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TEZUKA Osamu 手塚治虫
Last updated 2023-7-7 Since 2019-3-20
○手塚治虫(てづか おさむ / TEZUKA Osamu / 데즈카 오사무 / 手塚治虫) 昭和3(1928)年11月3日−平成1(1989)年2月9日
漫画家・アニメ監督・医師。出生地は大阪府豊中市、出身地は兵庫県宝塚市。
手塚治虫 公式サイト https://tezukaosamu.net/jp/
漫画・アニメの巨人であった手塚治虫は、中国のアニメ映画『西遊記 鉄扇公主の巻』(1941)と、大日本帝国の国策アニメ映画『桃太郎 海の神兵』(1944)から多大の影響を受けた。
- 1941年1月1日、上海でアジア初の長編アニメ映画『西遊記 鉄扇公主の巻』(鐵扇公主 / 铁扇公主 / 철선공주 / Princess Iron Fan)公開。後に戦時下の日本にも輸入され、吹き替えで上映。
以下、https://tezukaosamu.net/jp/war/entry/18.html より引用。閲覧日2023年7月7日。引用開始。
そのころは情報局のほうから、子どもに情操教育(戦時教育)に則(のっと)って、いい映画を見せようと、つまり文化映画振興運動をやっていまして、アニメにも製作費がでたんですね。そのころに、わりとマンガ映画だけは健全に残っているんです。
(中略)その後、中国のアジアで初の長編アニメ「西遊記・鉄扇公主(てっせんこうしゅ)の巻」が入ってきたんです。(中略)この「西遊記・鉄扇公主の巻」は、子どもたちがむさぼるように見て、映画館はどこも満員札止めで、廊下のイスの上に乗って、ほんのわずか、ドアの上のすきまから見ていた子どもたちもいましたよ。そのくらい、子どもがマンガ映画に飢えているところにきたんですね。それに比べると「桃太郎の海鷲」という日本国産の長編アニメ第一号というのは、たしかにたいへん受けましたけれど、それほど喜ばれなかったようです。つまり、この映画は、内容が「ハワイ・マレー沖海戦」だったんですね。ところが、時局はそろそろ戦線が膠着(こうちゃく)して、どうも日本が負け戦(いくさ)らしいというのが知れわたってきたころだったんですね。それと、なによりもマンガ映画にまでなんでこんな戦争をもちこむんだという、失望感がありましたね。それに比べて、「鉄扇公主」は、戦争なんてものをおくびにもださずに、楽しませてくれましたから。ただし、後に聞いたところによると、あれは対日抗戦のパロディ映画だったそうですな。つまり、作り方のうまい、へたの差を感じましたね。
以下、https://tezukaosamu.net/jp/mushi/entry/25129.html より引用。閲覧日2023年7月7日。引用開始。
華:それが、万籟鳴(ワン・ライミン)先生でした。中国人初のアニメーターで、「中国アニメ界の父」といわれる人です。だから僕は幸いにも、万先生のもとでアニメの勉強をはじめることができたんです。万先生との出会いが、僕が手塚プロダクションで働く遠因になったんです。
*万籟鳴:1900年生まれ。中国初のアニメーション作家で、長きに渡って中国アニメを牽引した。日中戦争下の1941年、双子の万古蟾(ワン・グチャン)、弟の万超塵(ワン・チャオチェン)とともに、アジア初の長編アニメーション映画『西遊記 鉄扇公主の巻』(原題:鉄扇公主)を制作した。
────万籟鳴さんといえば、手塚先生が子どもの頃からリスペクトしているという......。
華:手塚先生は万三兄弟がつくった『西遊記 鉄扇公主の巻』を中学生のときに観て、大きな影響を受けたそうです。
手塚先生はもともとディズニーのアニメが大好きでした。ディズニーアニメはおもしろいけど、日本とはユーモアのセンスが違うでしょう。お隣の国、中国がつくったこういう作品のほうが日本人に受ける、だからこういうアニメをつくりたい。そう考えたそうです。
────手塚先生のアニメ制作のきっかけにもなったわけですよね。『西遊記 鉄扇公主の巻』に影響を受けて、『ぼくのそんごくう』が描かれたわけですし。
華:日中国交正常化以降は、手塚治虫先生と万籟鳴先生は実際に親交があったんです。手塚先生は亡くなる前年、1988年に上海で開かれた第1回国際アニメフェスティバルにも足を運んでくださり、万籟鳴先生とお会いしたそうです。
- 昭和20年(1945年)4月12日、手塚治虫は大阪松竹座で長編アニメ映画『桃太郎 海の神兵』(모모타로 바다의 신병 / 桃太郎 海之神兵 / Momotaro: Sacred Sailors)を見た。
以下、https://tezukaosamu.net/jp/war/entry/39.html より引用。閲覧日2023年7月7日。引用開始。
まず第一に感じたことは、この映画が文化映画的要素を多分に取り入れて、戦争物とは言いながら、実に平和な形式をとっている事である。熊が小鳥を籠から出して餌をやり、或(ある)いはてるてる坊主や風鈴が風に揺られている所など、あくどい面白さの合間合間に挟まれて何か観衆をホッとさせるものがあった。
次に感じたことは、マンガが非常に芸術映画化されたことである。即ち、実写のように、物体をあらゆる角度から描(えが)いてある。例えば、猿や犬が谷川に飛び込む所なぞ真に迫っていた。また映画の筋もこれまでになく判(はっ)きりとしていて、マンガというよりも記録の一種であった。
以下、https://tezukaosamu.net/jp/war/entry/40.html より引用。閲覧日2023年7月7日。引用開始。
敗戦の年の春、意外な傑作が突如として現れた。「桃太郎 海の神兵」全九巻の、文字通りの大作である。製作費二十七万円、監督瀬尾光世(せおみつよ)(現せお・たろう)、原画桑田良太郎(くわたりょうたろう)、音楽古関裕而(こせきゆうじ)、作詞サトウ・ハチロー、美術黒崎義介(くろさきよしすけ)というスタッフは堂々としたものであり、なによりも国産動画の総決算といった作品になった。
ところが、残念ながら東京、大阪ともすでに焼け野原となり、日本は矢折れ弾尽きて映画どころではなくなっていた。だいいち、観客である児童は各地に疎開している。ほとんど話題にもならずに葬られてしまった。
ぼくは焼け残った松竹座の、ひえびえとした客席でこれを観た。観ていて泣けてしようがなかった。感激のあまり涙が出てしまったのである。全編に溢(あふ)れた叙情性と童心が、希望も夢も消えてミイラのようになってしまったぼくの心を、暖かい光で照らしてくれたのだ。
「おれは漫画映画をつくるぞ」
と、ぼくは誓った。
「一生に一本でもいい。どんなに苦労したって、おれの漫画映画をつくって、この感激を子供たちに伝えてやる」
- 1963年1月1日、日本初となる30分枠のテレビアニメーションシリーズ『鉄腕アトム』放送開始。cf.https://tezukaosamu.net/jp/anime/30.html
○「戦後」はいつ始まったか?
【政治】:第二次世界大戦の終戦記念日は、日本では8月15日。韓国の「光復節」(광복절)や英国の VJ Day も8月15日。
米、仏、露、カナダは9月2日を VJ Day とする。
中華民国、中華人民共和国は9月3日を「中国人民抗日戦争勝利記念日」とする。cf.http://jp.china-embassy.gov.cn/jpn/zrdt_1/201403/t20140303_10433600.htm
【経済】:堺屋太一の「昭和16年体制」論や野口悠紀雄の「1940年体制」論などは、国家総力戦のために大日本帝国政府がたてた戦時経済体制は「戦後」もずっと続いたと主張する。
【文化】:日本人の心のなかでは、1945年よりも前から「戦後」が始まっていた、とする説もある。
昭和15年(1940年)11月6日公開の東宝実写特撮映画『孫悟空』(「エノケンの孫悟空」)は、中国と交戦中だったが、中国人を悪く描いていなかった。
昭和17年(1942年2月28日に作家の坂口安吾が雑誌に発表した『日本文化私観』(青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42625_21289.html)
昭和18年(1943年)9月5日付で新聞連載を終了した吉川英治の歴史小説『三国志』(加藤の私見によれば、最後の、蜀の滅亡と成都陥落の描写は、日本の敗戦を吉川が予想して描写したもの)
昭和19年(1944年) に宝塚大劇場と東京宝塚劇場に閉鎖命令が出されたものの、昭和20年5月、終戦の3ヶ月前から宝塚映画劇場(宝塚小劇場)で公演を再開した宝塚歌劇。cf.https://kageki.hankyu.co.jp/fun/history1934.html
昭和20年(1945年) に公開されたアニメ映画『桃太郎 海の神兵』は、大日本帝国海軍省の全面協力を得た国策映画だったにもかかわらず、内容は平和的。
その他がある。
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