★渡辺貞夫氏の言葉。 p.108「普通だったら、スタンダード持っていきますよね。その方が無難だし、僕らも楽。でも米国はオリジナリティーが重んじられる国。自分たちの音楽を打ち出したい。日本の曲をジャズでやろう。こう決めました。決めたらそれに向かって突き進む。民謡の『ソーラン節』や雅楽の『越天楽』、僕のオリジナル『古都』などを準備しました。冒頭ですよ。下手をすれば、『こいつら何やってるんだ』ってことになりますからね」 p.144「若い頃は、いかに本場のジャズに近づくかに腐心していました。ところが、米国の第一線の奏者たちと共演するようになると、『サダオのサックスは独特の湿り気がある』『サダオの作る曲は日本的情緒がある』など、米国の音楽家にはない個性を指摘されました。結局は自分の音楽が持つ日本的なムードは消しようがないということ。ブラジルやアフリカなど世界各地の音楽に触発されることが多いが、それを忠実に真似て演奏しても、現地の音楽家にはかなわない。日本人の自分というフィルターを通して、いかに多くの人の心に響かせるかが重要なのでしょう。とりたてて日本的な部分を強調する気はないけれど、自分の曲や演奏からにじみ出るものを大事にすればいいと思うようになりました」 ★龝吉敏子氏の言葉。 pp.93-94「以前から、日本人としてのジャズというテーマは私の頭の中にありました。例えば、デューク・エリントンは黒人という自身のルーツがにじむ音楽を作っている。私も同様に、日本という自分のルーツを音楽に反映させたいと考えてきました。それをある程度形にすることができたのが、67年に初演した『すみ絵』という曲です。日本的な流れるような旋律と、ジャズ的なリズムをうまく融合できたと思います。そして、『孤軍』は、日本文化とジャズの融合がはっきりと形になった最初の作品だと思っています」 p.155「エリントンは黒人という自分のルーツに根差した音楽を作り続けた。その姿勢、精神にはとても感銘を受けていました。だから、私も自分のルーツがにじむ音楽を生み出さなくてはならない。そう思うようになったのです。エリントンという羅針盤がなければ、特に『孤軍』で明確になった作曲家としての自分ならではの道は開けていなかったでしょう」 |
読売新聞 2019年10月13日 掲載 書評 秋吉敏子と渡辺貞夫…西田浩著 加藤徹(中国文化学者・明治大教授) ジャズ音楽家の二大巨匠の評伝。戦後の日本を動かした「天の配剤」とも呼ぶべきダイナミズムを、インタビューを交えて、生き生きと描く。 1953年、横浜の進駐軍のクラブでの演奏をきっかけに、20歳の貞夫と23歳の敏子が出会う。後に2人はそれぞれ渡米し、本場の一流のミュージシャンと共演して自分を磨き、道なき道を進む。 敏子は、デューク・エリントンが黒人という自身のルーツに根ざす音楽を作り続けた姿勢に感銘を受ける。米国でビッグバンドを結成し、日本文化とジャズを融合。偏見をはね返し人気と評価を得る。 貞夫は帰国を選ぶ。後進を育成し、日本にいる強みを生かしてブラジルやアフリカを旅し、音楽的視野を広げる。 挿話の数々も興味深い。戦後の進駐軍ジャズの中核を担ったのは旧日本軍の軍楽隊の面々だった。少年時代、進駐軍を見てあこがれた貞夫は、来日したジャズ好きのクリントン大統領の前で演奏して礼状をもらい、感慨にふける。 敏子と貞夫は、80歳代の今もステージに立ち、新しい挑戦を続けている。人生論としても痛快な本だ。(新潮新書、720円) |
【さえり】早速なんですが“日本人らしさ”ってどういうところに出ているんですかね……。 【山先生】まあ、あらゆるところに出ますよね。考え方にも、行動にも、文化にも、作品にも……。人の生き方すべてに。 【さえり】“作品”に出る日本人らしさ、ってどういうのがあるんですか? 【山先生】たとえばジブリ作品、なんかを例えにしてよく話をすることがあるんですが…… (中略) 【山先生】あと日本という国は、すごく“母性的”なんです。 【さえり】日本は母性的? 【山先生】はい。『千と千尋の神隠し』には母性的な側面が多く描かれていて……って、これを話しだしたら7時間くらいかかりますがいいですか? 【さえり】手短にお願いしま…… 【山先生】あの作品に出てくる湯屋のお屋敷をコスモロジー(宇宙)としてみたときに、一番地下のところから鉄道が出て、銭婆(ぜにーば)のいる世界まで続いてますよね。 【さえり】(答える前にはじまったぞ……) 【山先生】銭婆のいる場所に向かうには片道切符しかないんですよね。あの場所は、黄泉の国、つまり死者の国だと考えられます。そして最上階、には湯婆婆(ゆばーば)が住んでますよね。湯婆婆には、溺愛している“坊”という子供がいて、ひどく過保護に育てている。さらに湯婆婆は、どんな客でも受け入れる……“受け入れる”っていうのはそもそも母性的ですよね。つまり、あの世界の中で君臨しているのはまず“母性”なんです。 【山先生】母性が何でも“受け入れること”だとすると、父性は“良いこと・悪いこと”などを区別して「切る」役割なのですが、あの作品には そもそも“大人の男性キャラクターってあんまり出てこないですよね。 【さえり】釜爺(かまじい)とかでしょうか……? 【山先生】そう。あの地下に住んでいて、ちょっと頼りない釜爺しか父性を象徴しそうなものはありませんよね。でも、あのキャラクターは薬草を扱っていることから、どちらかというと“魔女”のような役割を担っていて、“父性”とはあまり言えないような気がします。しかも、湯婆婆が可愛がっている子ども“坊”の父親についても不明なまま。 (中略) 【山先生】日本人ってね、自分ひとりで“わたし”を捉えるよりも、周りとの関わりやその場所との関係などから“わたし”を捉えることが多いんです。関係の中に入って体感しながら理解しようとする、というか。 【さえり】うーんと、どういうことですか? 【山先生】庭園を例にとってよく説明をするのですが……、西洋の庭園と日本の庭園って構造的に大きな違いがあるんです。西洋の庭園は、領主がいる高いところが中心となって、そこから見た時に、全体が見えて、一番綺麗に見えるように作られている。でも、日本の庭園には中心ってないんです。お庭の中を巡り歩いて、次々に変わる景色を楽しむことができるようにできている。 【山先生】これを、心におきかえても一緒なんです。物事を見る時に、中心があって、物事を外から客観的に見る見方と、中に入って体感しながら見ていく見方があって。“わたしって何?”“わたしは日本人らしいの?”の問いの答えも、同じようにゆっくりと自分自身を見つめていく過程の中でしか見つけられないものなのかもしれません。 【さえり】なるほど……。日本のほうが、物事を体感しながら、周りが変化していくのを楽しみながら、物事を理解していくって感じですかね。 |