妖怪 ようかい参考 コトバンク https://kotobank.jp/word/妖怪-145561
化物(ばけもの)、変化(へんげ)のことで、「物の怪(け)」など人の理解を超えた怪異現象をもいう。妖怪の多くは、まじめな信仰の対象であった神霊が零落して、その畏怖(いふ)の念だけが残ったものといわれている。妖怪の特徴は、出現の時と場所がおおむね決まっていることである。出現は、昼夜の境目、いわゆるたそがれ(誰そ彼)時、逢魔(おうま)が時といわれる薄暮の時刻とされる。(以下略)
「読売新聞」書評 2019/09/01掲載 評者・加藤徹 日本現代怪異事典 副読本 朝里樹著 笠間書院 1800円 https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20190831-OYT8T50167/ 日本人は怪異が好きだ。幽霊や妖怪、「学校の怪談」やネット上の都市伝説など、常識からはずれた不可思議な現象や存在は、今も多い。本書は、膨大な怪異を、話の趣向、出没場所、使用凶器、都道府県ごとに分類し、イラストをまじえて紹介する。同著者の前著『日本現代怪異事典』の副読本という位置づけだが、本書だけでも楽しめる。 夜、タクシーの運転手が、墓地の近くで女性客を乗せる。目的地に着くと、客の姿はいつのまにか消えている。客は実は幽霊で、自宅に帰ったのだ。この「タクシー幽霊」の類話は昔からある。乗り物は変わってきた。江戸時代には、駕籠かごや、馬子がひく馬。明治には人力車。20世紀以降は自転車や自動車、電車。将来は「宇宙船幽霊」の怪異が出現するだろう。 新技術にも怪異は宿る。昔ながらの怪異は鏡の向こうの世界にひそむ。今はテレビやパソコンの中だ。ある小学校では、4月4日4時44分にパソコンを起動すると、画面に「AIババア」があらわれ、目の前の子どもをあの世に連れ去るという。時流に乗れぬ怪異もいる。筑波大学の学生新聞に載った「風化じいさん」は、ある宿舎に出現し、風化しかかった古文書をひたすら読む。なんか、身につまされる。 本書の隠し味は、知的な民俗学的考察だ。幽霊も妖怪も、男性より女性が多い。昔は雪女、産女うぶめ、砂かけ婆ばばあ、鬼婆、等々。今は口裂け女、トイレの花子さん、ひきこさん、カシマレイコ、等々。この背景として、著者は「社会的マイノリティへの不安」を指摘する。ただ、近年は男性の怪異も増加中だ。怪異は日本社会の鏡だ。 怪異は、本当かうそか。そんな詮索より、大事なことがある。著者は言う。「怪異を楽しめること、それはこの時代が平和であることの証左だ」。戦争や惨事の恐怖にロマンはない。怪異にはある。私たちが心の余裕を失わず、今後も怪異と隣あわせで暮らせることを願う。 |
どなたかが書いておられた。参考 『日本書紀』神代下・第九段:然、彼地多有螢火光神及蠅聲邪神、復有草木咸能言語。「くさきことごとくよくものいう」
「夜なかに街では街路樹がたがいに連絡しあったり、話しあったりしています」
それを読んだ日から私は夜ふけの静寂な路(みち)をポケットに手を入れて歩きながら、昼の排気ガスや乾いた地面で痛めつけられた街路樹や邸宅の庭の樹々が話しあっているのを感じた。
幼年の頃に信じていたこと、動物も樹々も話をするという童話の世界は、少年になって失われ、それが長く続いた。そして老いた今、ふたたびそのように失った世界を私はせつに欲している。なぜだろう。
シュタイナーという思想家がこう言っていた。人間は青年時代は肉体で世界を捉(とら)え、壮年の時は心と知で世界を捉えるが――老年になると魂で世界をつかまえようとすると。そして私もその三番目の魂の年齢になったからだ。