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本稿は広島大学の授業「情報活用教育」平成14年度の教材の加藤徹担当ぶんをアップしたものです。2003.8.3

2002年度 情報活用教育 加藤徹担当 授業教案  2002.5.9

3.1. インターネット的ネットワークの発想について

――エスペラント、創作漢詩文のサイトを例として




3.1.1. インターネット的なネットワークの特長

 「インターネット」は20世紀後半のアメリカで生まれたコンピューターによる情報ネットワークである。このネットワークの特長は、
(1)世界的な広がりをもつこと。
(2)双方向的であること。
(3)特定の政府や、特定の中央集権的な管理者に束縛されていないこと。言い換えると、秩序ある運営を維持するうえで、民間やボランティアの活躍の比重が大きいこと。【例 ドメインの管理】
  等である。
 生物の神経系にたとえて言えば、一般的な近代的組織(国家とか会社、軍隊など)の一局集中型情報ネットワークは、ヒトの神経組織に似ている。ヒトの神経は「脳」が中心である。効率的ではあるが、いったん脳が損傷を受けると、たとえ末端の神経が健在でも、組織全体がガタガタになってしまう。【例 武田信玄やナポレオンの軍隊の限界】
 一方、インターネット的な分散型ネットワークは、特定の「脳」を持たぬ原始的な生物の神経組織に似ている。このネットワークの一部が損傷しても、情報はただちに「迂回路」を取り伝達されるので、組織全体としては生き残れる。【例 ドイツ参謀本部】
 ヒトは首を切断されたら死ぬが、原始的な生物は体を分割されても、それぞれがまた一つの成体に再生できる。インターネット的なネットワークは、タフである。それゆえ、戦争や天災などにもインターネットは強いのである。【例 1995年の阪神淡路大震災のときも、通常の電話や携帯電話はつながりにくかったが、まだ普及しはじめたばかりのネットは強かった】
 インターネットは、コンピューターが発明されて初めて実現した。しかし、注意すべきは、インターネット的なネットワークのモデルは、コンピューターが発明されるずっと前から存在した、ということである。
 インターネットはある日突然、電子工学の研究室から生まれたものではない。19世紀以前からのさまざまな政治運動や文化活動の積み重ねによる文系的ノウハウの蓄積があって、初めて生まれたものである。【例 成定薫著『科学と社会のインターフェイス』にもあるとおり、科学や科学技術は、社会という土壌から生まれるものである。】

 
3.1.2. インターネットはなぜアメリカで生まれたか?

 インターネットの起源が、アメリカの国防政策と結びついていたことは、よく知られている。【坂村健『情報文明の日本モデル』(PHP新書、2001)79-80頁、91-92頁】
 インターネットはアメリカ的な、あるいはアングロ・サクソン的な発想や価値観の産物でもある。【アングロ・サクソンという言葉の起源が、アングル族とサクソン(ザクセン)族であるということを説明。また、いわゆる「WASP」という語についても説明】
 20世紀はアメリカの世紀だった、と言われる。たしかに、20世紀におけるアメリカの産業や科学技術の進歩はめざましかった。しかし、意外なことに、純粋にアメリカで発明されたものは、それほど多くはなかった。例えば、電信も、自動車も、飛行機も、ジェットエンジンも、レーダーも、ロケットも、原子力も、20世紀を変えた発明の大半はヨーロッパの科学技術に淵源をもつ。【例えば、戦前の日本の戦闘機設計者たちは、アメリカの飛行機を全然問題にしていなかったという事実。例えば、20世紀前半までは、医学の世界ではドイツ語が国際語だった。戦後、ドイツで流行した小話「米ソが別個に打ち上げた人工衛星が、宇宙で偶然に出くわした。人工衛星どうしは、こっそりささやきあった。「誰も見てないよ。さあ、ぼくらの母国語であるドイツ語でおしゃべりしよう」】
 こうした状況のなかで、アメリカで生まれた数少ない発明がインターネットである。アメリカ人がインターネットに対して、実用性以上の深い思い入れをいだく一因はここにある。【このほか、コカ・コーラ、ホットドッグなどにも思い入れ】
 近代的組織の要諦は「一局集中・一元管理」である。近代国家は、標準語を使う教育程度の高い国民、中央直属の国家権力(警察や軍隊)、中央集権的な政府の存在、などのうえに成り立つ。これは三点セットであり、どれが欠けても近代国家は成立しない。それゆえ、日本も含め、近代国家の多くは政府主導の「国語改革」をおこなって標準語を作り、義務教育をしき、「刀狩り」をおこなって民間人の「私兵化」を禁止した。【日本や中華人民共和国の、戦後の文字改革についても言及】
 しかし、アメリカは違った。「英語」は歴史上、一度も「国語改革」を経験していない(それゆえ英語のスペルは発音とのずれが大きい。また、英・米・豪など国によってスペルや発音も違う)。【渡部昇一『講談・英語の歴史』(PHP新書、2001)179頁の記述を紹介】そもそもアメリカは連邦制の国家であり、州政府は独自の法律や軍隊さえ持っている(余談ながら、英語では、プライベート=民間=兵士、ボランティア=義勇軍、の意味がある)。また、国家と市民の対等性を確保するため、国民の銃器所持さえ認められている。【映画「プライベート・ライアン」のプライベートの意味について説明。また映画「ランボー」に州兵が出てくることも言及。テレビドラマ「刑事コロンボ」旧シリーズにも、私立の軍人養成学校(!)の校長が殺人犯、という回がある。】
 こうしたアメリカ社会のありかたの善し悪しはしばらくおき、インターネット的ネットワークの精神が、このようなアメリカ的発想とどこかで結びついていることは、誰しも否定できぬところであろう。
 インターネットや「英語帝国主義」、エシュロン【漫画「ゴルゴ13」の最近の回で、このエシュロンがテーマになったことを言及】、などを結びつけて、唯一の超大国・アメリカの世界支配の象徴とみなす声も、日本では強い。しかし、インターネットの実態を見ると、必ずしもアメリカばかりがインターネットの利益を独占しているわけではない。【例えば、日本人は英語を学ぶとき、どうしても「完璧な英語」を学習しようとがんばり、自分で英語学習の負担を増やしてしまい、その結果、不必要なほどの「被害者意識」に陥りやすい。しかし、実際の英米人は外国人が使う破格の英語に対して寛容である。井上史雄『日本語は生き残れるか』(PHP新書、2001)160-165頁を紹介】
 むしろ「非アメリカ的」「非英語的」なものの立場を守る上でも、インターネットが役に立っている面もある。以下にその例を見よう。

 
3.1.3. 非一局集中型ネットワークの先駆、エスペラント運動

 インターネット的なネットワークの先駆として、特筆すべきものがある。「エスペラント」である。これは単なる人工言語(計画言語)であるにとどまらない。国境や、国家権力の束縛を超えて、個人と個人が平和友好のきずなを築こうとする一種の文化運動でもある。しかも、その運動の歴史はすでに一世紀以上の歴史をもつ。
 エスペラントは、中国語では「世界語」と呼ぶが、本質的には「橋渡し言語」(pontlingvo)である。異なる国の国民同士が国家や民族の枠を超えて交流するための「民際語」たることを理想とする。1887年7月14日、ユダヤ系ポーランド人の眼科医ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフ(1859-1917)が「エスペラント博士」のペンネームで独自に工夫した国際語を発表した。その当初から、エスペラントは、民族間の偏見や差別から人類を解放しよう、というエスペランチストの理想をになっていた。
 現在、世界に約100万人のエスペランチストが存在する。実利的な価値とは別のところで、これだけ国際的に普及した言葉は珍しい。日本でも、第二次世界大戦前まではエスペラント運動が盛んで、二葉亭四迷や大杉栄、新村出、出口王仁三郎、新渡戸稲造、北一輝、長谷川テル、宮沢賢治など【各人の略歴について、ごく簡単に言及】、多くの著名人がエスペラントを唱道したり、学習したりした。 エスペラントは計画的に作られた言語(人工語)であるため、きわめて合理的であるうえ、自然言語と同等以上の豊かな感情表現も可能である。エスペラントの文法はわずか16か条で、きわめて規則的であり、例外が無い。語彙は主にロマンス系言語とゲルマン系言語から採用しているが、接頭語や接尾語を駆使して少数の基本語から多数の派生語を規則的に作ることができるので、記憶の負担も少ない。このため、英語などの自然言語にくらべると、わずか数分の一の学習時間で同程度のレベルに到達できる。【梅棹忠夫『実戦・世界言語紀行』(岩波新書、1992)149頁、163-166頁の記述を紹介】
 エスペラントに「母国」は無いが、 世界エスペラント協会(UEA)や日本エスペラント協会(JEI)などの組織があり、エスペラント普及のための活動を行っている。また、自然言語の場合、年月の推移とともに必然的に「方言」が生じるものだが、エスペラントの世界では「方言」が生じないよう、いろいろな措置が講じられている。これは、インターネットの世界で、URLやメールアドレスが決してバッティングしないよう管理されている状況に似ている。
 インターネットは「英語帝国主義」の一翼を担うように言われているが、実は、エスペラントのような「希少言語」にとって追い風になっている面もある。昔ならば、手紙による文通など時間や金銭のかかる方法でしか連絡を取れなかった世界各国のエスペランチストが、サイトやメールで連絡を取れるようになり、エスペラントによる情報発信量は以前とくらべてむしろ増加しているからだ。エスペラント学習者も、ネット上のサイト等を使って、いろいろな知識や情報を仕入れることができるようになった。
[参考ホームページ]
http://home.hiroshima-u.ac.jp/cato/esperanto.html
http://www2s.biglobe.ne.jp/~jei/hp/esp.htm

 
3.1.4. インターネット上における漢詩文ルネッサンス

 漢文は「東洋のエスペラント」(魚返善雄)と言われる。二千年来、日本人は「筆談」によって、漢字文化圏に属する他国の人々と意志疎通した【例えば、幕末、米国船に密航しようとした吉田松陰は英語を話せなかったが、漢文による筆談によって意思疎通した。また、上海に渡った高杉晋作も、筆談によって意思疎通したが、「書館は何(いづ)くに在りや」と書いて、失敗した。中国語「書館」は、書店の意味ではない】。また日本人にとっての漢詩漢文は、外国文学であるばかりでなく、日本文学の一部をもなしていた。
 夏目漱石が漢詩人でもあったように、日本でも20世紀初頭のころまでは漢詩・漢文は表現手段として盛んに利用され、新聞にも俳句欄と並んで新作の漢詩を載せる漢詩蘭があった。【明治の頃まで詩といえば、漢詩を指し、日本語による詩は「新体詩」と呼ばれていた。若き日の毛沢東や張学良など、近代中国の政治家の多くも、西郷隆盛や乃木希典の書いた漢詩の愛読者だった】その後、昭和に入ると、日本人が漢詩文を書く習慣は衰退した。
 近年のインターネットの普及は、漢詩文を書く人々にとっても文芸復興の「追い風」になった。現在、漢詩を書ける人口は中国でも日本でも少ない。しかし、インターネットは、広く希薄な漢詩人口を再び一つの場に結びつける現象をもたらした。個々人が自作の漢詩を発表したり、漢詩の作り方を自習できるサイトを公開したり、創作漢詩をサイト上で募集したり、などの現象が見られるようになった。
 漢詩には「唱和」という習慣がある。かつては紙と筆写によって何年、何十年、何百年という歳月の単位で行われていた「唱和」も、現在はインターネットによって、簡単に行うことができる。
 現在のところ、日本語、中国語、朝鮮語のサイトについては、漢字の「文字コード」の互換性の問題が残っている。しかし、将来的に文字コード問題が解決されれば、「東洋のエスペラント」としての漢文が新しい形で復活する可能性もある。【坂村健『情報文明の日本モデル』(PHP新書、2001)116-146頁を紹介。また伊藤英俊『漢字文化とコンピュータ』(中公PC選書、1996)も紹介】そもそも「メール」や「チャット」は「筆談」である。本質的には漢詩文になじむものである。【江戸時代後半の武士は、歩いて行ったほうが早い距離でも「一筆箋」にメモを書いて渡すのを好んだ。「百人一首」の恋歌などが典型的だが、短歌の基本精神は「会話」であり、古代版iモードのような作品が多い】
 現在、日本で漢詩を書く人々は、中高年層が多いようである。それゆえ、創作漢詩関係のサイトの隆盛という現象は、「インターネットは若者のものだ」という思いこみを打ち破る良い薬にもなるであろう。【時間があれば、アコーディオンとか、医療情報など、老人にも好まれるサイトについても言及】
[参考ホームページ]
http://home.hiroshima-u.ac.jp/cato/GHS.html
http://www.chitanet.or.jp/users/junji/kansi/index.html-ssi
http://www5a.biglobe.ne.jp/~jinken/
http://member.nifty.ne.jp/setudou/jisaku.htm

 
3.1.5. まとめ

 日本では「インターネットの普及=英語帝国主義=世界文化の画一化」と危惧する声が強い。しかし、インターネットそのものは、あくまでも「道路」にすぎない。道路の善し悪しは土木技術よりも、その道路の設計思想に左右される。
 インターネットという道路が成功した要因は、設計思想として、アメリカ(ないしアングロ・サクソン)の「お家芸」である非一局集中型ネットワークを採用したところにある。
 現在のインターネットは、たしかに英語を母国語とする人々に有利になっている。が、だからといって、それを「英語帝国主義」の一語でくくる見方は偏狭である。現に、漢詩文(古典中国語)とかエスペラントなどの「希少言語」を使う人々にとっても、インターネットは便利である。「交通ルール」にのっとり、その道路に何をどのように走らせるかは、個々のネットユーザーの自由であると同時に、責任でもある。
 日本では、インターネットとか「IT化」というと、経済の効率化とか若年層の利用などが連想される。しかし、道路を走るのは新車やスポーツカーばかりではない。自転車も、老人や子供の歩行者も、時には動物さえも安心して使えるような、快適な道路にする必要がある。【パソコン用語改革の必要性】
 エスペラントや漢詩文など、一見、実用性に乏しく思える分野のサイトが今後、どのように発展してゆくか。それが、日本でインターネットが本当の意味で根づく度合いの、一つの目安となるであろう。