセリフって、ふつうの中国語なんですか?
 役柄によって違います。笑いをとる道化役とか、侍女や庶民の役は「京白」といって、北京語をしゃべります。京白は、ふつうの中国語に近いので、中国の若い人も耳で聞いて理解できます。
 でも、玄宗皇帝とか楊貴妃とか三蔵法師とか、歴史的に「古人」と呼ばれるのにふさわしい人物は「韻白」という特殊な言葉をしゃべります。「鎖麟嚢」のヒロインは、歴史上の人物ではありませんが、上流階級なので韻白をしゃべります。
 韻白は、芝居専用に作られた人工言語です。発音も語彙も、ふつうの中国語と全然違います。中国人も「韻白」は、耳できいてもわかりません。
 え、中国人も京劇を耳できいて、わからないんですか?
 京白は耳できいてわかりますよ。でも、韻白は、中国人といえども、字幕がないとわかりません。日本人だって、能のセリフは、字幕がないとわからないでしょう。伝統演劇とは、そういうものです。
 なんで京劇の美男美女は、北京語を使わないんですか?
 大昔の北京は、田舎町だったからです。今でこそ北京は中国の首都ですが、歴史をさかのぼると、二千年前の北京は辺境の都市でした。なにしろ、万里の長城が、北京のすぐそばにあるくらいですからね。日本の東京だって、今は首都として威張ってますが、千年前には何もない田舎でした。これは悪口じゃないです。北京も東京も、表向きは世界的な大都市ですが、庶民の生活レベルでは、ゴチャゴチャした路地だとか、近所づきあいとか、今でも良い意味での田舎っぽさが残っています。私はそこが大好きです。
 歴史をさかのぼると、日本では近畿地方が、中国ではいわゆる「中原」が、いにしえの「みやび」の文化の中心地でした。日本の能の役者が江戸弁のセリフをしゃべったり、京劇のセレブが北京語をしゃべると、雰囲気が壊れます。そこで、舞台用に作った古風で優雅な人工言語を使うわけです。
 京劇って、なんであんなにカンカンと銅鑼をやかましく鳴らすんですか?
 中国人は、にぎやかなのが好きなんですよ。今でこそ中国の芝居は、町の劇場の建物の中で演じられますが、昔は農村の祭りの時に野外の劇場で演じられることも多かった。抜けるような青空のもとでカンカンと鳴る銅鑼を聞くと、ちっともうるさくない。また銅鑼のカンカンという音は、爆竹をパンパン鳴らすのと同じで、目に見えない災いとか妖怪を追い払う厄除けの効果がある、と昔の人は信じていました。
 もう一つの理由は、京劇の役者は、銅鑼などの打楽器のリズムにあわせて演技をするからです。孫悟空と金銭豹の戦いの立ち回りなんかは、打楽器がないと、演ずるのは難しい。棒などの武器をぶんぶん振り回す。兵隊役の役者たちはぐるぐると宙を回転しながらスクランブル交差点みたいに飛び出してくる。1秒でもタイミングがずれたら、大けがをしてしまいます。特に昔、電気の照明がなかった時代は、薄暗い舞台の上でも、打楽器のリズムのサポートがあれば、安心して演技ができました。
 今もそのなごりで、京劇は打楽器を過剰なほどに使うんです。
 京劇の伴奏は、生演奏なんですか?
 公演によります。役者にとっては、生演奏のほうが演じやすい。楽隊が、役者の演技にリズムをあわせてくれますからね。でも最近は経費の関係で、録音を使うこともあります。歌はともかく、戦いの立ち回りの演技は録音だと厳しいですね。役者が機械に合わせないといけませんので。
 生演奏の場合、楽隊はどこにいるんですか?
 ふつうは、舞台の上手(かみて)の幕の中です。舞台の用語では、客席にすわっているお客さんから見て、右手を上手、左手を下手(しもて)、と言います。 京劇の役者は、下手から舞台に登場して、上手から退場することが多い。楽隊が上手に陣取ったほうが、役者が登場するタイミングにあわせて演奏するのに好都合なのです。ただし、これは厳密な決まりではありません。
 西洋のオペラの劇場では、客席と舞台のあいだにオーケストラ・ピットという空間を設けて、そこに楽隊を入れます。京劇でも、洋楽器の楽隊と合奏する現代京劇を演じる場合は、オペラと同様に、オーケストラ・ピットを使うことがあります。
 京劇の楽隊 は何人ですか?
 基本は8人前後です。打楽器担当の「武場」と、メロディー楽器担当の「文場」に分かれます。
 打楽器のメインは、カタカタカタカタ……とカスタネットのような乾いた音色の「単皮鼓」と、チッ、チッという音色の「檀板」の二種類で、これは一人の「司鼓」が扱います。「司鼓」は、西洋の楽隊でいうと、コンサートマスターとか指揮者にあたり、楽隊全員のトップです。この司鼓のほかに、大きなドラである「大鑼」、小さなドラである「小鑼」、小さなシンバルである「鐃鈸」の担当者が、それぞれ一人います。打楽器担当は、この4人が必要最小限です。この他、演目によっては、効果音的に、大きな太鼓である「堂鼓」などを加えることもあります。
 メロディー楽器は、京劇では弦楽器がメインになります。筆頭は、キイキイと高音のバイオンリンのような音色をかなでる「京胡」です。京胡の奏者は「琴師」とも呼ばれ、楽隊全体では「司鼓」に次ぐナンバーツーです。そのほか、京胡より一オクターブ低い「京二胡」、マンドリンのようにタララララ…と歯切れのよい「月琴」、ヘビの皮をはった三味線である「三弦」のあわせて4人が基本編成です。余裕があれば、ギターに似た「中阮」、ベースに似た「大阮」、バンジョーに似た「秦琴」などの演奏者も加えることがあります。
 このほか、演目によっては管楽器を加えることもあります。いかにも中国的な独特の音色のフルートである「曲笛」、日本では屋台のラーメン屋さんの楽器として知られる「チャルメラ」、日本では雅楽の楽器でハーモニカのような音色の「笙」、等々。
 「司鼓」や「チャルメラ」などの例外を除き、京劇の楽器は、原則として一種類につき演奏者は一人づつです。
 京劇には楽譜があるんですか?
 昔はありませんでしたが、今はあります。京劇の俳優や楽隊を養成する学校では、楽譜を使って授業をしていますし、普通の書店でも京劇の有名な歌の楽譜を売っています。ネットでも、京劇の楽譜は入手できますよ。
 ただし、京劇の歌は、日本でいえば演歌のようなもので、楽譜で書きあらわしきれない微妙な「こぶし」とか、息のかすれなどを重視します。西洋のオペラは「歌」ですが、京劇の歌は、むしろ日本の詩吟とか能の「謡い」に近いところがあります。楽譜どおりに歌うと、かえって京劇らしい味わいがなくなってしまいます。
 ひょっとして、京劇のカラオケもありますか?
 ありますよ。一般の愛好者が自宅で練習できるように、京劇のカラオケのDVDとかCDを普通に売ってます。中国の店舗型カラオケでも、京劇の名場面の歌が、いくつか入っています。中国の観客にとって、京劇は舞台で見るだけでなく、京劇の歌を自分で覚えて、歌ったり演奏したりして楽しむものでもあったんですよ。今の日本の若者が、アニメソングを歌ったり演奏したりして楽しむのと、同じようなものです。
 今回の来日公演の京劇の歌も、有名なんですか?
 有名ですよ 。「太真外伝」は、世界的に有名な京劇俳優・梅蘭芳(1894〜1961)の代表作の一つでした。梅蘭芳の歌いかたや芸風を「梅派」と呼びます。「鎖麟嚢」は、梅蘭芳と並び称せられた名優・程硯秋(1904〜1958)の「程派」の代表作の一つです。
 梅派の歌いかたの特徴は、おおらかなことです。日本でたとえると、歌手の美空ひばりさんの歌に似ています。心がまっすぐ、ズシンと伝わってくる感じです。いっぽう、程派の歌いかたの特徴は、泣き節です。森進一さんの演歌に似ています。複雑な心のひだが、ウルウルと伝わってくる感じです。
 昔の京劇は、日本の歌舞伎と同様、男ばかりで演じていたと聞きましたが、そうだったんですか?
 はい。梅蘭芳も程硯秋も男性でしたが、舞台のうえでは、もっぱら女性の役を演じる「おんながた」でした。昔の中国は「男女、七歳にして席を同じくせず」という儒教の思想の影響もありました。また昔の女性の体格はひ弱だったので、京劇の重い衣装をつけて歌ったり踊ったりするには、ハンデがありました。
 でも、20世紀の前半から少しづつ、京劇でも女優と男優が共演するようになりました。現在では、京劇の女性の役は、女優が演ずるのがふつうになりました。
 ただ、笑いを取るおばさん役を男優が演じるなどの例外もあります。少数ですが「おんながた」の俳優もいます。


★今回の公演の見どころ★
 今回の公演のみどころは、どこでしょう?
 見どころが多すぎて、説明が難しいです(笑)。まあ、順を追って説明します。
 まず演目がすごいですね。京劇の演目は、歌やセリフが中心の「文戯」と、戦いの立ち回りが見せ場である「武戯」の二つに分かれます。
今回の演目のうち、「太真外伝」と「鎖麟嚢」は文戯ですが、「金銭豹」は武戯です。
 武戯は、言葉がわからない外国人や、大人の事情とか人情の機微がわかりにくい子供も、すんなり楽しめます。歌やセリフが多い文戯は、そうはいきません。
 「太真外伝」の楊貴妃や玄宗皇帝のロマンスは、日本でも有名ですから、まだいいです。でも「鎖麟嚢」は、京劇のなかでも屈指の名作の一つですが、ふつうは外国では公演しません。
 なぜですか? 「鎖麟嚢」って、外国人にとっては、そんなに難解な芝居なんですか?
 難解じゃないですよ。むしろ日本人にとっては、同じ東洋人として、とてもわかりやすい人情芝居ですよ。
 ただ、外国人をもてなす時の料理と同じで、段階というものがあります。初めて日本に来た外国人には、スシとかテンプラとか、外国でも名のしれた日本料理を出すのが無難です。
 楊貴妃の「太真外伝」は、スシのように豪華でぜいたくな雰囲気。孫悟空の「金銭豹」は、テンプラのように高カロリーでエネルギッシュ。外国人にもわかりやすい。
 それにくらべると、人情劇である「鎖麟嚢」は、職人が丹精込めてつくった「ざるそば」のようです。一見すると地味ですが、そばつゆの出汁とか、そばの切り方とか、端々に技巧が凝らしてあります。
 民音による中国国家京劇院の招へい公演は、今回で五回目になります。過去の交流の経験を積んできた中国側の、
「日本のみなさんに、ぜひ、最高の京劇を見ていただきたい」
 という本気度を感じます。


★中国国家京劇院★
 中国国家京劇院って、すごいんですか?
 すごいですよ。「京劇院」とは、複数の京劇団を傘下にもつ大規模な京劇の組織を指す名称です。中国各地に、京劇団や京劇院があります。その中でも、北京にある中国国家京劇院は唯一、国に直属する京劇団として1955年に設立されました。当初は中国京劇院という名前でしたが、2007年から中国国家京劇院に改称しました。初代の院長は、名優の梅蘭芳でした。彼は、周恩来から直々に依頼されて、院長に就任したのです。
 周恩来 って、あの政治家の?
 中華人民共和国の首相を長くつとめた、あの周恩来です。
周恩来は政治家として有名ですが、若いころは学生演劇の全国的なリーダーでした。
 周恩来の少年時代、中国は弱くて貧しい国でした。貧しくて学校に通えず文字を習えなかった民衆も、たくさんいました。本が読めない民衆も、芝居ならわかります。学生時代の周恩来は、民衆を啓蒙して社会を改革するため、仲間たちとともに、社会の矛盾を指摘する新しい芝居を舞台で演じ、評判になりました。当時の中国ではまだ現代劇ができる舞台女優が少なかったため、美男子だった周恩来は「おんながた」となって女性の役を演じました。当時の写真も残っています。そのころの周恩来は、売り出し中の若手だった梅蘭芳と、演劇の座談会であったこともありました。
 その後、周恩来はいろいろな経歴を経て、中華人民共和国の首相になりました。彼は文化や芸術がもつ力をよく知っており、政治家になったあとも、京劇や雑技など民衆が好む芸術を積極的に育成しました。
 「鎖麟嚢」は、もともと名優の程硯秋のために書き下ろされた京劇でしたが、周恩来はこの程硯秋とも親交を結びました。
 周恩来や梅蘭芳、程硯秋が世を去って久しいですが、彼らが心血を注いだ京劇は、今も生きているのです。
 やっぱり、すごい京劇団なんですね。
 でも、誤解していただきたくないのは、京劇はブランドではない、ということです。
 京劇の歴代の役者たちは「どうやったらお客さんに楽しんでいただけるだろうか」と、それだけを考えて、生涯をかけて京劇の「芸」を蓄積してきました。
 中国国家京劇院は名門中の名門ですが、それは全国から熱心な役者が集まった結果、そうなっているのです。
 例えば、今回の来日公演で舞台に立つ于魁智さんと李勝素さんもそうです。
 于魁智さんは1961年、遼寧省の瀋陽の一般家庭に生まれました。お父さんの職業は組み立て工で、お母さんは音楽の先生でした。于魁智さんは少年時代、地元の京劇団で活躍しましたが、その後、頂点を目指すため地元を飛び出して北京に行き、京劇の学校に入学して一生懸命芸を磨き、実力で京劇界の頂点に立ったのです。
 京劇のトップ女優である李勝素さんも、子供のころは、北京から遠く離れた河北省邢台市の地方劇の劇団員でした。十三歳のときにその才能を見込まれて京劇に転向し、努力の末、中国を代表する大女優になりました。
 なるほど。今回の来日公演は、最高の京劇団が「日本のお客様に、最高の京劇を見ていただきたい」と全力をあげて演じる、というわけですね。ワクワクしてきました。では、今日はこのへんで。

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